第91話 燃えた絵画と目撃者
第91話 燃えた絵画と目撃者
定期試験が近づくにつれて、学園の空気は少しずつ重くなっていた。
植物祭のころの浮き立つような賑わいは、もうない。廊下を歩く生徒たちは教科書やノートを抱え、口にする話題も試験範囲や過去問のことばかりだった。
放課後の教室にも、その空気は満ちていた。
「……第二次魔導紛争の原因が、北部貴族派と王都派の対立で……その後に精霊協約……」
蒼井蒼真は机に広げた魔法史の教科書を見下ろしながら、額に手を当てていた。
文字は読める。
内容も、一つ一つ追えば理解できる。
だが、覚える量が多い。
「王様が多い……」
思わず呟くと、隣の席でノートを整理していたセレナが顔を上げた。
「歴史ですから」
「それは分かってる」
「分かっているなら覚えるだけですわ」
「覚えるだけ、という言葉が一番難しい」
セレナは呆れたように小さく息を吐いた。
前方ではフレイアが教科書を開いたまま机に突っ伏している。
「私も魔法史きらい……」
「フレイア、寝ていませんか?」
「寝てない。魔法史の重みを受け止めてるだけ」
「寝ていますわね」
ルミエールはそんな二人を見て、少しだけ笑った。
彼女はいつも通り姿勢良く座り、試験範囲のノートを丁寧にまとめている。蒼真から見ても、かなり整ったノートだった。
「ルミエールさんは余裕そうだな」
「余裕ではありませんよ。私も必死です」
「そうは見えない」
「見えないようにしているだけです」
ルミエールはそう言って微笑んだ。
その笑顔は穏やかだったが、机の上に置かれたノートの量を見ると、確かに余裕があるわけではなさそうだった。
そのとき、教室の扉が開き、クラリス先生が入ってきた。
「今日はここまで。試験前だからといって、夜更かしをしすぎないように。体調管理も評価のうちです」
生徒たちが返事をする。
ホームルームは短く終わった。
生徒たちはそれぞれ立ち上がり、図書室へ行く者、寮へ戻る者、部活動へ向かう者に分かれていく。
蒼真も教科書を鞄に入れた。
「俺は図書室に行く」
「また魔法史ですの?」
セレナが聞く。
「魔法史と精霊学だ。植物学は……後で考える」
「後回しにすると危険ですわ」
「分かってる」
「分かっていない顔です」
「顔で判断するな」
フレイアが勢いよく立ち上がる。
「私は実技棟! 少し体動かしてから勉強する!」
「勉強から逃げているだけでは?」
「違うって!」
セレナはため息をついた。
「私は図書室でなく、自習室へ行きますわ。静かな場所でないと集中できません」
「図書室も静かだろ」
「蒼真がいると騒ぎが起きます」
「俺のせいなのか」
「統計的に」
言い返せなかった。
蒼真は鞄を持ち上げる。
そのとき、ルミエールがノートを閉じ、席を立った。
「ルミエールさんも図書室か?」
「いえ」
ルミエールは少しだけ視線を逸らした。
「私は、少し用事がありますので」
「用事?」
「はい。すぐ終わると思います」
その言い方に、蒼真は少しだけ引っかかった。
ルミエールは嘘をついているようには見えない。
だが、何かを言いにくそうにしている。
「一人で大丈夫か?」
蒼真が聞くと、ルミエールは少し驚いたように目を開いた。
それから、柔らかく笑う。
「大丈夫です。心配してくださってありがとうございます」
「ならいい」
「蒼真さんこそ、勉強を頑張ってくださいね」
「ああ」
ルミエールは鞄を持たず、数冊のノートだけを抱えて教室を出て行った。
その背中を、蒼真はしばらく見送る。
フレイアが横から覗き込んだ。
「なに? 気になるの?」
「少しな」
「またルミエールのこと心配してる」
「用事があると言っただけだろ」
「ふーん」
フレイアはにやにやしたが、それ以上は何も言わず、実技棟の方へ走っていった。
セレナは静かに言う。
「過度な詮索は控えるべきですわ」
「分かってる」
「ただ、気になるなら後で本人に聞けばよいでしょう」
「そうする」
蒼真は頷き、図書室へ向かった。
◇
図書室は試験前らしく、いつもより混んでいた。
机には本とノートが並び、ところどころで小声の暗記確認が行われている。図書委員が「静かに」と注意するほどではないが、普段の静寂より少しだけ熱があった。
蒼真は空いている席を見つけ、魔法史の教科書を開いた。
「……まずは年表だな」
事件の時系列を整理するように、歴史の流れを書き出す。
建国。
魔導紛争。
精霊協約。
学園設立。
禁令。
改革。
ただ暗記するより、原因と結果を結びつけた方が覚えやすい。
蒼真はペンを走らせた。
途中、何度か窓の外を見る。
夕方の光が校舎の壁を橙色に染めていた。
ルミエールは、どこへ行ったのだろう。
少し用事がある。
その言葉が頭に残っている。
「……集中しろ」
蒼真は自分に言い聞かせる。
今は試験勉強だ。
そう思い直し、再び教科書へ目を落とした。
だが、集中が完全に戻る前に――。
「きゃあああああっ!」
悲鳴が聞こえた。
図書室の空気が、一瞬で凍る。
全員が顔を上げた。
続いて、廊下の方から別の声。
「火事よ! 美術室が!」
椅子が鳴る。
誰かが立ち上がる。
図書委員が慌てて声を抑えようとするが、もう遅かった。
蒼真は教科書を閉じ、立ち上がっていた。
「美術室……」
場所を頭の中で思い浮かべる。
この図書室からなら、廊下を抜けて美術棟へ行くのが近い。
蒼真は鞄を置いたまま走り出した。
廊下に出ると、すでに何人もの生徒が同じ方向へ向かっている。焦げた匂いが、微かに空気へ混じっていた。
「火事って本当?」
「美術室だって!」
「誰か怪我したの?」
不安と好奇心が混ざった声。
蒼真はその流れを追い越しながら、美術棟へ向かった。
◇
美術室の前には、すでに人だかりができていた。
焦げ臭い匂い。
濡れた床。
煙の名残。
扉は開け放たれ、室内では教師らしき人物と数人の生徒が片付けを始めている。火はすでに消えていた。大火事にはならなかったらしい。
しかし、被害はあった。
美術室の奥。
壁際に置かれていた複数の作品が黒く焦げている。
絵画の端が燃え、布が焼け、木枠が一部炭化していた。完全に灰になったわけではないが、提出物や展示作品としては使えないだろう。
水をかけられた跡があり、床はびしょ濡れだった。
「……消火は済んでるのか」
蒼真は息を整えながら室内を見た。
火そのものはもうない。
だが、煙と水と焦げた絵の匂いが混ざって、重い空気を作っていた。
美術部員らしき生徒たちが、涙目で作品を見ている。
「私の課題……」
「来週、展示だったのに……」
「どうして……」
その声は、ただの物損以上の痛みを含んでいた。
時間をかけて作ったものが燃える。
それは、勉強道具を失うのとは違う。
自分の内側を削られたようなものだろう。
蒼真は眉をひそめた。
そのとき、鋭い声が響いた。
「あんたが、やったんでしょ!」
人だかりが割れる。
一人の女子生徒が、怒りで震えながら指を差していた。
淡い茶色の髪を肩まで伸ばした少女。制服の袖には美術部の腕章がついている。目には涙が浮かんでいるが、それ以上に怒りが強かった。
彼女の指の先。
そこに、ルミエールが立っていた。
蒼真は息を呑む。
「ルミエール……」
ルミエールは顔を青ざめさせていた。
いつもの落ち着いた雰囲気はなく、胸の前で手を握りしめている。少し息が上がっているようにも見えた。
「私、違うわ……」
ルミエールの声は震えていた。
「私が来た時には、もう……」
「嘘!」
女子生徒が叫ぶ。
「私、見たんだから!」
周囲がざわつく。
そこへアリシアが割って入った。
「サラさん!」
アリシアはルミエールの前に立つようにして、必死に声を上げた。
「どうしてルミエールさんだと決めつけるんですか! まだ何も分かっていません!」
サラ。
告発している少女の名前らしい。
サラは涙で濡れた目をアリシアへ向けた。
「分かってるわよ! 私が見たの!」
「何を見たんですか!」
「ルミエールが、向かいの屋上からこっちを見ていたのよ!」
その言葉で、周囲のざわめきが大きくなった。
「屋上?」
「向かいの校舎?」
「光魔法で?」
魔法のせいだ、と誰かが小さく言った。
蒼真はその言葉を聞き逃さなかった。
まただ。
何かが起きると、すぐに魔法へ飛びつく。
だが、まだ何も分かっていない。
サラは震える声で続ける。
「私は隣の美術準備室にいたの。試験前だから、そこで作品の仕上げをしようとしてた。そしたら窓の外に、ルミエールが見えたのよ。向かいの校舎の屋上に立って、こっちを見ていた!」
ルミエールは唇を噛む。
「屋上には……行ったわ」
その一言で、空気が変わった。
フレイアが人だかりの向こうから駆けつけてくる。
「ルミエール!?」
セレナも遅れて現れ、状況を見て目を細めた。
「何が起きていますの?」
だが、サラは止まらない。
「ほら! 認めたじゃない!」
「違うの」
ルミエールは首を振る。
「屋上には行った。でも、何もしていないわ」
「じゃあ、どうして屋上にいたのよ!」
サラの叫び。
その問いに、ルミエールは答えなかった。
いや、答えられないように見えた。
視線を落とし、手を握りしめる。
アリシアが心配そうに見つめる。
「ルミエールさん……」
蒼真はルミエールを見る。
嘘をついている顔ではない。
だが、何かを隠している。
あるいは、言えない理由がある。
サラはさらに詰め寄った。
「言えないんでしょ? やっぱり、何か後ろめたいことがあるんじゃない!」
「違います!」
アリシアが声を上げる。
「ルミエールさんがそんなことするはずありません!」
「じゃあ説明してよ!」
サラの声が涙で崩れる。
「あれは私の作品だったの! 何日もかけて描いたの! 定期試験の評価にも関わるのに……!」
その言葉に、周囲の空気が重くなった。
試験前。
課題作品。
焼失。
それがどれほど大きな意味を持つのか、生徒たちには分かるのだろう。
ルミエールも苦しそうに目を伏せた。
「……ごめんなさい。でも、私は燃やしていないわ」
「謝るくらいなら、認めなさいよ!」
サラの叫びが響く。
その瞬間、蒼真は前へ出た。
「待ってくれ」
声は大きくなかった。
だが、周囲の視線が蒼真へ集まる。
サラが睨む。
「誰よ、あなた」
「蒼井蒼真だ」
「……ああ、噂の」
サラの目に、少し警戒の色が浮かぶ。
蒼真はそれを受け流し、現場を見た。
「まだ、ルミエールが犯人と決まったわけじゃない」
「私が見たのよ!」
「屋上にいたことと、火をつけたことは同じじゃない」
サラは言葉に詰まる。
周囲がざわついた。
蒼真は続ける。
「まず、何が燃えたのか。どこから燃えたのか。いつ火が出たのか。誰が最初に気づいたのか。そこを確認する必要がある」
「そんなの……!」
「感情で決めるな」
蒼真の声が少し低くなった。
サラが黙る。
蒼真はすぐに声を戻した。
「作品を燃やされて怒るのは当然だ。だが、犯人を間違えたら、本当の犯人を逃がす」
サラの肩が震えた。
怒りと悔しさが混ざっている。
ルミエールが蒼真を見る。
その瞳には、少しだけ救われたような色があった。
蒼真は視線を返さず、美術室の中へ目を向ける。
燃えた作品。
濡れた床。
焦げ方。
窓の位置。
向かいの校舎。
屋上。
そして、ルミエールが屋上にいた理由。
分からないことが多い。
だからこそ、断定してはいけない。
蒼真は静かに言った。
「現場を見せてくれ」
誰もすぐには答えなかった。
だが、やがて教師の一人が頷く。
「……分かった。ただし、勝手に触れるな」
「はい」
蒼真は美術室へ一歩踏み入れた。
焦げた匂いが強くなる。
床に残る水が靴底で小さく鳴った。
目の前には、黒く焼けた作品。
それを見た瞬間、蒼真の中で違和感が生まれた。
まだ言葉にはならない。
だが、確かに何かがおかしい。
火事。
屋上。
光魔法。
目撃者。
言えない理由。
蒼真は焦げた絵画を見つめながら、胸の内で呟いた。
――これは、ただの火事じゃない。
そして、ルミエールが犯人だと決めるには、まだ早すぎる。




