第88話 優しい森の先輩(1)
第88話 優しい森の先輩
図書室を出た蒼真は、しばらく廊下を歩いていた。
どこへ向かうかは、すぐには決めていなかった。
ただ、あのまま図書室にいるのは危険だった。静かな場所のはずなのに、リリアの前では逃げ場がなかった。
――エルミナ先輩だけ特別扱いしたら、怒るから。
耳元で囁かれた声が、まだ残っている。
蒼真は思わず唇に手を当てそうになり、途中でやめた。
「……何をやってるんだ、俺は」
小さく呟く。
図書室へ逃げたはずなのに、そこでまた別の方向から追い詰められた。ルミエール、フレイア、セレナ、リリア。みんな、言葉は違っても同じものを見ていた。
エルミナの部屋から朝に出てきた自分。
蒼真にとっては、寝落ちしただけの出来事だった。
けれど、周囲から見れば違う。
そして、その噂の中心にいるのは自分だけではない。
「……エルミナ先輩は、大丈夫なのか」
蒼真は足を止めた。
教室で責められたのは自分だ。図書室でリリアに詰められたのも自分だ。
だが、噂によって傷つく可能性があるのは、エルミナも同じだった。
いや、むしろエルミナの方が大きいかもしれない。
エルフ族の長候補。
男子の告白をすべて断ってきた鉄壁の美女。
植物学の天才。
多くの生徒に憧れられる先輩。
そんな彼女の部屋に、朝まで男子がいた。
それがどんな意味で受け取られるか。
考えれば考えるほど、胃のあたりが重くなる。
蒼真は進路を変えた。
向かう先は、植物施設。
エルミナがいる可能性が最も高い場所だった。
校舎を抜けると、外の空気が少しだけ冷たかった。
植物祭の後片付けはまだ続いている。昨日まで屋台が並んでいた道には、木箱や布幕が積まれていた。花冠づくり体験の看板が横倒しになり、魔法植物の鉢植えは一つずつ丁寧に運び出されている。
祭りは終わった。
けれど、花の香りだけはまだ残っていた。
甘い蜜の匂い。
湿った土の匂い。
魔法植物特有の、どこか光を含んだような匂い。
蒼真はその中を歩いた。
昨日、この場所でいろいろなことがあった。
リリアと採取競争に出た。
フレイアとバトルレースで騒いだ。
セレナと相性迷路に入った。
ルミエールと屋台を巡った。
そして、エルミナと音楽パレードを見た。
思い返すと、どの記憶にも誰かの顔がある。
自分がこの世界に来たばかりのころには、考えられなかったことだ。
いつの間にか、蒼真の周りには人が増えていた。
だからこそ、軽率な行動が誰かを傷つける。
そのことを、今さらのように思い知らされていた。
植物施設に近づくと、温室のガラス屋根が見えてきた。
朝の光を受け、透明な屋根が淡く光っている。中では緑が揺れ、時折、魔法植物の葉が微かに発光していた。
扉の前で、蒼真は一度深呼吸した。
それから中へ入る。
湿った空気が肌に触れた。
外よりも暖かい。土と葉と水の匂いが濃い。棚には大小さまざまな鉢植えが並び、見慣れない花が静かに揺れている。昨日の祭りで展示されていた植物の一部も、ここへ戻されているようだった。
「エルミナ先輩、いますかー」
蒼真は奥へ向かって声をかけた。
少し間があった。
それから、柔らかい声が返ってくる。
「はーい、いるわよ」
蔓のアーチの向こうから、エルミナ・リーフグレイスが顔を出した。
緑の髪が肩に流れ、長い耳が葉の影から覗く。いつものように穏やかな笑みを浮かべている。昨日の夜のことなど何も気にしていないように見えた。
「あら、蒼真くん」
エルミナは手に持っていた小さな霧吹きを棚に置いた。
「今朝はちゃんと起きられた?」
その一言で、蒼真の顔が熱くなる。
「……はい」
「ふふ。よかった」
エルミナはくすりと笑った。
その笑顔は昨日と変わらない。柔らかく、包み込むようで、見ているだけで少し安心する。
だからこそ、蒼真の胸が痛んだ。
この人に迷惑をかけたかもしれない。
そう思った瞬間、蒼真は自然と頭を下げていた。
「すみません」
エルミナが瞬きをする。
「え?」
「昨日は、先に寝てしまって……」
蒼真は頭を下げたまま続けた。
「せっかく部屋に呼んでもらったのに、失礼なことをしました」
少しの沈黙。
それから、エルミナは柔らかく笑った。
「いいのよ」
声は本当に優しかった。
「昨日は蒼真くん、いろいろ参加していたでしょう。朝からずっと動いていたし、採取競争もあったし、屋台も回って、発表も聞いて、夜はパレードまで見たんだもの」
エルミナは近づいてきた。
「疲れて当然よ」
「でも……」
「それに、眠っている蒼真くん、可愛かったわ」
「それは忘れてください」
「どうしようかな」
エルミナは少しだけ悪戯っぽく笑う。
いつもの柔らかさに、昨日から少しだけ距離の近さが混じっている。
蒼真は視線を逸らした。
だが、エルミナの笑みはすぐに少し困ったものへ変わった。
「むしろ、私の方がごめんね」
「え?」
「部屋に呼んだから」
エルミナは、自分の長い耳にそっと触れた。
「変な噂になっちゃったでしょう。蒼真くん、困ってるんじゃない?」
蒼真は言葉に詰まった。
困っている。
確かに困っている。
だが、それは自分だけの問題ではない。
「俺の方は、別にいいんです」
「よくないでしょう?」
「いや……よくはないですけど」
蒼真は苦笑しかけたが、うまく笑えなかった。
「それより、エルミナ先輩に迷惑をかけたんじゃないかって」
エルミナが蒼真を見つめる。
蒼真は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「部屋に行ったのは事実です」
「うん」
「下心がなかったと言ったら、嘘になります」
エルミナの頬が一瞬で赤くなった。
「も、もう……蒼真くん」
「でも」
蒼真は続けた。
「だからこそ、俺が軽率だったと思っています」
声が少し震えた。
自分でも分かった。
「エルミナ先輩は、学園で有名な人で、尊敬されていて……男子の告白も断ってきた人だって聞きました」
「そんな大げさなものじゃないわ」
「でも、周りはそう見てます」
蒼真は拳を握る。
「その先輩に、俺のせいで変な噂が立ったなら……」
言葉が詰まった。
なぜだろう。
胸の奥から何かが込み上げてくる。
事件現場で証拠を見つけたときのような緊張ではない。犯人と向き合うときのような冷静さでもない。
もっと個人的で、もっと弱い感情だった。
エルミナを傷つけたかもしれない。
そう思うだけで、喉の奥が苦しくなる。
「俺は……」
蒼真は目を伏せた。
ふと、元の世界の記憶がよぎる。




