第17話 招かれざる夜、開かれた罠
# 第17話 招かれざる夜、開かれた罠
夕方の光が、寮の窓から斜めに差し込んでいた。
日が沈みきるには、まだ時間がある。だが、ルミエールとアリシアの部屋には、昼とも夜ともつかない中途半端な静けさが漂っていた。窓の外からは、生徒たちの笑い声や足音がかすかに届く。それらは確かに日常の一部であるはずなのに、この部屋の中だけが、別の時間に取り残されたようだった。
空気が張りつめている、という表現では足りない。
むしろ――三人が、それぞれ違う方向を向きながら、同じ一点だけを意識している。そんな歪な沈黙が、じわじわと広がっていた。
蒼井蒼真は、部屋の中央に置かれた小さな机を挟み、ルミエールとアリシアに向かい合って座っていた。椅子に深く腰を下ろしているわけでもなく、かといって緊張で背筋を張っているわけでもない。力が抜けているのに、崩れてはいない。彼にとっては、いつも通りの姿勢だった。
先に口を開いたのは、その蒼真だった。
「今夜、ルミエールさんの部屋にエドガー先生を呼び出します」
その一言で、部屋の空気がはっきりと変わった。
ルミエールは一瞬、何を言われたのか理解できなかったように目を瞬かせる。次の瞬間、喉の奥から掠れた声が漏れた。
「……え?」
短い一音だったが、その中には驚きも、拒絶も、不安も、すべてが詰め込まれていた。
「ちょっと……蒼真……それ、どういう意味?」
問い詰めるような口調ではあるが、声の芯は震えている。
アリシアも反射的に立ち上がりかけ、慌てて椅子の背を掴んだ。膝がわずかに揺れ、視線が泳ぐ。
「だ、だめです……! そんなの……危険すぎます……!」
自分が原因だと分かっているからこそ、その言葉は切実だった。胸の奥に溜め込んできた恐怖と罪悪感が、一気に溢れ出している。
蒼真は、二人の反応を想定していたかのように、静かにそれを受け止めた。
「大丈夫です」
即答だった。
軽い慰めでも、楽観的な希望でもない。ただ、判断を終えた人間の声音。
ルミエールは一度、深く息を吐き、椅子に座り直した。蒼真を真っ直ぐ見据える。
「……どこが、大丈夫なのよ」
怒りというより、必死に理由を探すような問いだった。
蒼真はすぐには答えない。机の上に置いた指先を見つめ、二度、軽く叩いてから、ゆっくりと口を開いた。
「時間になったら、ルミエールさんとアリシアさんは、この部屋にいてください」
「それは……分かるけど……」
「鍵をかけてください。誰が来ても、絶対に開けない」
きっぱりとした口調だった。命令に近いが、そこには感情がない。
ルミエールの眉が寄る。
「……呼び出すのに、会わないの?」
当然の疑問だ。エドガーを呼び出しておいて、本人は姿を見せない。その矛盾が理解できない。
蒼真は視線を落とし、机を指で二度、軽く叩いた。
「全てが終わったら、分かります」
説明は、それだけだった。
アリシアが、耐えきれないように声を絞り出す。
「……蒼真様……もし、先生が……怒ったら……」
「来ます」
蒼真は、間を置かずに断言した。
その言葉の強さに、二人とも口を閉ざす。否定も反論もできなかった。
「だから、準備をします」
蒼真はアリシアの方へ向き直った。
「アリシアさん。エドガー先生宛てに、手紙を書いてください」
アリシアの肩が、びくりと跳ねる。
「……手紙、ですか……」
「はい」
蒼真は淡々と続ける。
「内容は、こうです」
一拍置いてから、はっきりと読み上げた。
『ルミエール様に睡眠薬を盛りました。
部屋は七〇二号室です。
アリシア』
ルミエールが勢いよく立ち上がった。
「ちょっと!!」
声が部屋に響き、張りつめた空気を切り裂く。
「蒼真、それ……どういうことなの……!」
怒りよりも、恐怖の色が濃い。
蒼真は視線を逸らさず、落ち着いたまま答えた。
「本当に睡眠薬を飲ませるわけじゃありません」
「でも……!」
「だから安心してください」
ルミエールは一瞬、言葉を失ったが、すぐに唇を引き結んだ。
「……当然よ。お願いされても、飲まないわ」
その声には、被害者で終わらないという強い意志が宿っていた。
蒼真は小さく頷き、机の上に置いてあった一本のペンを指さす。
「アリシアさん。こっちのペンで書いてください」
「……はい」
理由は説明しない。
アリシアは震える手でペンを握り、便箋に向かって文字を書き始めた。一文字一文字、確かめるように、逃げ場を失うように。
ルミエールはその様子を見つめ、唇を噛みしめる。
「……蒼真。あなた……本当に、危ない橋を渡っているわ」
「承知しています」
蒼真は視線を上げずに答えた。
「でも、これが一番早い」
書き終えた手紙を、アリシアが両手で差し出す。
「……できました……」
蒼真はそれを受け取り、丁寧に折り畳んだ。
「この手紙は、俺が医務室に置いてきます」
ルミエールが眉を上げる。
「あなたが?」
「はい。二人が今、医務室に行くのは危険ですから」
それ以上の説明はなかった。
蒼真は立ち上がり、手紙を懐に入れる。
「約束してください。今夜は、この部屋から出ない。誰が来ても、開けない」
二人は、同時に頷いた。
◇
夜の医務室は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
白い壁、白い机、整然と並んだ器具。消毒薬の匂いがわずかに残り、空気はひどく澄んでいる。その静けさは安心感ではなく、むしろ“誰にも邪魔されない”という感覚を強く意識させた。
エドガー・フォン・ヴァルテンシュタインは、机の上に置かれた一通の手紙を手に取った。封はされていない。便箋の紙質、筆跡、差し出しの癖――中身を読む前から、差出人が誰かは理解している。
「……ほう」
短く呟き、ゆっくりと視線を走らせる。
読み進めるにつれて、彼の表情は次第に緩んでいった。最初は確認するように、次に納得するように、そして最後には確信に変わる。
「ははは……」
低い笑い声が、誰もいない室内に反響した。
「ついに、やったか……アリシア」
その名前に、労わりは一切ない。思い通りに動いた“結果”を確認しただけの響きだった。
「やはりな。君は、そういう選択をする」
エドガーは椅子に深く腰を下ろし、背もたれに体重を預ける。指を組み、天井を仰いだ。
「失うことを恐れる人間は、必ずこちらに寄ってくる」
それは長年の経験から得た、彼なりの確信だった。人は追い詰められたとき、正しさではなく“安心できる相手”を選ぶ。そしてその安心を与えられるのは、いつだって自分だと信じて疑わない。
「これでルミエールは、さらに私を頼る」
当然の未来を語るように、淡々と口にする。
「怖くて、眠れなくなって……相談できる相手は、私しかいない」
そうなれば、関係は一段階進む。医師と患者。保護者と被保護者。対等ではない立場。
「……いや」
エドガーは小さく首を振った。
「もう、とっくに対等ではなかったか」
彼にとって、ルミエールは“選ぶ存在”ではない。“導く存在”だった。自分の管理下に置き、正しい未来へ連れていくべき存在。
「これで終わりだな。……いや、むしろ始まりか」
唇が歪む。
「一度、こちらに傾いた人間は、もう戻れない」
その確信に、疑いはない。
「……その前に」
視線が宙を彷徨い、別の欲を映す。
「少し、味見をさせてもらうとしよう」
それは衝動ではなく、計算の延長だった。自分がどこまで許されるのか、どこまで踏み込めるのかを確かめる行為。
「どうせ……拒めない」
そう呟いたとき、彼の中で、ルミエールは完全に“対象”へと変わっていた。
◇
深夜。
寮は完全に眠りについていた。昼間の賑わいが嘘のように、廊下にはひとり分の足音だけが響く。
エドガーは苛立った表情で、エレベーターの前に立っていた。
「……故障中?」
掲示を睨みつける。
「なんでこんな時に……」
近くを通りかかった清掃員が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、先生。階段をご利用ください」
「……チッ」
エドガーは舌打ちし、階段へ向かう。
一段、また一段と足を運ぶたび、息が荒くなる。額に滲んだ汗が、不快さを増幅させる。
五階。
六階。
壁に取り付けられた階数表示が、冷たく光る。
そして――七階。
エドガーは足を止め、廊下の奥を見た。
七〇二号室。
「……鍵は、開いているはずだ」
疑う余地などない。
彼はゆっくりと歩き、ドアの前に立つ。
手を伸ばし、ドアノブに触れた。
「……ルミエール」
低く囁いた、その瞬間――
物語は、そこで一度、息を止めた。




