第88話 優しい森の先輩(2)
第88話 優しい森の先輩
台所に立つ母親の背中。
買い物袋を持たされながら歩いた帰り道。
誰かを泣かせるような男にはなるな、と言われた声。
女の子には優しくしなさい、と何度も言われた記憶。
詳しい顔までは思い出せない。
だが、声の温度だけは残っている。
女性を大切にしなさい。
泣かせる男になるな。
その言葉が、今になって胸に刺さった。
「……小さい頃から」
蒼真の声は、思ったよりかすれていた。
「女性を大切にするように育てられたんです」
エルミナは黙って聞いている。
「だから……」
蒼真は唇を噛んだ。
「大好きな先輩を、傷つけてしまったんじゃないかと思ったら」
そこで、視界が滲んだ。
蒼真自身が驚いた。
涙が落ちる。
一滴。
それだけでは止まらなかった。
「……すみません」
蒼真は慌てて手の甲で目元を拭った。
「えっ」
エルミナが慌てる。
「蒼真くん? だ、大丈夫?」
「すみません。これは……」
説明しようとしても、涙が止まらない。
自分でも情けないと思う。
教室で責められた時も、図書室でリリアに詰められた時も泣かなかった。
なのに、エルミナの前でだけ、感情がほどけてしまう。
エルミナは慌ててポケットからハンカチを取り出した。
「ほら」
蒼真の頬にそっと当てる。
白いハンカチに涙が染みる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいのよ」
エルミナは蒼真の前に立ち、少し背伸びするようにして頭を撫でた。
指先が髪に触れる。
優しい手つきだった。
「よしよし」
その声が、胸の奥に染みた。
「ごめんね。私の方こそ軽率だったわ」
「違います。先輩は悪くないです」
「ううん。部屋に呼んだのは私だもの」
エルミナはゆっくりと蒼真の頭を撫で続ける。
「男の子が泣かないの」
「……すみません」
「ほら、また謝る」
「癖みたいなものです」
「知ってる」
エルミナは小さく笑った。
そのまま、そっと蒼真を抱きしめた。
柔らかな感触。
植物の香り。
温室の暖かさとは違う、人の体温。
蒼真は一瞬、体を強張らせた。
だが、エルミナは力を込めすぎない。逃げようと思えば逃げられるくらいの優しい抱擁だった。
「大丈夫だよ」
耳元で、エルミナが言う。
「私は傷ついていないわ」
「でも……」
「むしろ、嬉しい」
蒼真は顔を上げられない。
「私のために泣いてくれて、ありがとう」
その言葉で、さらに胸が苦しくなった。
だが、今度の苦しさは少し違った。
責められているのではない。
許されている。
そのことが、蒼真には余計に響いた。
「みっともないところを見せました」
「いいのよ」
エルミナは蒼真を抱きしめたまま、楽しそうに笑った。
「今に始まったことじゃないでしょう?」
「……そうですね」
蒼真も、涙を堪えながら少しだけ笑った。
「確かに、俺はこの世界に来てから、みっともないところばかり見せている気がします」
「そんなことないわ」
エルミナは少し離れ、蒼真の顔を覗き込む。
「でも、格好いいところだけじゃないから、私は蒼真くんが好きなの」
まっすぐ言われて、蒼真の呼吸が止まる。
エルミナは自分で言って、少し赤くなった。
「……あ、今のは、その」
「はい」
「聞かなかったことにしてもいいけど、忘れないでほしい」
「難しい注文ですね」
「でしょう?」
二人は少しだけ笑った。
温室の空気が、さっきより軽くなる。
蒼真はエルミナのハンカチを見た。
「洗って返します」
「いいわよ、そのままで」
「いえ、さすがに」
「じゃあ、今度返して」
「はい」
「また会う理由ができたわね」
エルミナはそう言って微笑んだ。
蒼真は何も言えなくなった。
この人は、柔らかいのに強い。
人を責めずに、でも逃がさずに近づいてくる。
その距離感が、蒼真には少し怖くて、同時に安心できた。
しばらくして、エルミナは思い出したように手を打った。
「そうだ」
「どうしました?」
「エルフの里、いつ行こうか」
蒼真は瞬きをした。
「エルフの里?」
「約束したでしょう?」
「ああ……そうでした」
植物祭の途中、エルミナは蒼真にエルフの里へ案内すると言っていた。
あの時は、半分冗談のようにも聞こえたが、どうやら本気らしい。
「本当に行けるんですか」
「もちろん」
エルミナは嬉しそうに頷いた。
「蒼真くんには見せたいものがたくさんあるの。里の森、精霊の泉、古い樹の図書庫、それから……」
そこで言葉を切る。
「それから?」
「行ってからのお楽しみ」
エルミナはいたずらっぽく笑った。
蒼真は少し警戒した。
「ルミエールが、まだ死にたくないから遠慮すると言っていましたが」
「ああ、それね」
「何があるんですか」
「ふふ」
「笑ってごまかさないでください」
「ごまかしてないわ。楽しみにしているだけ」
蒼真は不安になった。
エルフの里。
精霊に近い種族の故郷。
蒼真の能力や、将来の精霊契約にも関係する可能性がある場所。
ただの観光では済まないだろう。
それでも、行く意味は大きい。
「いつ頃なら行けるんですか」
「夏休みがいいと思うの」
「夏休み?」
蒼真は思わず聞き返した。
「この学園、夏休みあるんですか」
エルミナが目を丸くする。
「あるわよ」
「魔法学園にも休みはあるんですね」
「もちろん。魔法使いも休まないと倒れるわ」
「それはそうですね」
「ただ、そんなに長くはないけどね。貴族の帰省、研究課題、実技補習、家の事情で戻る生徒もいるし」
「なるほど」
蒼真は少しだけ安心した。
夏休み。
その響きは、元の世界を思い出させる。
蝉の声。
暑い教室。
部活の掛け声。
宿題。
そこまで考えて、蒼真は少し引っかかった。
宿題。
試験。
勉強。
エルミナが、にこりと笑った。
「でも、その前に定期試験ね」
温室の空気が止まった気がした。
蒼真はゆっくり顔を上げる。
「……定期試験」
「ええ」
「定期試験、ですか」
「そうよ」
エルミナは不思議そうに首を傾げた。
「試験勉強は大丈夫?」
沈黙。
蒼真の頭の中に、ここ最近の出来事が流れ込む。
魔法陣学。
植物施設。
エルミナとの出会い。
植物赤化事件。
植物祭準備。
植物祭本番。
カフェ。
レース。
迷路。
採取競争。
屋台。
研究発表。
音楽パレード。
エルミナの部屋。
噂騒動。
リリアのキス。
勉強。
していない。
蒼真の顔から血の気が引いた。
「あ……」
エルミナが、その反応を見て目を丸くする。
「まさか」
「……」
「忘れてた?」
蒼真は答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
エルミナは数秒黙ったあと、ぷっと吹き出した。
「蒼真くん」
「はい」
「探偵さんなのに、自分の試験日程は推理できなかったの?」
「推理以前に、情報を処理していませんでした」
「それは駄目ね」
「はい」
蒼真は真っ青になった。
「終わった……」
「まだ終わってないわよ」
エルミナは笑いながら、蒼真の肩に手を置いた。
「大丈夫。今から勉強すれば間に合うわ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんですか」
「蒼真くんが言うよりは信用できるたぶんよ」
「それは否定できません」
エルミナはくすくす笑った。
「ルミエールさんやリリアさんに教えてもらえば?」
蒼真の表情がさらに曇る。
「……今、その二人に頼むのは、少し気まずいです」
「フレイアさんは?」
「たぶん実技寄りです」
「セレナさんは?」
「頼めば教えてくれそうですが、今日の流れだと説教が長そうです」
「ユリウスくんは?」
「一緒に沈む気がします」
エルミナはとうとう声を出して笑った。
その笑い声が温室に響き、近くの葉が小さく揺れた。
「大変ね、蒼真くん」
「笑い事じゃありません」
「うん。でも、ちょっと可愛い」
「可愛くないです」
「可愛いわよ。さっき泣いたし」
「それは忘れてください」
「忘れないわ」
エルミナは優しく微笑む。
「でも、誰にも言わない」
蒼真は少しだけ肩の力を抜いた。
「ありがとうございます」
「その代わり、試験勉強はちゃんとすること」
「はい」
「エルフの里へ行くなら、赤点は駄目よ」
蒼真は固まった。
「赤点だと行けないんですか」
「補習になるかもしれないもの」
「……」
現実が重くのしかかる。
蒼真は拳を握った。
「勉強します」
「うん」
「全力で」
「その意気よ」
エルミナは満足そうに頷いた。
蒼真は温室の出口へ向かおうとして、ふと振り返る。
「エルミナ先輩」
「なあに?」
「今日、来てよかったです」
エルミナは少し驚いたように目を開き、それから柔らかく笑った。
「私も」
短い言葉だった。
けれど、十分だった。
蒼真は軽く頭を下げ、植物施設を後にした。
外へ出ると、日差しが少し強くなっていた。
祭りの飾りはさらに片付けられ、学園は少しずついつもの姿に戻っていく。
だが、蒼真の頭の中は新しい問題でいっぱいだった。
定期試験。
赤点。
補習。
エルフの里。
夏休み。
「……まずいな」
蒼真は本気で呟いた。
恋愛騒動も問題だ。
召喚の謎も問題だ。
だが、目の前にはもっと現実的な危機がある。
試験に落ちれば、エルフの里どころではない。
蒼真は空を見上げた。
青い空。
白い雲。
魔法学園の尖塔。
そして、遠くから聞こえる後片付けの声。
そのすべてが、妙に平和だった。
平和なのに、蒼真だけが追い詰められている。
「……勉強しよう」
蒼真はそう決意し、校舎へ向かって歩き出した。




