第14話 医務室の静脈と、怒りの告白
# 第14話 医務室の静脈と、怒りの告白
朝。
寮の窓から差し込む光は、昨日までより少しだけ強くなっていた。季節が進んでいる証拠だ。蒼真はまだ寝起きの重さを肩に残したまま、ベッドの端で片膝を立て、ネクタイ代わりの細い紐を指先で弄んでいた。
「……蒼真、目の下、ちょっと暗いよ」
背後から、気づけばそこにいるような声。
ユリウスは、蒼真の肩越しに覗き込み、心配そうに眉を下げた。距離が近い。近すぎる。いつも通りだ。
「寝不足?」
「違う」
「じゃあ、考えごと?」
「……違わない」
否定しきれずに答えると、ユリウスはぱっと笑って、蒼真の髪の一房を指で摘まんだ。
「ほら、ここ。寝癖。探偵さん、身だしなみは大事だよ」
「探偵じゃない」
「えー。学園の女子たち、みんなそう呼び始めてるのに」
ユリウスは無邪気に言ってから、急に真面目な顔になる。
「昨日、ルミエールさんと何かあった?」
「……何か、というか。詳しくは言えない」
蒼真が言い淀むと、ユリウスはふわりと息を吐いて、肩をすくめた。
「言いたくないなら、いいよ。でもさ」
それから、にこっと笑う。
「蒼真が誰かのために考えすぎてるときって、顔が固くなるんだ。……僕、そういうの、放っておけない」
また距離が近い。
「放っておけ」
「やだ」
即答。
蒼真はため息をひとつつき、ユリウスの額を指で軽く押して距離を作った。
「……今日は、普通に授業に出る。いいな?」
「うん。でも、何かあったらちゃんと呼んでね。蒼真が無茶すると、僕、泣く」
「泣くな」
「泣く」
変わらない朝のやり取り。緩んだ空気が、胸の奥の緊張を少しだけほどく。
けれど――その穏やかさは、廊下に出た瞬間に壊れた。
午前の授業は、そのまま何事もなく過ぎていった。魔法理論、歴史、実技演習。蒼真はいつも通り板書を取り、必要最低限の受け答えだけをしていたが、意識の半分は別のところにあった。昨夜の会話、今朝の表情、胸に残る違和感。それらを、論理ではなく感覚の層で反芻していた。
昼休み、ルミエールの姿は遠くに見えただけだった。委員長として人に囲まれ、笑顔を作っている。だが、その笑顔はどこか硬い。蒼真は声をかけなかった。今は、距離を保つべきだと直感していた。
午後の授業が終わり、学園全体に放課後特有の緩んだ空気が流れ始めた、そのときだった。
◇
放課後の校舎内回廊。
授業を終えた生徒たちが部活や寮へ向かい、回廊には少し騒がしい空気が漂っている。笑い声や、下駄箱へ急ぐ足音が反響していた。だが、蒼真の視界の端に、いつもの「穏やかな光」とは違う、鋭いものが走った。
ルミエールだった。
ものすごく怒った顔で、足早に廊下を進んでいる。いつも整っている金髪も、今日は少し乱れて見えた。胸元のリボンを留め直す余裕すらないのか、制服の着こなしにも僅かな乱れがある。気品というより、感情が前に出ている。
「……」
蒼真が思わず足を止めたその直後。
少し遅れて、アリシアが走ってきた。普段は控えめな彼女が、息を切らしながら必死に追いすがっている。
「ルミエール様、お待ちください!」
「もう……我慢ならないの!」
ルミエールは振り返りもせずに言い放ち、そのまま曲がり角を駆け抜ける。
アリシアは追いかけながら、蒼真に気づくと一瞬だけ立ち止まり、ほんの小さく会釈した。目が合う。その目に焦りが浮かんでいる。
「蒼真さま……」
呼びかけは、声になりきらないまま途切れた。今は言っている場合じゃない、という空気。
蒼真は即座に判断した。
ただ事じゃない。
足が勝手に動き、二人の後を追っていた。
◇
日が傾き始め、窓から差し込む光が橙色に変わるころ。
辿り着いた先は、医務室だった。
白い扉の前で、蒼真は足を止める。中から、ルミエールの声が聞こえた。怒りで震える、普段とは違う声。
蒼真は、扉に手をかけなかった。
――入らない。
ここで突入すれば、場が変わる。ルミエールの言葉も、相手の反応も、別の形になってしまう。
蒼真は廊下の壁際に寄り、耳を澄ませた。
「あなたでしょ!」
扉越しに聞こえる声が、鋭く刺さる。
「こんな気持ち悪い手紙と……こんな写真を! 毎回、送りつけてくるのは!」
一拍。
男の声が返ってくる。落ち着いた、やけに整った声。
「……なんのことだい?」
わざとらしいほど穏やかだ。
「許嫁にこんなものを送る必要ないだろう。いずれ私のものになるんだから」
ぞわり、と背筋に冷たいものが走った。
所有。
言葉の端に、疑いようのない前提がある。
「……その言い方が、気持ち悪いの!」
ルミエールが噛みつく。
男は、怒りに反応しない。
「どうした、ルミエール。ここは医務室だぞ。静かにしなきゃだめじゃないか」
場を理由に、感情を押さえつける。
蒼真は、その手口の構造を頭の中で切り分けた。
正しさ。
礼儀。
規律。
それらを盾にして、相手の“拒否”を無効化する。
「あなたとは結婚できないわ……!」
ルミエールの声が、今度は痛いほど切実になる。
「私、あなたを好きになれないの!」
男は、ため息をついたようだった。
「なにを言っている。結婚することは運命で決まっているんだ」
淡々と。
「なかったことになんて、できない」
運命。
それは、議論を止める言葉だ。理由の提示を放棄し、同時に反論の余地を奪う。
「しないったら、しないわ!」
ルミエールが叫ぶ。
「私には……結婚したい人ができたの!」
廊下の空気が一瞬固まった。
男の声が少し低くなる。
「最近できた恋人のことじゃないだろうね」
その言い方には、軽蔑が混じっていた。
「あんなどこの馬の骨かわからないやつ……やめておけ」
次の瞬間、ルミエールの怒りが爆ぜる。
「あなたより、ずっと私を見てくれるし!」
「私のことを考えてくれる方よ!」
ガタン、と音がして、扉が勢いよく開いた。
ルミエールが飛び出してくる。
蒼真は反射的に一歩引いた。ルミエールは蒼真がそこにいることに気づく余裕もない。頬が濡れていた。怒りの涙か、悔しさの涙か――どちらにせよ、彼女の誇りが削られた証拠だった。
遅れてアリシアが出てくる。
「ルミエール様……!」
アリシアはルミエールの背に手を伸ばし、何も言わずに追いかけた。すれ違いざま、蒼真にもう一度だけ目を向ける。その目は「お願い」という形をしていた。
蒼真は、ゆっくりと息を吸った。
放課後という時間帯。医務室は比較的静かで、人の出入りも少ない。だからこそ、あの場所を選んだのだとしたら――それ自体が、彼女にとって相当な覚悟の表れだった。
――ここからが、本番だ。
◇
蒼真は、何食わぬ顔で医務室の扉を叩いた。
「失礼します」
返事は早かった。
「どうぞ」
中は薬草と消毒の匂いが混じった、清潔な空間だった。棚には瓶が整然と並び、簡易ベッドがいくつか置かれている。医療用の魔法陣が床に刻まれ、壁際には傷の治療用らしい器具が揃っていた。
そして、白衣に似た上着を羽織った男が、机の前に立っていた。
落ち着いた佇まい。整った顔立ち。視線は冷静で、笑みは柔らかい――はずなのに、どこか温度を感じない。
「ごめんね、騒がしくて」
男は穏やかに言った。
「さっきの子は、私の許嫁なんだよ」
蒼真は驚いたふりをして頷く。
「そうだったんですか」
「昔はね、聞き分けがよくて……僕の言うことには何でも聞いてくれる、いい子だったんだけど」
言いながら、男は肩をすくめる。その仕草が自然すぎて、言葉の異常さが薄められる。
「『君は僕だけを見ていればいい』って言えば、ちゃんと頷いた。『他の男と話す必要はない』って言えば、距離を取った。……可愛かったよ」
可愛い。
その単語に、蒼真は内心で眉をひそめた。人の意思を削って出来上がる従順さを、“可愛い”と呼ぶ。
男は、蒼真の顔色をうかがうこともなく続ける。
「でも最近は、ちょっと反抗期かな」
反抗期。
拒否を、成長ではなく不具合として扱う言い方だ。
蒼真は表情を変えない。
「……それで、君はどうしたんだい? 怪我か?」
「いえ。怪我というほどじゃないんですが」
蒼真は適当に腕をさすり、軽い打撲のように装った。
「一応、医務室ってどんな運用なのか気になって」
男は興味深そうに首を傾げる。
「運用?」
「夜間もやってたりするんですか」
さらりと聞く。質問の中身は、答えさえ得られればいい。
「もちろん。緊急時はいつでも対応するよ。夜間は当番の生徒と、私が交代で見回りもしている」
「当番がいるんですね」
「うん。怪我や体調不良は、競技訓練の多い学園では日常だからね。……君も何か困ったことがあれば、遠慮なく来るといい」
言葉は親切そのものだ。
だが、蒼真はその視線の置き方に注目していた。
こちらを見ているようで、どこか“計測”している。
医者としての観察――そう言い訳できる範囲に収まっているが、同時に、相手を「管理対象」にする眼差しでもある。
「ありがとうございます」
蒼真は頭を下げ、さらに軽く情報を引き出す。
「最近、夜に呼ばれることって多いんですか?」
「多いね。訓練で無理をする子もいるし、精神的に不安定になる子もいる。……特に、繊細な子ほどね」
繊細。
その言い方が、さっきの「反抗期」と同じ匂いを持っていた。
相手の“拒否”や“怒り”を、性格や状態の問題にすり替える。
蒼真は、必要以上に突っ込まない。
今日の目的は確定だ。
――この男は、ルミエールの世界に深く入り込んでいる。
それだけで十分。
「助かりました。授業に行きます」
蒼真は踵を返し、扉へ向かった。
そして、手をかけたところで、ふと思い出したように振り返る。
「あ、名前言ってませんでしたね」
男が目を上げる。
「蒼井蒼真といいます。……ルミエールさんの彼氏です」
空気が変わった。
男――エドガー・フォン・ヴァルテンシュタインの目が、ほんの一瞬だけ大きく開かれる。驚きが、仮面の隙間から覗いた。
「……君が」
声は相変わらず穏やかだ。だが、その穏やかさの奥で、何かが静かに蠢いた。
蒼真は微笑みもせず、ただ淡々と会釈する。
「では」
扉を閉める。
廊下に出た瞬間、蒼真は小さく息を吐いた。
(驚いた。――よし)
驚きは、予測を崩した証拠だ。
相手が本当に“無関係”なら、あの反応は出ない。
蒼真は歩き出した。向かう先は、もう決まっている。
探偵としての調査よりも先に。
今は――泣いて飛び出していった彼女を、放っておけない。
ルミエールの部屋へ。
廊下の光が、やけに眩しかった。




