第90話 試験勉強という名の難事件(2)
第90話 試験勉強という名の難事件
蒼真は自席へ戻り、しばらく机の上の教科書を見つめた。
三人に断られた。
ルミエールも駄目。
フレイアは論外。
セレナも今回は無理。
残る候補は、別クラスのリリア。
彼女なら理論にも強い。図書室にいる可能性も高い。
ただし、先日の図書室での出来事が頭をよぎる。
キス。
囁き。
嫉妬。
「エルミナ先輩だけ特別扱いしたら怒るから」。
蒼真は額を押さえた。
「……頼みに行くのが怖いな」
しかし、背に腹は代えられない。
昼休み。
蒼真は図書室へ向かった。
◇
図書室は、いつもより混んでいた。
試験前というだけあって、普段は見かけない生徒まで席を埋めている。机には教科書やノートが広げられ、小声で問題を出し合う生徒もいる。
静かなはずの図書室にも、試験前特有の緊張感が満ちていた。
蒼真は奥の席を探す。
いた。
九条リリア。
黒髪に眼鏡。机の上には大量の本とノート。昨日手に入れた《古代薬草術大全》だけではなく、魔法理論書、術式解析の参考書、精霊学の資料まで積まれている。
リリアは真剣だった。
普段なら蒼真を見つけると、少し意地悪な言葉を投げてくるはずだ。
だが、今は違う。
ペンを走らせ、時折眼鏡を押し上げ、別の本を開いて何かを確認している。
完全に試験モード。
蒼真は近くまで行きかけて、足を止めた。
話しかければ、答えてくれるかもしれない。
だが、邪魔をするのは違う気がした。
リリアも自分の試験がある。
別クラスとはいえ、試験範囲は重なる部分が多いはずだ。
蒼真は静かに向きを変え、少し離れた席に座った。
「……今はやめておこう」
自分の教科書を開く。
まずは魔法理論。
これはまだいい。
六属性、魔力の流れ、基礎術式。現象として考えれば、理解できる部分が多い。現代科学とは違うが、条件と結果の関係を追えば整理できる。
次に魔法陣学。
保持環、導魔線、核、制御符、魔力節点。
これは比較的得意だ。
魔法陣は構造だ。
構造には目的がある。
目的が分かれば、ある程度読める。
問題は暗記系だった。
魔法史。
教科書を開いた瞬間、蒼真は眉間にしわを寄せた。
初代ノクティス王。
第二次魔導紛争。
北部精霊協約。
銀翼騎士団の解体。
古代召喚陣研究禁令。
「……誰だよ、この王様」
思わず呟いてしまう。
隣の席の生徒がちらりと見た。
蒼真は小さく頭を下げ、再び教科書に向き合う。
事件の登場人物なら覚えられる。
なぜなら、それぞれに動機と行動があるからだ。
だが、歴史上の人物は、蒼真にとってまだただの名前の羅列だった。
次に精霊学。
精霊とは自然現象に宿る意思。
契約条件は魔力、相性、意思、信頼。
精霊視の条件。
エルフと精霊の関係。
内容は面白い。
だが、試験対策となると話が変わる。
「王級精霊の分類……古代精霊の代表例……契約失敗例……」
蒼真は頭を抱えた。
さらに魔法植物学。
葉の形、根の性質、毒性、採取時期、魔力反応。
エルミナが話していた時は面白かった。
だが、教科書の表として並ぶと、途端に無機質になる。
「……葉っぱ全部同じに見える」
また本音が漏れた。
そのとき、少し離れた席のリリアがちらりとこちらを見た。
目が合う。
リリアは何か言いたげだったが、すぐに本へ視線を戻した。
蒼真も何も言わなかった。
今は互いに余裕がない。
それだけは分かった。
◇
放課後も、蒼真は図書室に残った。
魔法史の年表を写し、精霊学の用語を書き出し、魔法植物の特徴を表にした。
やれば少しずつ進む。
だが、進めば進むほど、分からない箇所が増えていく。
理解したい。
ただ暗記するのではなく、構造として理解したい。
それが蒼真の癖だった。
だが、試験は待ってくれない。
理解に時間をかけすぎると、範囲が終わらない。
「これは……難事件だな」
蒼真は真顔で呟いた。
犯人はいない。
トリックもない。
だが、解決しなければならない。
しかも期限付き。
夕方になり、図書室が閉まる時間が近づくと、蒼真は本を片付けた。
リリアはまだ勉強していた。
目が合う。
彼女は小さく口を動かした。
――頑張りなさい。
声には出ていない。
だが、そう言ったように見えた。
蒼真は小さく頷き、図書室を出た。
◇
夜。
男子寮の部屋へ戻ると、ユリウス・フィオレが机に向かっていた。
白髪の美少年は、珍しく真剣な顔で教科書を開いている。
蒼真は少し驚いた。
「ユリウス」
「ん?」
「勉強してるのか」
「してるよ」
「偉いな」
「でしょ?」
ユリウスはにこっと笑った。
その笑顔だけ見れば、成績も良さそうに見える。
蒼真は期待を込めて聞いた。
「試験、大丈夫か?」
ユリウスは満面の笑みで答えた。
「僕? だめだよ」
「即答か」
「うん」
「少しは迷え」
「迷っても結果は変わらないかなって」
蒼真は椅子に座る前に頭を抱えた。
ユリウスは明るい声で続ける。
「ねえ、蒼真。勉強教えて」
「俺が教えてほしいんだが」
「てへっ」
「可愛く言っても駄目だ」
「えへへ」
「笑っても駄目だ」
ユリウスは頬杖をつく。
「でも蒼真、理論は得意でしょ?」
「理論はまだ何とかなる。問題は暗記だ」
「じゃあ、僕と同じだね」
「同じなのか」
「うん。僕も暗記が苦手」
「他は?」
「実技もたまに失敗する」
「駄目じゃないか」
「ひどい」
ユリウスは頬を膨らませた。
妙に可愛い仕草だった。
蒼真はため息をつく。
「仕方ない。まずは教科書からだな」
「教えてくれるの?」
「一緒に読むだけだ」
「それでも嬉しい」
ユリウスは椅子を蒼真の近くへ寄せた。
近い。
「近い」
「一緒に読むんでしょ?」
「そこまで近づく必要はない」
「あるよ。文字が見えない」
「眼鏡を借りろ」
「僕、目は悪くないよ」
「じゃあ離れろ」
そんなやり取りをしながら、二人は教科書を開いた。
魔法史。
まずは年表。
蒼真は紙に簡単な流れを書き出す。
「まず、この国の成立がここだ。その後に魔導紛争があって、学園設立はかなり後」
「へえ」
「ただ名前を覚えるより、流れで覚えた方がいい」
「なるほど。蒼真、先生みたい」
「俺も分かってないところが多い」
「でも分かりやすいよ」
ユリウスは素直に頷いた。
蒼真は少しだけ気を取り直す。
誰にも教えてもらえないなら、自分で整理するしかない。
そして、整理したものをユリウスに説明することで、自分の理解も深まる。
悪くない。
そう思ったのも束の間。
十分後。
ユリウスは机に突っ伏していた。
「寝るな」
「寝てないよ」
「目を閉じてる」
「これは記憶を定着させてるの」
「便利な言い訳だな」
「蒼真の説明、声が落ち着くから眠くなるんだよ」
「俺のせいにするな」
蒼真は軽くユリウスの頭を小突いた。
ユリウスは笑いながら顔を上げる。
「じゃあ次、精霊学にしよう」
「魔法史は?」
「一旦休憩」
「まだ十分しかやってない」
「人には限界があるんだよ」
「早いな」
結局、二人は魔法史と精霊学を交互に進めた。
ユリウスはすぐに集中が切れる。
蒼真はそのたびに戻す。
時々、ユリウスが変な語呂合わせを作る。
蒼真は呆れる。
だが、不思議と一人で勉強するよりは進んだ。
深夜近く。
ユリウスは完全に寝落ちした。
机に突っ伏し、教科書を枕にしている。
「……結局寝たか」
蒼真は毛布を取って、ユリウスの肩にかけた。
窓の外は暗い。
遠くの校舎には、まだいくつか明かりが灯っている。おそらく他の生徒も勉強しているのだろう。
蒼真は自分の席へ戻った。
机の上には、まだ終わっていない範囲が積み上がっている。
魔法史。
精霊学。
魔法植物学。
魔法陣学。
蒼真は教科書を閉じかけて、手を止めた。
「事件より難しいな……」
本気でそう思った。
事件には、終わりがある。
犯人がいて、真相があって、解決すれば一区切りつく。
だが、勉強には終わりがない。
分かれば分かるほど、分からないことが増える。
それでも、やるしかない。
赤点を取れば補習。
補習になれば夏休みが削られる。
夏休みが削られれば、エルフの里へ行けないかもしれない。
エルフの里。
精霊。
エルミナの約束。
そのためにも、ここで止まるわけにはいかなかった。
蒼真は小さく笑った。
「……やるしかないか」
教科書をもう一度開く。
ペンを持つ。
年表を書き写し、用語を並べ、分からない言葉に印をつける。
静かな夜。
ユリウスの寝息。
窓の外の月明かり。
その中で、蒼真は一人、試験勉強という名の難事件に向き合い続けた。




