第18話 開かれた罠と、踏み込んだ一線
# 第18話 開かれた罠と、踏み込んだ一線
寮の消灯時刻を過ぎると、建物は別の生き物になる。
昼間は生徒の声が跳ね返っていた廊下も、深夜には音を飲み込む暗い管のように伸びている。扉の向こうには、数え切れない寝息。規則正しい呼吸が重なって、壁の内側でひそひそと波を打つ。
それらすべてを踏みつぶすように、足音が一つ。
エドガー・フォン・ヴァルテンシュタインは、薄暗い階段室を上っていた。
先ほどまで医務室の静寂に浸っていた頭が、階段の段差とともに現実へ引きずり戻される。息が熱くなり、足首に小さな重みが溜まる。苛立ちが、その分だけ増えていく。
「……なんで、こんな時に……」
エレベーターが動かない。
ただそれだけのことが、今夜に限っては許し難かった。自分は待たされる側ではない。呼ばれたなら、当然、迎え入れられる側だ。
だが、階段は言い訳をしてくれない。
一段。
また一段。
踊り場に差し掛かるたび、壁に掛けられた階数のプレートが目に入る。
――七階。
そこから先、彼は無意識に“部屋番号”を追い始めていた。
廊下の角を曲がる。
プレート。
**705**
「……」
足が止まらない。
次。
**704**
次。
**703**
数字は、彼の期待をきれいに形にしていく。
ここまで来ると、もう引き返すという選択肢は存在しない。
汗が背中を伝っても、息が切れても、それは“面倒”であって“障害”ではなかった。
(呼ばれたんだ)
都合のいい確信が、頭の中で何度も反芻される。
呼び出された。頼られた。選ばれた。
その三つが、彼の胸の奥をじわじわと温め、同時に、理性の縁を削っていく。
それは、階段で削られた体力を補って余りある、甘い確認作業だった。
(もうすぐだ)
心の中で呟いた瞬間、喉の奥に乾いた熱が灯る。
(ルミエール)
名前を思っただけで、胸の辺りが妙に軽くなる。
呼ばれた。
呼んだのは、あの少女だ。
自分の管理下で、きちんと育てるべき光。
(ようやく、理解したか)
恐怖の中で、人は正しさよりも「安心」を選ぶ。
そして、その安心を与えられるのは、自分しかいない。
エドガーは、目当ての扉の前で足を止めた。
プレートは――
**702**
薄暗い廊下に、その数字だけが妙にくっきりと浮かんで見えた。
扉は閉まっている。
だが、鍵穴の周りには、何かの抵抗があった痕跡がない。乱暴にこじ開けた跡も、魔術的な防犯装置の反応もない。
「……ふん」
エドガーは、ほんのわずかに口角を上げた。
ノブを回す。
抵抗は、ほとんどなかった。
鍵は、かかっていない。
扉が静かに開く。
室内は暗かった。
闇が、息を潜めている。
カーテンの隙間から、月明かりが薄い刃のように差しているだけだ。机やベッドの角がぼんやりと浮かび、影がその下に溜まっている。
人の気配は、薄い。
――いや、正確には。
“いるはずの気配”が、ない。
それが彼の胸をくすぐった。静けさは不安ではなく、招きの合図のように思えた。
すぐに分かった。
(アリシアはいない)
エドガーは一瞬だけ、部屋を見回した。
(……最初から、いないか)
それは逃げたという印象ではなかった。
むしろ、最初から姿を消し、ルミエールと二人きりにするための――そういう配置だと、彼は都合よく解釈した。
(賢い判断だ)
余計なものは最初から排除しておくに限る。
彼は、部屋の中へ一歩だけ踏み込んだ。
床板が、きしりと小さく鳴った。
その音さえ、夜の規則に吸われて消える。
暗闇の中で、輪郭が浮かぶ。
ツインベッド。
片方は整っていて、もう片方は毛布が僅かに盛り上がっている。
まるで誰かが、寝息を立てているような、柔らかい膨らみ。
エドガーの目が細くなる。
(……ルミエール)
胸の奥に、熱が溜まっていく。
彼は、ベッドに向かって歩きながら、部屋の中にある“痕跡”を拾った。
壁に掛けられた制服。
丁寧にブラシがかけられた生地。
机の上の小さな置物。
読まれかけの本。
髪を留めるリボン。
――生活。
生きている匂い。
エドガーは、制服に手を伸ばした。
指先で、布をなぞる。
それだけで、胸の熱が増す。
そして――
思わず鼻先を近づける。
匂いを嗅ぐ。
わずかな香り。
洗剤と、体温と、部屋の空気。
それが混ざって、彼の中の理性を薄く削る。
「……」
息が、少し荒くなった。
自分でも分かる。
それでも、止まらない。
興奮が、抑えきれない。
彼は、ベッドの脇に立った。
毛布の膨らみを見下ろす。
片手を伸ばし、躊躇なく、毛布の端をつまむ。
「ルミエール……」
囁きは、吐息と一緒に闇へ溶けた。
「今、私の手の中に――」
毛布を、捲り上げる。
その瞬間。
――ぱち。
乾いた音。
部屋の電気がついた。
光が、暗闇を一瞬で押し退け、隅々まで白く照らし出す。
エドガーは反射的に目を細めた。
視界が慣れた瞬間、彼の目に飛び込んできたのは――
ベッドの中身。
そこにあったのは、少女の身体ではなく。
毛布の下に押し込まれた、**枕**だった。
「……!!」
理解が追いつくまでに、ほんの一拍の空白があった。
枕――という事実が、嘲笑の形をして目に突き刺さる。
同時に、胸の奥で何かが冷たく跳ね、遅れて怒りが熱になって噴き上がる。
血の気が、一瞬で引いた。
同時に、背筋が熱くなる。
馬鹿にされた。
愚弄された。
その思考が立ち上がるより先に、入口付近から声がした。
「ちなみに、その制服や置物は」
淡々とした声。
だが、夜の部屋では異様に通る。
「ルミエールさんから、お借りしてきたものです」
電気のスイッチのすぐ横。
扉の近く。
そこに、蒼井蒼真が立っていた。
まるで最初から、そこにいたかのように。
エドガーの口が開く。
「……なぜ、君がここに」
声が掠れた。
「ルミエールの部屋に……なぜ君がいるんだ」
蒼真は、答える前に一度だけドアの方へ視線を投げた。
廊下の暗さ、遠くの物音、誰かが寝返りを打つ気配。
――ここは、寮だ。
その確認を、わざとエドガーに突きつけるようにしてから、蒼真は静かに口を開いた。
蒼真は、表情を変えない。
ただ、目だけが冷えている。
蒼真は、枕のあるベッドに一度だけ視線を向けてから、静かに言った。
「……よく見てください」
「ルミエールさん、いませんよ」
言い終えた後、蒼真は一歩も動かない。
スイッチのすぐ横、扉から最短で廊下へ逃げられる位置。
攻めるためではなく、逃げ道を塞がれないための立ち位置だった。
エドガーは、毛布の下の枕を見て、再び顔を歪めた。
「……っ」
怒りが、遅れて噴き上がる。
「ルミエールをどこに隠した!!」
蒼真は、肩をすくめるでもなく、ただ事実を言う。
「隠すなんてしてませんよ」
蒼真は、エドガーの背後――開いた扉の外に目をやった。
「さっきまで、そこにあったはずのプレート」
一瞬の沈黙。
「……七〇二、じゃない」
蒼真は淡々と続ける。
「ここは**六階**です」
「今は、**六〇二号室**」
言葉だけで、景色を組み替える。
「ルミエールは、今もちゃんと」
「アリシアさんと一緒に、七〇二にいるでしょうね」
エドガーの眉が跳ねる。
「……何?」
「それに――来たのは、先生ですよね」
蒼真は、語尾を強めない。
だからこそ、言葉が刺さる。
エドガーは、蒼真を睨み据えた。
その目に、焦りが混じる。
「……だましたな!!」
低い声。
握りしめた拳が震えている。
蒼真は、首を横に振った。
「だますなんて、人聞きが悪い」
抑えていた息が、そこで一つだけ漏れた。
怒りというより、堪えきれなくなった現実の重さが、声の底に混ざる。
声が、ここではじめて強くなる。
「恐喝の方が、よっぽど悪いと思いますよ」
一歩、踏み出す。
「アリシアさんが、どれだけ苦しんだか」
「ルミエールさんが、どれだけ泣いたか」
はっきりと、叩きつけるように言った。
「あんたは、それを知ってるのか!」
エドガーの呼吸が荒くなる。
この状況に、理屈が追いつかない。
いや、追いつきたくない。
彼は、蒼真の顔を改めて見た。
その無表情が、苛立ちを増幅させる。
「……蒼井くん、と言ったかな」
言い方を丁寧に整えようとしながら、失敗している。
苛立ちが滲み出る。
「さっきから、ずっと思っていたんだが」
蒼真は何も言わない。
エドガーは一歩踏み出した。
「ルミエール、ルミエールって……」
歯の隙間から、言葉がこぼれる。
「**僕の愛しきルミエールを、呼び捨てにしないでくれるかな**」
蒼真の目が、わずかに細くなる。
彼は、怒鳴らない。
だが、声の温度が変わった。
「……先生」
“先生”という呼び方が、今は皮肉に聞こえた。
「呼び捨てが嫌なら、別に構いません」
蒼真は、ただ、次の言葉を置く。
「でも――ここに来た理由は、変わりません」
エドガーの顔が歪む。
自分が言葉で支配できない。
それが、何より気に入らない。
反射的に声が大きくなる。
「君は……何がしたい!」
蒼真は、声を張り返さない。
しかし、その静けさが、逆に圧になった。
「先生こそ、何をしてたんですか」
淡々と。
「興奮して、制服に鼻を近づけて」
エドガーの喉が鳴る。
それは、言葉にされるはずのない行為だった。
蒼真の視線が、枕のあるベッドへ一瞬だけ落ちる。
「……寝てると思って、毛布を捲った」
その事実を口に出されただけで、胃の奥がひっくり返る。
エドガーは、言い返そうとして、言葉を見つけられなかった。
その間。
廊下の奥で、何かが動いた。
足音。
ひとつではない。
複数の足音が、こちらへ近づいてくる。
エドガーの耳が、音を拾う。
夜の廊下は静かだ。
だから小さな音でも、すぐに広がる。
蒼真は、わざと少しだけ声を大きくした。
「……先生」
呼びかけは、部屋の外にも届く。
「ここは寮です」
そして、一拍置いて。
「今の行動、誰に見られてもおかしくない」
廊下がざわつく。
扉の向こうに、人の気配が集まる。
「え、なに……?」
「今の声……蒼井くん?」
ひそひそとした声が、波のように重なった。
エドガーは、反射的に扉の方を見る。
誰かが覗いている。
誰かが息を呑んでいる。
そして――
人だかりの奥。
廊下の灯りの中に、二つの影が見えた。
金髪が揺れる。
赤みがかった金髪が、その隣で固く結ばれた唇とともに震えている。
ルミエール。
アリシア。
エドガーの瞳が、わずかに見開かれた。
「……!」
彼の中で、何かが音を立てて崩れ始めた。
しかし、その崩壊が“何であるか”を理解する前に――
廊下のざわめきが、さらに濃くなる。
誰かが勇気を出して、扉の隙間から中を覗き込もうとしている。
誰かが「先生?」と呟き、別の誰かが「医務室の……」と言いかけて言葉を飲み込む。
――噂は速い。
だが、今夜は噂になる前に、“現場”が見えてしまっている。
エドガーの肩が、ほんのわずかに強張った。
視線が揺れ、逃げ道を測るように廊下の方向を探る。
その先に、ルミエールが立っている。
光の中で、彼女は逃げていなかった。
胸の前で手を握りしめ、唇を噛み、目だけは逸らさずに――この場を見届けようとしている。
アリシアも同じだ。
赤みがかった金髪が震えているのに、足だけは一歩も退かない。
世界はもう、この部屋だけのものではなくなっていた。
そして、エドガーが“いつもの顔”に戻る前に。
この夜は、誰かの記憶として刻まれる。




