第89話 精霊学入門(1)
第89話 精霊学入門
植物祭から数日が過ぎた。
ノクティス魔法学園は、ようやくいつもの姿を取り戻していた。
中庭を彩っていた花飾りは撤去され、屋台の跡も消え、魔法植物たちの展示用棚も片付けられている。昨日までそこにあったはずの賑わいは、まるで夢だったかのように薄れていた。
それでも、完全に何も残っていないわけではない。
石畳の隙間には、小さな花弁が一枚だけ挟まっている。
校舎の隅には、まだ微かに甘い花蜜の香りが残っている。
廊下を歩く生徒たちの会話にも、時々「植物祭」という言葉が混じる。
祭りは終わった。
だが、その余韻はまだ学園のあちこちに残っていた。
蒼井蒼真は、朝の廊下を歩きながら、少しだけ肩の力を抜いていた。
ここ数日、ようやく騒ぎが落ち着いてきた。
エルミナの部屋から朝に出てきた件についての噂も、完全に消えたわけではないが、少なくとも教室に入った瞬間に全員から注目されるほどではなくなっている。
人間の噂は、思ったより早く広まる。
そして、思ったより早く別の話題へ移る。
それはこの世界でも同じらしい。
「……やっと普通の授業に戻れるな」
蒼真は小さく呟いた。
教室へ入ると、ルミエール・ド・アルセリアが先に席についていた。
金色の髪は今日も綺麗に整えられ、姿勢は相変わらず上品だ。彼女は蒼真に気づくと、柔らかく微笑んだ。
「おはようございます、蒼真さん」
「ああ、おはよう」
「今日は少し落ち着いた顔をしていますね」
「そう見えるか?」
「はい。ここ数日は、ずっと何かから逃げているような顔でしたから」
蒼真は返答に困った。
実際、逃げていた。
教室から逃げ、図書室から逃げ、最後には植物施設へ向かった。
「否定しきれないな」
蒼真がそう言うと、ルミエールは小さく笑った。
そこへフレイア・バルディッシュがやって来る。
赤髪を揺らしながら席に鞄を置き、蒼真を見るなり言った。
「今日は変な噂、増やさないでよ」
「増やすつもりで増やしてるわけじゃない」
「そういうところが危ないのよ」
フレイアは腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
彼女の怒りも、数日前に比べればだいぶ柔らかくなっていた。完全に許されたわけではないが、少なくとも火球が飛んでくる気配はない。
続いて、セレナ・ヴァイスリヒトが席へ着いた。
銀髪を整え、いつも通り背筋を伸ばしている。
「蒼真。試験も近づいています。浮ついた行動は控えるべきですわ」
「分かってる」
「本当に?」
「……努力する」
「その返答が不安ですわ」
セレナは小さくため息をついた。
蒼真は視線を逸らす。
エルミナに定期試験の話をされて以来、蒼真の頭の片隅にはずっと試験という言葉が居座っていた。
ただ、今日はまだそこに向き合う心の準備ができていない。
せめて授業を受けるところから始めるべきだ。
「今日は何の授業だったか」
蒼真が言うと、ルミエールが答えた。
「精霊学入門です」
「精霊学」
蒼真は少し反応した。
精霊。
その単語は、エルミナとの会話で何度も出てきている。
エルフ。
精霊。
エルフの里。
そして、いつか蒼真自身が精霊と契約するかもしれないという長期的な可能性。
「面白そうだな」
「蒼真さん、興味ありますか?」
「ああ。魔法陣や属性魔法とは違う仕組みに見えるからな」
フレイアが目を輝かせた。
「精霊契約とか憧れるよね! 火の精霊と契約できたら、もっとすごい炎が使えるんでしょ?」
セレナがすぐに訂正する。
「単純に出力が上がるだけではありませんわ。精霊契約は、魔法体系そのものが変わると聞きます」
「へえ。そうなの?」
「だから授業で学ぶのですわ」
フレイアは少し唇を尖らせた。
「セレナって、いちいち先生みたい」
「事実を述べただけです」
そんなやり取りをしていると、教室の扉が開いた。
クラリス・ヴァルシュタイン先生が入ってくる。
淡い紫の髪をまとめ、いつものように落ち着いた表情をしていた。教室のざわめきは自然と静まる。
「着席」
短い一言で、生徒たちは席へ戻った。
クラリス先生は出席を確認し、教卓に手を置いた。
「本日の一限は、精霊学入門です。通常教室ではなく、特別講義室へ移動します」
教室が少しざわつく。
精霊学。
多くの生徒にとって、ただの座学ではないらしい。
「精霊契約に憧れる気持ちは分かりますが、浮かれすぎないように」
クラリス先生は釘を刺す。
「精霊は飾りでも、便利な道具でもありません。そこを勘違いしないこと」
その声には、いつもより少しだけ強い響きがあった。
生徒たちは一斉に頷いた。
蒼真も席を立つ。
精霊学。
今まで学んできた魔法とは、どこか違う匂いがする。
そんな予感があった。
◇
特別講義室は、本校舎の奥にあった。
普段の教室よりも天井が高く、窓も大きい。壁には六属性を象徴する紋章が描かれ、その周囲に小さな光の粒のような装飾が浮かんでいる。
魔法で作られた飾りなのだろう。
火の紋章の周りでは赤い粒が揺れ、水の紋章の周りでは青い雫が漂い、風の紋章の周りでは薄緑の線が流れていた。
奥の壁には、大きな絵がかかっている。
巨大な樹。
その枝に、光のような存在がいくつも宿っている。
人の形にも見えるし、炎や水や風にも見える。
蒼真はその絵の前で足を止めた。
「これが精霊か?」
ルミエールが横に立つ。
「精霊樹の絵ですね。古い神話を題材にしたものだと思います」
「神話か」
「精霊は昔から人と関わりが深い存在ですから」
フレイアが絵を見上げる。
「火の精霊、いるかな」
「探すのが早いな」
「だって気になるじゃん」
セレナは別の壁に飾られた肖像画を見ていた。
「古代契約者の肖像もありますわね」
蒼真も見る。
杖を持つ老人。
剣を構えた女騎士。
黒いローブの賢者。
森の中で精霊らしき光に囲まれたエルフ。
どれも、ただの肖像というより、歴史そのものを象徴しているように見えた。
やがて生徒たちが席に着く。
蒼真もルミエールたちと並んで席に座った。
少しして、講義室の前方の扉が開く。
入ってきたのは、一人の女性教師だった。
年齢は二十代後半から三十代前半ほど。長い銀緑色の髪を背中に流し、落ち着いた淡い緑のローブをまとっている。顔立ちは整っているが、派手さよりも知的な印象が強い。
穏やかな雰囲気をまといながらも、教壇に立つ姿には自然な威厳があった。
「みなさん、おはようございます」
柔らかい声だった。
「精霊学入門を担当します、フィオナ・シルヴァリスです」
生徒たちが挨拶を返す。
フレイアが小声で言った。
「美人だ……」
セレナが小声で返す。
「失礼ですわ」
「褒めてるんだけど」
ルミエールは前を向いたまま、静かに言う。
「フィオナ先生は精霊学の先生です。契約者ではない生徒にも分かりやすく教えてくださることで有名ですよ」
「へえ」
蒼真はフィオナ先生を見る。
普通の先生。
だが、精霊という未知の分野を扱うには十分に落ち着いた人物に見えた。
フィオナ先生は黒板に大きく文字を書いた。
――精霊とは何か。
「今日は初回ですから、難しい術式や契約法には入りません」
フィオナ先生は教室を見回す。
「まず、精霊とは何か。それを学びます」
生徒たちの姿勢が少し前のめりになる。
「最初に、よくある勘違いから確認しましょう」
フィオナ先生は黒板に三つの言葉を書く。
魔物。
召喚獣。
道具。
「精霊は魔物ではありません。召喚獣でもありません。そして、術者が自由に使う道具でもありません」
教室が静かになる。
「精霊とは、自然現象に宿る意思です」
フィオナ先生の声は穏やかだが、その一言には重みがあった。
「火に宿る意思。水に宿る意思。風に宿る意思。土に宿る意思。光に宿る意思。闇に宿る意思」
黒板に六つの属性が並ぶ。
「この世界には、魔力が満ちています。魔力は流れ、集まり、形を変えます。そして長い時間をかけて、その流れの中に“意思”のようなものが生まれることがあります。それが精霊です」
蒼真はノートを開いた。
自然現象に宿る意思。
魔力の流れから生まれる存在。
それは、今まで学んだ魔法とはかなり違う。
属性魔法は、術者が魔力を使って現象を起こす。
魔法陣は、魔力に命令を与えて現象を固定する。
だが、精霊は現象そのものに意思がある。
「先生」
生徒の一人が手を上げた。
「精霊は生き物なんですか?」
フィオナ先生は頷いた。
「良い質問です。答えは、半分はい、半分はいいえです」
教室が少しざわつく。
「精霊は私たちと同じ肉体を持つ生物ではありません。食事をし、血を流し、老いて死ぬ存在ではない。ですが、意思を持ち、好みがあり、感情に近い反応を示します」
フィオナ先生は黒板に小さな円を描いた。
「その意味では、生きていると言ってよいでしょう」
蒼真はペンを走らせる。
肉体なき意思。
魔力現象の人格化。
いや、人格化という言い方は失礼なのかもしれない。




