第90話 試験勉強という名の難事件(1)
第90話 試験勉強という名の難事件
精霊学入門の授業から、数日が過ぎた。
植物祭の余韻は、もうほとんど学園から消えていた。
中庭の花飾りは完全に撤去され、屋台の跡もなくなり、魔法植物たちはそれぞれ温室や研究棟へ戻されている。あれほど賑やかだった校内は、今ではいつもの授業と課題と部活動の空気に包まれていた。
ただし、いつもの日常とは少し違う。
廊下を歩く生徒たちの顔が、どこか硬い。
「魔法史、範囲広すぎない?」
「精霊学の契約条件って四つだっけ?」
「魔法陣学、節点の計算出るって本当?」
「ああ、終わった……」
そんな声が、あちこちから聞こえてくる。
定期試験。
その言葉が、学園全体に重くのしかかっていた。
蒼井蒼真は、教室の自席で教科書を開きながら、深く息を吐いた。
机の上には、分厚い本が積まれている。
魔法理論。
魔法史。
魔法陣学。
精霊学。
魔法植物学。
基礎術式文法。
どれも、現代日本の高校教科書とはまるで違う。
文字は読める。
この世界へ来た時から、不思議と会話も読み書きもできるようになっていた。そこはありがたい。
だが、読めることと理解できることは別問題だった。
「……まずい」
蒼真は小さく呟いた。
事件なら整理できる。
誰が、いつ、どこで、何をしたのか。
証言の矛盾はどこか。
現場に残された違和感は何か。
魔法と物理現象の境界はどこか。
そういう問題なら、蒼真は考えられる。
しかし、試験範囲は違う。
覚えることが多い。
しかも、この世界の常識が前提になっている。
魔法史に出てくる王や戦争の名前など、蒼真には初耳ばかりだ。魔法植物学も、エルミナの話を聞いている時は面白かったが、試験範囲として並べられると途端に牙を剥く。
蒼真は教科書をめくった。
そこには、似たような葉の挿絵が十数種類並んでいる。
それぞれ名前が違い、効能が違い、採取時期が違い、毒性まで違う。
「……全部、葉っぱに見える」
思わず本音が漏れた。
そのとき、前方の席でノートを広げていたルミエール・ド・アルセリアがこちらを振り返った。
「蒼真さん?」
「ああ、いや」
「大丈夫ですか? 顔色があまり良くありませんよ」
「少し、現実を見ていた」
「現実?」
「試験範囲だ」
ルミエールは、すぐに察したようだった。
少しだけ苦笑する。
「今回の範囲、広いですものね」
「広いというか、地図がない森に放り込まれた気分だ」
「蒼真さんらしい例えですね」
ルミエールはくすりと笑った。
その笑顔を見て、蒼真は一つの可能性に気づく。
ルミエールは優秀だ。
普段から成績も良い。授業中の発言も的確で、ノートもきっと整理されている。しかも、分からない相手に説明するのも上手そうだ。
つまり、頼れる。
蒼真は席を立った。
「ルミエールさん」
「はい?」
「ちょっとお願いがあります」
ルミエールの表情が、一瞬だけ変わった。
少し期待するような、少し緊張するような顔。
「な、なんでしょう?」
蒼真は真剣に言った。
「テスト勉強を教えてほしいんですが」
ルミエールの笑顔が止まった。
「……」
「ルミエールさん?」
「えっと……」
ルミエールは視線を泳がせた。
それから、とても申し訳なさそうに両手を合わせる。
「ごめんなさい」
「え」
蒼真は予想外の返答に固まった。
「今、私もかなり余裕がなくて……」
「ルミエールさんでも?」
「はい。今回は魔法史と精霊学の範囲がかなり広いですし、家の方からも成績を落とさないようにと言われていて……」
ルミエールは本当に申し訳なさそうだった。
「蒼真さんに教えてあげたい気持ちはあるんです。でも、今回は自分の勉強で精一杯で……」
「そうか」
「本当にごめんなさい」
「いや、無理を言ったのは俺だ」
蒼真は頷いた。
ルミエールが断るのは珍しい。
それだけ今回の試験が重いということだろう。
しかし、問題は残った。
頼れる相手が一人消えた。
蒼真は次の候補を探す。
赤髪の少女が、机に向かっていた。
フレイア・バルディッシュ。
彼女は教科書を開き、腕を組み、真剣な顔をしている。
蒼真は近づいた。
「フレイア」
「無理」
「まだ何も言ってない」
「勉強でしょ?」
「なぜ分かった」
「顔に書いてある」
フレイアは自信満々に言った。
ただし、彼女の教科書は上下逆だった。
蒼真は指差す。
「フレイア」
「何?」
「教科書、逆だぞ」
「……」
フレイアは無言で本を回した。
そして咳払いする。
「これは、ほら、逆から見ても覚えられるか試してたのよ」
「新しい勉強法だな」
「そうよ」
「効果は?」
「ない」
「正直だな」
フレイアは机に突っ伏した。
「私だって今回はやばいのよ。火属性実技ならともかく、魔法史とか精霊学とか、覚えること多すぎ」
「教える余裕はないか」
「ない!」
即答だった。
「というか、私が教えてほしいくらい」
「そうか……」
蒼真は諦めた。
フレイアは悪い生徒ではない。
むしろ努力はする。
ただ、教わる側であって、教える側ではない。
次。
セレナ・ヴァイスリヒト。
銀髪の彼女は、窓際の席で静かにノートを整理していた。姿勢は正しく、文字も整っている。机の上には教科書、参考書、過去問題らしき紙束が並んでいた。
完璧だ。
これ以上の候補はいない。
蒼真は最後の希望を胸に、セレナの席へ向かった。
「セレナ」
「嫌です」
「早い」
セレナは顔も上げずに答えた。
「まだ用件を言っていない」
「勉強を教えてほしい、でしょう?」
「なぜ分かった」
セレナはようやく顔を上げた。
「顔ですわ」
「そんなに出てるのか」
「はい。救助を求める遭難者の顔です」
「そこまでか」
「そこまでです」
セレナはノートを閉じずに続けた。
「申し訳ありませんが、今回は私も自分の勉強を優先します」
「セレナでも余裕がないのか」
「余裕がないわけではありません」
セレナは少しだけ胸を張る。
「ただ、万全を期す必要があります。試験は日頃の学習成果を測るもの。油断は禁物ですわ」
「つまり、無理か」
「無理です」
きっぱり言われた。
蒼真は肩を落とした。
セレナは少しだけ視線を柔らかくする。
「蒼真、あなたは理論の理解力はあります。ただし、基礎知識の穴が多いのです」
「分かってる」
「ならば、まず教科書を最初から読み直すべきですわ」
「最初からか」
「ええ。近道を探す前に、道を作るべきです」
正論だった。
正論すぎて、何も言えない。
「ありがとう」
「頑張りなさい」
「教えてはくれないんだな」
「今回は自力で」
完全に突き放された。
いや、これも優しさなのかもしれない。




