第87話 図書室の攻防戦(1)
第87話 図書室の攻防戦
図書室の扉を押すと、紙とインクの匂いがした。
それだけで、蒼井蒼真は少しだけ呼吸がしやすくなった気がした。
ノクティス魔法学園の図書室は広い。高い天井まで伸びる本棚には、魔法理論、歴史、精霊学、魔法薬学、術式工学、魔法植物学など、蒼真にはまだ分類すら完全には理解できない本がぎっしり並んでいる。
窓から差し込む朝の光は、棚の隙間を通って細い線になり、机の上に落ちていた。
植物祭の翌日だからか、図書室にいる生徒は少ない。祭りの後片付けに駆り出されている者も多いのだろう。普段なら本を読む生徒や課題に追われる生徒でそれなりに席が埋まっているが、今日は空席が目立つ。
静かだった。
少なくとも、教室よりは。
蒼真は空いている席へ向かい、鞄を置いた。
椅子に腰を下ろすと、思った以上に体から力が抜けた。
「……やっぱり、まずいか」
自然と声が漏れる。
エルミナの部屋で目覚めたこと。
今朝、男子寮へ戻ったこと。
教室でフレイアとセレナに詰められたこと。
ルミエールが事実だけで蒼真を追い詰めたこと。
どれも、順番に整理すれば単純な出来事のはずだった。
けれど、単純ではない。
誰かの気持ちが絡んでいる。
蒼真は机に肘をつき、額を押さえた。
「事件なら、もう少し楽なんだがな……」
事件なら証拠がある。
証言がある。
嘘がある。
矛盾がある。
しかし、恋愛めいた空気には証拠も矛盾もない。いや、あるのかもしれないが、それを見つけたところで解決にはならない。
少なくとも、犯人を見つければ終わり、という話ではない。
蒼真は小さく息を吐いた。
そのときだった。
「どうしたの?」
向かい側から声がした。
蒼真は顔を上げた。
本棚の影から、一人の少女がこちらを見ていた。
九条リリア。
黒髪を肩のあたりで綺麗に流し、眼鏡の奥から冷静な目を向けている。制服はいつも通りきちんと整っているが、胸元だけはどうしても存在感が強い。本人は気にしていないふりをしているが、所作の端々に隠しきれない色気があった。
手には本を抱えている。
図書委員としての仕事中だったのだろう。
「リリア」
「そんなに深いため息をついていたら、図書室の空気まで重くなるわ」
「悪い」
「別に怒ってないわ」
リリアはそう言って、蒼真の向かいの席に腰を下ろした。
持っていた本を机に置く。
表紙には《古代薬草術大全》と書かれている。
昨日、材料採取競争で優勝して手に入れた本だ。
蒼真はその本を見る。
「もう読んでるのか」
「当然でしょう。せっかく手に入れたんだもの」
「昨日の今日だぞ」
「本は手に入れた瞬間が一番読みたいのよ」
リリアは眼鏡を軽く押し上げた。
いつもの理論派らしい顔。
だが、その口元は少しだけ楽しそうに見えた。
「それで?」
「それで?」
「エルミナ先輩との噂のこと?」
蒼真は固まった。
静かな図書室で、あまりにも自然に核心を突かれた。
「……そんなに噂が広まってるのか」
「それはもう」
リリアは本を閉じた。
ぱたん、という音がやけに大きく聞こえる。
「学園中、とは言わないけれど、少なくとも朝から図書室に来る生徒の半分くらいはその話をしていたわね」
「半分……」
「ええ。あのエルフ族の長候補で、美人で、可愛くて、植物学の天才で、男子の告白を全部断ってきた鉄壁の美女。その部屋から、朝に男子が出てきたんだから」
リリアは淡々と言う。
淡々としている分、言葉が刺さる。
「しかも、その男子が蒼真だっていうなら、噂にならない方がおかしいわ」
「落としたつもりはないんだけどな」
「落としたつもりがない男が、どうして朝に部屋から出てくるのかしら」
「それは……」
蒼真は言葉を探した。
しかし、すでに教室で何度も説明したせいか、同じ説明を繰り返すことに疲れを感じていた。
リリアは少しだけ身を乗り出す。
「で?」
「で?」
「夜、何があったの?」
声は小さい。
図書室にふさわしい音量だった。
だが、圧がある。
蒼真は思わず視線を逸らした。
「何もない」
「本当に?」
「本当に」
「したの?」
蒼真はむせた。
「リリア」
「何?」
「質問が直接的すぎる」
「回りくどく聞いた方がよかった?」
「いや、そういう問題じゃない」
リリアは首を傾げる。
その仕草だけ見れば可愛い。
だが、目は笑っていない。
「じゃあ答えて」
蒼真はしばらく沈黙した。
図書室のどこかで、本をめくる音がする。
遠くの窓際で、別の生徒が椅子を引く音がした。
この静けさの中で、答えを誤るのは危険だ。
蒼真は慎重に言った。
「……たぶん、してない」
リリアの表情が止まった。
「たぶん?」
「いや、言い方が悪かった」
「悪いわね」
「エルミナ先輩の部屋に行ったのは事実だ」
「行ったんだ……」
リリアの声が一段低くなった。
「女ったらしめ」
「ごめん」
「謝るんだ」
「いや、今のは謝った方がいい気がして」
「蒼真って、変なところで素直よね」
リリアは椅子の背に軽くもたれた。
目を細め、蒼真を観察する。
まるで実験対象を見る研究者のようだった。
「それで?」
「昨日の夜、音楽パレードを見たあと、エルミナ先輩に部屋へ来ないかと言われた」
「誘われたのね」
「……そうなる」
「ふうん」
「そのあと部屋に行った。植物がたくさんある部屋で、少し話して、エルミナ先輩がシャワーを浴びに行って……」
「そこまで詳しく言うんだ」
「誤解を避けるためだ」
「今のところ、誤解が深まってるわ」
「そうか……」
蒼真は額を押さえた。
どう説明しても危ない。
だが、途中でやめる方がもっと危ない。
「俺は座って待っていた。昨日はかなり疲れていたから、少し横になった。そのまま眠ったらしい。気づいたら朝だった」
「エルミナ先輩は?」
「いなかった」
「置き手紙は?」
「……あった」
リリアの目が細くなる。
「内容は?」
「昨日は楽しかった、今度はゆっくりしましょう、という内容だ」
「今度はゆっくり」
リリアが繰り返す。
その声に、どこか引っかかりがあった。
「……かなり攻めてるわね、エルミナ先輩」
「そうなのか?」
「そうよ」
リリアは呆れたように息を吐いた。
「蒼真、本当に分かってないの?」
「分かってない可能性はある」
「自覚があるだけましね」
リリアは指先で机をとん、と叩いた。
「なるほどね」
しばらく黙る。
蒼真は、リリアの表情を読もうとした。
怒っているようにも見える。
呆れているようにも見える。
でも、どこか安心したようにも見える。
やがて、リリアは小さく頷いた。
「それなら許す」
「え?」
「してないなら許す、って話」




