第21話 形見の行方と、夜の終わり
# 第21話 形見の行方と、夜の終わり
夜の寮は、音が少ない。
だからこそ、わずかな足音も、息を吸う音も、妙に大きく感じる。
廊下の灯りは最低限で、壁のランプが橙色に揺れていた。さっきまでここには人だかりがあって、誰かの囁きが波みたいに広がっていたのに、教師が一喝した途端、潮が引くように散っていった。
残ったのは、連れていかれる足音と、誰も言葉にできない空気。
エドガー先生は、教師に両脇を固められたまま、前を向いて歩かされている。白衣の裾が床を擦るたび、静かな廊下に布の音が残った。
蒼真は一歩だけ前に出た。
「……エドガー先生」
声は、思ったより落ち着いていた。
「アリシアさんのブローチ、返してください」
エドガー先生が、わずかに首を動かす。
眼鏡の奥の目が、蒼真を刺す。
「……そんなものは知らん。持ってない」
即答だった。
迷いのない否定。反射みたいな言い方。
蒼真は教師に視線を向けた。
「念のため、ボディチェックをさせてください」
教師は一瞬だけ眉を上げたが、すぐに頷いた。
「わかった。調べなさい」
「はい」
蒼真はエドガー先生の前に立ち、教師の目の届く範囲で、外側から確認していく。ポケット、内ポケット、白衣の下の動き――。
当然と言えば当然だが、ブローチはない。
手のひらサイズの金属なら、どこかに膨らみが出る。形も硬い。隠すには無理がある。
蒼真は手を引いた。
「……たしかに、持ってはいないですね」
言ってから、少しだけ間を置く。
「わかりました。すみません」
教師に向けて頭を下げる。
「連れていってください」
教師が小さく息を吐いた。
「嘘はついてなさそうじゃな」
その一言が、余計に重い。
嘘をついていない。
つまり、どこかに隠したか、あるいは——最初から別の場所に置いていた。
教師がエドガー先生の肩を押し、歩かせる。
それだけ言って、彼女は目を逸らさない。
教師たちの足音が遠ざかる。
階段の方へ吸い込まれていく。
残された廊下に、沈黙が戻る。
「ちょっと待ってよ!」
最初に沈黙を壊したのはルミエールだった。
「じゃあ、どこに隠したのよ!」
怒りと焦りが混ざった声。
その横で、アリシアが唇を震わせている。
「……お母様の形見……」
掠れた呟き。
彼女はここまで、何度も「大丈夫です」と言おうとして、言えないまま耐えてきた。
土下座をして、泣いて、謝って、それでもまだ終わっていない。
蒼真はアリシアの前に立った。
彼女の視線が落ちている。目の焦点が合っていない。
蒼真は、そっと彼女の頭に手を置いた。
撫でるというより、支えるための手。
「大丈夫ですよ、アリシアさん」
言葉を一つずつ、落ち着かせて置いていく。
「心当たりがあります」
ルミエールが目を見開いた。
「……あるの?」
「おそらく、ブローチは医務室にあります」
アリシアが顔を上げた。
「医務室……?」
「エドガー先生が持ってないなら、医務室にある可能性が高い」
蒼真は、今夜の出来事を思い返す。
あの男は、支配を失いかけたとき、すぐに“証拠”を握ろうとする。
自分が有利に立つために。
でも同時に、失いたくないものは“自分の領域”に戻す。
医務室。
彼の城。
「……こんな時間だけど」
ルミエールが口を開きかけた。
蒼真は先に言う。
「明日にしましょうか、と言いたいところです。でも——」
アリシアの指が小さく震える。
「大切なものです」
蒼真は頷いた。
「今から取りに行きましょう」
ルミエールが即座に頷く。
「……ええ。行くわ」
アリシアも、息を吸って頷いた。
「……はい」
「ただ、このままじゃ医務室には入れません」
鍵が必要だ。
それに、深夜の医務室に生徒だけで入るのは問題になる。
「職員室に行きましょう。事情を説明して、鍵を開けてもらいます」
ルミエールは少しだけ眉を寄せた。
「……また説明?」
「必要です」
蒼真は短く言った。
「ここから先は“手続き”が一番怖い」
感情より、形式。
形式は人を守ることもあるし、傷つけることもある。
俺たちは足音を殺し、階段を下りた。
夜の校舎は、昼と違う顔をしている。
石造りの廊下は冷え、窓の外の闇がガラスに張りついている。遠くで見回りの足音が響くたび、学園そのものが巨大な生き物みたいに呼吸している気がした。
職員室には当直の教師がいた。
灯りの下で書類をめくっていたその人は、俺たちを見るなり目を細める。
「……こんな時間に、君たちは」
蒼真は深く頭を下げた。
「すみません。事情があります」
簡潔に説明する。
エドガー先生が連行されたこと。
脅迫の材料としてアリシアのブローチが使われたこと。
本人が所持していないことを確認したこと。
「……医務室の中に隠してある可能性が高い。今夜のうちに回収したい」
当直の教師は状況を理解すると、すぐに頷いた。
「……君が蒼井くんか」
「はい」
「噂は聞いている」
噂。
こういうのは早い。
教師は鍵束を取り出しながら言った。
「私が同行する。勝手に触らせない。触ったものは全部記録する」
「ありがとうございます」
ルミエールも頭を下げる。
「ご迷惑をおかけしますわ」
アリシアは声が出ず、ただ深く頭を下げた。
鍵が金属音を立て、夜の廊下に小さな響きが散った。
医務室へ向かう。
扉の前で教師が鍵を差し込み、ゆっくり回す。
カチリ。
静かに扉が開いた。
医務室は、昼の清潔さを保ったまま、夜の冷たさをまとっていた。薬品の匂いが薄く漂い、白いカーテンが動かない。
俺たちは足を踏み入れる。
教師が言った。
「探すと言っても、無闇に荒らすな。必要な場所から順にだ」
「はい」
蒼真は頷き、部屋を一周見渡す。
棚。引き出し。薬品庫。机。
そして——机の上。
救急箱。
昼間、蒼真はここに入った。
この部屋で、エドガー先生の“優しさの皮”を見た。
蒼真は机に近づき、救急箱を見た。
「さて……どこから探します?」
口にした瞬間、ルミエールがすぐに返す。
「ちょっと、わかってるんでしょ?」
目が鋭い。
「もったいぶらずに教えなさいよ」
アリシアも、胸の前で手を握り、縋るように言った。
「蒼真さん、お願いします……」
蒼真は一度だけ息を吐いた。
「……ごめん」
もったいぶっているわけじゃない。
確信はある。
でも、確信を言葉にする前に、蒼真は一度“手続き”の方を守りたかった。
教師が見ている。
勝手に決めつけて勝手に探すと、後で問題になる。
「先生、救急箱を見てもいいですか」
教師が頷く。
「許可する。だが丁寧に」
蒼真は救急箱を持ち上げた。
軽い。
箱の大きさの割に、中身の重さが少ない。
救急箱は、ある程度の道具が入っていれば、もっと“詰まった重さ”が出る。
蒼真は底面を指でなぞった。
……わずかに、段差。
爪が引っかかる。
「やっぱり」
ルミエールが身を乗り出す。
「なに?」
蒼真は救急箱を机に置き、底をそっと押した。
パチ。
小さな音。
底板が、外れる。
二重底。
そこに、金属が一瞬だけ光った。
「……あ」
アリシアの声が漏れる。
蒼真は指先でそれをつまみ、ゆっくり持ち上げる。
手のひらサイズのブローチ。
赤みのある宝石が、医務室の灯りを受けて淡く光った。
「やっぱり、ここでした」
ルミエールが息を呑む。
「……こんなところに……」
アリシアは、目を見開いたまま動けない。
蒼真はブローチを机の上に置き、理由を短く説明する。
「エドガー先生が持ってないなら、医務室にある可能性が一番高い」
それだけじゃない。
蒼真は救急箱を軽く叩く。
「この箱、箱の高さのわりに、中の量が合ってなかったんです」
ルミエールが眉を上げる。
「それ、いつ気づいたの?」
「前に医務室に来たとき」
蒼真は淡々と言った。
「いろいろ見せてもらって、救急箱も見た。
高さの割には“詰まってない”って違和感が残った」
違和感は、言葉になる前に残る。
残った違和感は、後で必ず形になる。
アリシアが、恐る恐るブローチに手を伸ばした。
指先が触れた瞬間。
彼女の肩が、ふっと落ちた。
両手で包み込むように持ち上げ、胸に近づける。
「……お母様……」
声が震えた。
涙が、ひとつ。
落ちた。
その涙は、怖さの涙でも、謝罪の涙でもない。
ようやく“終わった”と認めた涙だ。
ルミエールが、静かにアリシアの肩に手を回す。
「……見つかって、よかったわ」
そして、そっと抱きしめた。
アリシアはしばらく抵抗するように身体を硬くしたが、次の瞬間、力が抜けた。
抱きしめ返すことはしない。
でも、逃げなかった。
蒼真は少し離れた場所で、その光景を見ていた。
蒼真がやったのは、探したことと、止めたことだけだ。
傷を癒すのは、蒼真の仕事じゃない。
癒える場所を残すのが、蒼真の仕事だ。
教師が咳払いをして言った。
「……確認する。これは、君の形見で間違いないな」
アリシアは涙を拭いながら、深く頷いた。
「はい……間違いありません」
教師は短く頷き、手帳に何かを書き込んだ。
「押収物ではない。所有者に返却する」
その言葉に、アリシアの肩がもう一度だけ震えた。
医務室を出る。
鍵がかかる音が、夜の廊下に響いた。
帰り道は、来たときより静かだった。
ルミエールは、アリシアの歩幅に合わせて歩く。
アリシアはブローチを胸の前に抱えたまま、何度も息を吸って吐いた。
寮の前に着き、別れ際。
ルミエールが蒼真を横目で見た。
「それより蒼真」
「はい」
「エドガー先生を殴ったとき」
彼女は、わざと真面目な顔で言う。
「“アリシアの分”って、おっしゃってましたわよね?」
蒼真は苦笑した。
「言いましたね」
「私の分は?」
即答。
アリシアが、驚いたように目を丸くしてから、口元を押さえる。
蒼真は肩をすくめた。
「いや……うずくまってる人にもう一発は入れられないでしょ」
「……その埋め合わせは、俺からさせていただきます」
ルミエールは一瞬目を見開いて、次に頷く。
「……約束ね」
「約束です」
アリシアが、ふっと笑った。
「蒼真さんは……誰にでも優しいんですね」
蒼真は首を横に振る。
「優しいわけじゃない」
少しだけ言葉を選んで、続ける。
「裁きを与えるのは、蒼真の仕事じゃないから」
裁くのは、制度だ。
蒼真がやるのは、制度が動ける場所まで事実を運ぶこと。
ルミエールはその言葉を噛みしめるように目を細めた。
「……そういうところ、嫌いじゃないわ」
その言い方が、少しだけ柔らかかった。
蒼真は軽く手を上げ、二人に背を向けた。
自分の部屋へ戻る。
扉を閉めた瞬間。
足の力が、抜けた。
身体が急に重くなる。呼吸が遅れてくる。心臓だけがようやく「終わった」と認めたみたいに、ドクン、と強く鳴った。
「……やばい」
声に出した途端、睡魔が襲ってくる。
制服のままでもいい。
靴を脱ぐのも億劫だった。
蒼真はベッドに倒れ込む。
シーツが冷たくて、気持ちよかった。
目を閉じた瞬間、意識が落ちた。
——その頃。
同じ寮のどこか。
九条リリアが眠る部屋。
静かな闇の中、彼女の知らないところで、
“魔の手”が、そっと伸びようとしていた。
そして蒼真は、そのことをまだ知らない。
ただ、深夜の終わりが、静かに沈んでいくのを感じながら——眠った。




