第13話 同じベッドと、見えない檻
# 第13話 同じベッドと、見えない檻
ルミエールの部屋の扉が、静かに閉まった。
カチリ、と小さな音がして、外界と切り離される。その小さな音が、今夜という時間を区切る合図のようにも思えた。つい先ほどまで、食堂に漂っていた張りつめた空気――格式、視線、沈黙。それらが嘘のように遠のき、代わりにこの部屋だけの、私的な静けさが満ちていく。
部屋は上品だった。過剰な装飾はなく、淡い色調でまとめられている。家具は必要最低限だが、どれも丁寧に手入れされ、長く使われてきた痕跡がある。学園の寮とは違い、ここは「住まう」ための場所だ。窓辺に置かれた小さな花瓶や、壁に掛けられた絵画からも、住む者の性格――慎み深く、それでいて美しいものを愛する心が静かに伝わってくる。
ルミエールは扉に背を預けるようにして、一度、深く息を吸った。
「……ごめんね」
振り返って向けられたその声は、夕食の席で見せていた委員長としての、貴族令嬢としての毅然さとはまるで違っていた。どこか幼く、そして確かな疲れを含んでいる。
「何も言わずに、両親との食事に付き合わせて」
「気にするな。事情があるんだろ」
蒼真は簡潔に答えた。慰めるでもなく、問い詰めるでもない。その距離感が、かえってルミエールの胸を少しだけ軽くした。
ルミエールは部屋の中央まで歩み寄り、そこで足を止める。背筋を伸ばしたまま、しばらく言葉を探すように視線を彷徨わせてから、意を決したように口を開いた。
「実は……許嫁がいてね」
その言葉は、部屋の中で不思議なほどはっきりと響いた。
「わたし、どうしても……その人とは結婚したくないの」
蒼真は表情を変えずに頷いた。驚きはなかった。今夜の流れ、その前後の空気――すでに心のどこかで予期していた事実だ。
「どんな人なんだ?」
問いかけは短く、落ち着いている。感情を挟まないその声音だからこそ、ルミエールは胸の奥に溜め込んでいたものを、少しずつ言葉にできた。
「同じ学園の人なんだけど……」
そこで一度、言葉が途切れる。眉がわずかに寄り、唇がきゅっと結ばれた。
「わたしのやることに、何でもいちゃもんをつけるのよ。『貴族ならこうあるべきだ』とか、『それは相応しくない』とか……」
吐き出すように言ってから、ルミエールは一度、視線を落とした。
「着る服も、自由にさせてくれないの。『君にはこれが似合う』とか、『それは似合わないから着てはいけない』とか……」
まるで台本をなぞるような口調だった。何度も、何度も、同じやり取りを繰り返してきた証拠だ。
蒼真は何も言わずに聞いていた。遮らない沈黙が、彼女に続きを促す。
「一緒にいると……息苦しくて」
その言葉は、かすれるほど小さかった。
「自分が自分じゃなくなっていく感じがするの。正しいはずの言葉で、少しずつ囲われていくみたいで……」
ルミエールは、無意識のうちに胸元に手を当てていた。
「蒼真みたいに、洋服を褒めてくれたことなんて、一度もないわ」
少し間を置き、視線を上げる。
「だから……今朝、褒めてくれたとき、本当に嬉しかったの」
声が、わずかに震えた。
「今日、蒼真と行ったあのカフェもね……あの人は、一緒に行ってくれなかったわ」
拗ねたような響きと、諦めが混じる。
「『そんな場所は君には相応しくない』って。いつも、そうやって決めつけるの」
そう言ってから、ルミエールは蒼真の方へ、そっと体を寄せた。肩が触れるか触れないか、その曖昧な距離。だが、そこにあるのは甘えよりも、安心を求める気配だった。
「……蒼真は、優しいね」
囁くような声とともに、軽くもたれかかられる。蒼真は一瞬だけ体を強張らせたが、拒まず、その重みを受け止めた。
やがて、ルミエールは小さく息を吐き、最後の一言を絞り出す。
「これが、決定的ね」
顔を上げ、はっきりと言った。
「私を見る目が……気持ち悪いの」
言い切った瞬間、張り詰めていた何かが、ふっと抜け落ちたようだった。
蒼真は一瞬、目を瞬かせてから、わずかに口元を緩めた。
「ルミエールも、感情でものを言うんだな」
「だって……」
ルミエールは小さく頬を膨らませ、それから真剣な目で蒼真を見つめる。
「結婚には、直感も必要でしょ?」
そして、ほんの一拍置いて、静かだが迷いのない声で告げた。
「私は、蒼真となら……本当に結婚してもよくってよ」
しん、と部屋が静まり返った。
互いに視線を外すことができず、気づけばじっと見つめ合っている。頬が熱い。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
「……ルミエール」
蒼真は一度、言葉を探すように息を整える。
「まだ結婚は早くないか。会って、数日だろ」
「そ、そうよ!」
ルミエールは慌てたように声を上げた。
「たとえば、の話よ! もう……蒼真ってば、何を言わせるのかしら」
照れ隠しの早口。再び、沈黙が落ちる。
蒼真はその沈黙を破るように、低い声で言った。
「その人が、ストーカーってことはないか」
ルミエールは驚いたように目を見開き、それからゆっくりと頷いた。
「……うん。十分、あり得ると思う」
だが、それ以上は言わなかった。
「ね……今夜は、このあたりにして……もう寝ましょ」
◇
しばらくして、ルミエールは着替えて戻ってきた。
淡い色のパジャマは可愛らしく、昼間のワンピースとはまるで印象が違う。貴族令嬢という肩書きを忘れさせる、年相応の柔らかな雰囲気だ。
蒼真は視線を逸らしながら言った。
「俺は床で寝るから」
「いけません」
即答だった。
「お客様を床で寝かせるような、そんな失礼なことはいたしません」
胸を張りながらも、耳が赤い。
「ベッド、広いし……一緒に寝ましょ。大丈夫よ」
蒼真は一瞬、言葉を失った。
(理性を保て……)
そう自分に言い聞かせながら、結局は頷くしかなかった。
◇
灯りが消され、二人は同じベッドに入った。
きちんと距離を保ち、互いに背中を向ける形。それでも、同じ空間にいるという事実だけで、心臓が落ち着かない。
しばらく、布団の擦れる音だけが聞こえていた。
「……ね、蒼真」
小さな声が、闇の中から聞こえてくる。
「どうした」
「その……寝る前に、ひとつだけ、お願いしてもいい?」
間があった。ためらいと、勇気が混じった沈黙。
「……手、繋いでもいい?」
蒼真は一瞬、言葉を失った。顔が熱くなるのが分かる。
「……それで、落ち着くなら」
そう答えると、布団の中でそっと動く気配がした。
指先が触れ、次の瞬間、控えめに、しかし確かに手が握られる。
(あ……)
柔らかく、少し冷たい指。
(男性と同じベッドなんて、初めてで……)
ルミエールは内心でそう思いながら、必死に呼吸を整えていた。心臓の音がうるさい。けれど、繋いだ手の温もりが、不思議と不安を静めてくれる。
蒼真もまた、手を引こうとはしなかった。ただ、力を入れすぎないよう意識しながら、そのまま握り返す。
やがて、ルミエールの呼吸がゆっくりと整っていくのが伝わってきた。身動きが取れない。
やがて、蒼真は隣の呼吸が規則正しくなったことに気づいた。
(寝た、か)
蒼真は天井を見つめたまま、思考を巡らせる。
許嫁。
学園内。
行動への過干渉。
服装の制限。
視線の違和感。
そして、写真や手紙。
(偶然じゃない)
善意で守っているつもり。正しさを盾にした支配。それが一番、厄介だ。
(これは……恋愛じゃない。事件だ)
◇
朝、蒼真は違和感で目を覚ました。
温かい。妙に柔らかい感触が腕に当たっている。
恐る恐る視線を下ろすと、ルミエールが無意識のまま蒼真を抱き寄せていた。寝相のせいで距離は近く、はだけたパジャマの隙間から柔らかな谷間が見えてしまう。
(動けない……)
身動き一つで、目を覚ましそうだ。
そのとき、ルミエールがゆっくりと目を開けた。
一瞬、状況を理解できず――次の瞬間、顔が真っ赤になる。
「……っ!?」
二人は同時に飛び退き、反対側を向いた。
「ご、ごめんなさい!」
「い、いや……俺も……」
沈黙が、朝の光の中に溶けていく。
◇
朝食の席は、穏やかだった。
だが、どこか張りつめている。両親は何も言わないが、すべて察しているような視線を向けてくる。
アレクシスの目が、蒼真を静かに測っていた。昨夜とは違う、より深い観察の色。
ルミエールはいつもより大人しく、それでも、どこか安心した表情をしている。
◇
屋敷を後にし、馬車で学園へ戻る。
窓の外を流れる景色を見ながら、蒼真は心の中で決めていた。
(恋人の問題じゃない)
(――事件として、引き受ける)
馬車は静かに走り、やがて学園の門が見えてくる。
物語は、確実に次の局面へ進もうとしていた。




