第87話 図書室の攻防戦(2)
第87話 図書室の攻防戦
蒼真は眉をひそめた。
「許す?」
「そう」
「いや、俺たち別に……」
リリアの眉がぴくりと動いた。
「別に?」
蒼真は、自分が踏んではいけないものを踏んだことに気づいた。
だが遅い。
リリアは静かに微笑んだ。
その微笑みは、かなり危険だった。
「なに? あんなキスしておいて、付き合ってないとか言うんだ」
「いや、そういう意味では……」
「じゃあ、どういう意味?」
「それは……」
「私は遊びだったと」
「違う」
蒼真は即答した。
リリアは少しだけ目を見開いた。
その反応を見て、蒼真は自分でも驚いた。
否定だけは早かった。
しかし、その先が続かない。
リリアは小さく息を吸い、もう一度問う。
「じゃあ、本気?」
「……」
答えられない。
本気ではない、とは言えない。
だが、本気だ、と言い切るには覚悟が足りない。
ルミエールもいる。
フレイアもいる。
セレナもいる。
エルミナもいる。
自分の気持ちがどこへ向いているのか、蒼真自身にも整理できていない。
そして、整理できていないまま誰かに答えるのは、不誠実だと思った。
「う……」
蒼真が詰まると、リリアは椅子から立ち上がった。
「はっきりしないわね」
「悪い」
「謝ればいいってものじゃないわ」
リリアは蒼真の隣へ移動した。
図書室の静けさが、急に密度を増す。
近い。
リリアの黒髪から、ほのかに甘い香りがした。昨日の植物祭の花蜜やハーブの匂いが、まだ少し残っているのかもしれない。
蒼真は椅子に座ったまま、思わず体を引いた。
「リリア?」
「動かないで」
「いや、ここは図書室だ」
「知ってるわ」
「なら……」
リリアは顔を近づけた。
「じゃあ、これで分かる?」
次の瞬間、唇が触れた。
短いキスだった。
けれど、軽くはなかった。
柔らかく、確かめるようで、少しだけ拗ねたようなキス。
蒼真の思考が一瞬で止まる。
図書室の空気も、本棚も、机も、窓からの光も、すべてが遠くなった。
リリアはすぐに離れた。
眼鏡の奥の瞳が、まっすぐ蒼真を見ている。
「……リリア」
蒼真はようやく声を出した。
「ここ、図書室だぞ」
「だから静かにね」
リリアは小声で言った。
その声が、余計に危ない。
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題?」
「公共の場所で……」
「人は少ないわ」
「少なくてもいる」
「だから静かにしたじゃない」
理屈が成立しているようで、まったくしていない。
蒼真はどう返せばいいか分からなくなった。
リリアは、そんな蒼真を見て、少しだけ口元を緩めた。
「蒼真って、推理しているときは本当に冷静なのに、こういうときはすぐ壊れるわよね」
「壊してるのはリリアだろ」
「そうかしら」
「そうだ」
「じゃあ、もう一回壊してみる?」
リリアがさらに近づく。
蒼真は反射的に椅子を引いた。
脚が床をこすり、小さな音が鳴る。
遠くの席にいた生徒がちらりとこちらを見た。
蒼真は固まる。
リリアは楽しそうに笑った。
「ほら、静かに」
「誰のせいだ」
「蒼真が動くから」
「動かざるを得ない状況だった」
「言い訳」
リリアは椅子の背に手を置き、蒼真を逃がさないような姿勢になった。
距離が近い。
眼鏡の奥の瞳が、少しだけ潤んで見えた。
からかっている。
それは分かる。
けれど、全部がからかいではない。
そのことも、蒼真には分かってしまった。
リリアは小さく言う。
「ねえ、蒼真」
「なんだ」
「私、嫉妬してるわ」
あまりにもはっきり言われて、蒼真は息を止めた。
リリアは視線を逸らさない。
「ルミエールも、フレイアも、セレナも、たぶん同じ。エルミナ先輩が一歩先に行ったみたいに見えたから、みんな落ち着かないの」
「……」
「でもね、私は怒ってるだけじゃないわ」
リリアは机に置かれた《古代薬草術大全》へ一瞬だけ視線を向けた。
「昨日、蒼真と一緒に採取競争をしたの、楽しかった。湿地帯も、崖も、星露草も。あの本を取れたのも、蒼真がいたから」
「リリアの魔法があったからだ」
「それでもよ」
リリアは微笑んだ。
さっきより少し柔らかい表情だった。
「それで、昨日は少しだけ自分が特別になれた気がしたの。なのに、夜にはエルミナ先輩の部屋に行ってるんだもの」
「……悪かった」
「また謝る」
「謝るしかない」
「ずるいわね」
リリアは小さく息を吐いた。
怒っている。
でも、本気で嫌ってはいない。
むしろ、もっと近づきたいから怒っている。
蒼真はそれを理解し始めていた。
理解しているのに、答えが出せない。
それが苦しい。
「リリア」
「何?」
「俺は、まだ整理できてない」
「でしょうね」
「だから、今すぐ答えを出すのは……」
「分かってるわ」
リリアはあっさり言った。
蒼真は意外そうに彼女を見る。
「分かってるのか」
「分かってるわよ。蒼真がそんなに器用じゃないことくらい」
「……それは褒めてるのか?」
「事実よ」
リリアはまた眼鏡を押し上げた。
「ただ、整理できてないからって、何もなかったことにされるのは困るわ」
「何もなかったことにはしない」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、さっきのキスも?」
「……それも」
蒼真が答えると、リリアは少しだけ顔を赤くした。
自分からしたくせに、その反応はずるい。
蒼真はそう思ったが、口には出さなかった。
リリアは咳払いした。
「なら、今回は許してあげる」
「今回は?」
「ええ。エルミナ先輩と本当に何もしてないなら」
「本当に何もしてない」
「たぶんじゃなくて?」
「……本当に」
リリアは満足そうに頷いた。
「よろしい」
蒼真は深く息を吐いた。
ようやく解放された気がした。
だが、リリアはまだ隣にいる。
そして、距離も近いままだ。
「それで」
「まだ何かあるのか」
「エルミナ先輩の手紙、見せて」
「それは駄目だ」
「どうして?」
「個人的なものだからだ」
「私にはキスされたのに?」
「話が違う」
「違うかしら」
「違う」
リリアは少し不満そうに唇を尖らせた。
「まあ、いいわ。今は見逃してあげる」
「助かる」
「ただし」
リリアは蒼真の耳元に顔を近づけた。
「エルミナ先輩だけ特別扱いしたら、怒るから」
囁き声。
蒼真の背筋が伸びる。
「覚えておいて」
「……善処する」
リリアは目を細めた。
「最低の返事だわ」
「今の俺にはそれが限界だ」
「でしょうね」
リリアはようやく離れた。
蒼真は椅子から立ち上がる。
これ以上ここにいるのは危険だ。
図書室に避難したはずなのに、教室より危険だったかもしれない。
「もう行くの?」
「少し歩く」
「逃げるのね」
「戦略的撤退だ」
「探偵らしい言い訳ね」
リリアはくすりと笑った。
蒼真は鞄を持つ。
立ち去ろうとしたところで、リリアが声をかけた。
「蒼真」
「ん?」
「私は、遊びじゃ嫌だから」
蒼真は足を止めた。
リリアは、もうからかう顔ではなかった。
少しだけ頬を赤くして、それでもはっきりこちらを見ている。
「だから、答えを急げとは言わないけど、ちゃんと考えて」
蒼真は黙って頷いた。
「ああ。ちゃんと考える」
「よろしい」
リリアは満足したように本を開いた。
その仕草がいつものリリアに戻っていて、蒼真は少しだけ安心した。
だが、唇にはまだ感触が残っている。
まったく落ち着かない。
「……リリアのやつめ」
蒼真は小さく呟きながら、図書室の扉へ向かった。
廊下に出る直前、もう一度だけ振り返る。
リリアは本を読んでいるふりをしていた。
けれど、その頬は赤い。
彼女はそっと唇に指を当て、小さく呟いた。
「まったく……鈍感なんだから」
その声は、蒼真には届かなかった。
蒼真は図書室を出て、廊下へ進む。
教室から逃げ、図書室へ来て、さらに図書室からも逃げることになった。
逃げてばかりだ。
だが、不思議と気持ちは少し軽くなっていた。
リリアは怒っていた。
嫉妬していた。
それでも、蒼真にちゃんと向き合えと言った。
その言葉は、責めるだけのものではなかった。
蒼真は廊下を歩きながら、窓の外を見る。
植物祭の片付けは続いている。
昨日の花飾りが一つ、風に乗って宙を舞った。
祭りは終わった。
けれど、終わったからこそ、残ったものが見えてくる。
ルミエールの寂しさ。
フレイアの怒り。
セレナの本音。
エルミナの手紙。
リリアのキス。
それらを、蒼真はもう「分からない」で片付けられないのかもしれない。
事件ではない。
推理で解ける謎でもない。
それでも、向き合う必要がある。
蒼真は小さく息を吐いた。
「……まず事実を整理しよう」
いつもの口癖が出る。
だが、すぐに苦笑した。
恋愛感情を事実だけで整理できるなら、誰も苦労はしない。
それでも、蒼真にはそれしかできない。
だから歩きながら考える。
誰かを傷つけないために。
誰かの気持ちを、勝手に軽く扱わないために。
そして、自分が何を感じているのかを、いつかちゃんと言葉にするために。
蒼真は廊下の先へ歩き出した。




