第86話 祭りの翌朝と、広まりすぎた噂(1)
第86話 祭りの翌朝と、広まりすぎた噂
植物祭の翌朝、ノクティス魔法学園は、昨日までの華やかさを少しだけ引きずっていた。
中庭にはまだ、色とりどりの花飾りが残っている。昨日は魔法植物たちが光を放ち、香りを広げ、音楽まで奏でていた場所だ。けれど今は、上級生たちが脚立を立て、蔦をほどき、屋台の骨組みを解体している。
風に揺れる花弁も、昨日ほど誇らしげではない。
どこか、祭りが終わったあとの寂しさがあった。
「……終わったんだな」
蒼井蒼真は、男子寮の廊下を歩きながら小さく呟いた。
制服は着替えた。顔も洗った。髪も整えた。
だが、気持ちはまったく整っていなかった。
理由は簡単だ。
今朝、自分はエルミナ・リーフグレイスの部屋で目を覚ました。
しかも、本人はいなかった。
代わりに残されていたのは、短い置き手紙。
――昨日は楽しかったわ。
――今度はゆっくりしましょう。
――エルミナより。
「……今度はゆっくり、か」
口に出した瞬間、蒼真は自分で顔が熱くなるのを感じた。
昨日の夜。
魔法植物の音楽パレード。
淡い光。
エルミナの手。
長いキス。
そして、部屋への誘い。
そこまでは覚えている。
問題は、そのあとだ。
エルミナの部屋には、植物が多かった。壁際には鉢植えが並び、天井からは小さな蔓が垂れ、窓辺には光る苔の瓶詰めが置かれていた。どこか森の中の小部屋のようで、柔らかく、落ち着く空間だった。
蒼真は座る場所を探し、疲れを自覚し、少し横になった。
その記憶まではある。
そこから先がない。
「……本当に、寝ただけだよな」
自分に確認するように呟く。
状況証拠だけを見るなら、かなり怪しい。
夜、女性の部屋に行く。
相手はエルフ族の美しい先輩。
しかも男子の告白をすべて断ってきたらしい人物。
そこで寝落ちして、朝に部屋を出る。
現代日本でも十分にまずい。
この魔法学園でどう扱われるかは、考えたくない。
蒼真は額に手を当てた。
「事件なら、事実と解釈を分けられるんだが……」
今回は自分が当事者だ。
しかも、証明できることが少ない。
エルミナの部屋に行ったのは事実。
朝までいたのも事実。
何もしていない、というのは蒼真の記憶と主張に過ぎない。
記憶が途切れているせいで、断言もしづらい。
「いや、断言しろ、俺。何もしてない」
蒼真は自分に言い聞かせるように言った。
そのとき、廊下の向こうから男子生徒が二人歩いてきた。
蒼真と目が合う。
一人が、何か言いかけてやめた。もう一人が、隣の男子の袖を引く。
「……あれって」
「しっ」
小声のつもりなのだろうが、廊下ではよく響いた。
蒼真は、聞こえなかったふりをして歩き続けた。
胸の奥に、嫌な予感が沈む。
もう、広まっている。
そう考えるのが自然だった。
男子寮から本校舎へ続く渡り廊下に出ると、朝の光が白い石畳を照らしていた。昨日の植物祭で使われた看板が、壁際に立てかけられている。
《ボタニカル・マギアフェスタ》
昨日はこの文字だけで、生徒たちの顔が明るくなっていた。
今はその看板も、片付けを待つだけの物になっている。
蒼真は中庭を横切った。
あちこちで生徒たちが後片付けをしている。魔法で浮かせた木箱を運ぶ者、葉を掃き集める者、飾り花を分類する者。風属性の生徒が布幕を巻き取り、水属性の生徒が地面に残った汚れを洗い流している。
その中に、昨日の余韻がまだ残っていた。
花蜜クレープの甘い香り。
魔力スムージーの色。
花冠づくり。
相性迷路。
採取競争。
音楽パレード。
楽しい一日だった。
楽しかったからこそ、今朝の状況が重い。
蒼真が教室に近づくにつれ、廊下のざわめきは少しずつ変わっていった。
普通の会話ではない。
こちらを見て、すぐに目を逸らす。
蒼真はため息を押し殺した。
「……やっぱり、広まってるな」
教室の前に立つ。
一拍置いて、扉を開けた。
「おはよう」
いつも通りの声で言ったつもりだった。
だが、教室の空気はいつも通りではなかった。
がた、と椅子が鳴る。
何人かの視線が一斉にこちらを向く。
会話が止まる。
その沈黙は、事件現場のそれに少し似ていた。何かを知っている者たちが、知らないふりをしながらこちらを見ている沈黙。
蒼真は入口で足を止めた。
「……」
誰も返事をしない。
代わりに、教室のあちこちから小さな声が漏れる。
「来た……」
「本当に普通に来た……」
「エルミナ先輩の部屋から出てきたって……」
「朝帰り……?」
蒼真は、心の中で頭を抱えた。
やはり、手遅れだった。
それでも何事もなかったように自席へ向かおうとした、そのとき。
「蒼真」
赤髪の少女が立ちはだかった。
フレイア・バルディッシュ。
腕を組み、眉を吊り上げ、見るからに不機嫌そうな顔をしている。だが、その頬は怒りだけではなく、どこか赤い。
隣には、銀髪のセレナ・ヴァイスリヒトがいた。
こちらは姿勢を正し、冷静そうな表情をしている。
ただし、耳が赤い。
さらに奥の席にはルミエール・ド・アルセリアが座っていた。彼女は教科書を開いているが、ページはまったく進んでいないように見えた。
蒼真は嫌な予感を覚えながら、フレイアを見る。
「どうした」
「どうした、じゃないわよ」
フレイアの声が一段高くなる。
「どういうこと?」
「何がだ」
「とぼけない!」
フレイアが一歩詰め寄る。
近い。
昨日のバトルレースで見せた勢いとは別種の圧があった。
「今朝、エルミナ先輩の部屋から男子が出てきたって、学園中ですごい噂になってるんだけど」
教室の空気がぴんと張る。
蒼真は数秒、言葉を失った。
どう答えるべきか。
いや、答えは決まっている。
事実を言えばいい。
「……その男子は、たぶん俺だ」
「たぶんじゃない!」
フレイアが叫ぶ。
周囲の生徒が「やっぱり」とざわつく。
セレナが静かに目を細めた。
「つまり、噂は事実なのですわね」
「部屋から出てきた、という意味では事実だ」
「その言い方、非常に怪しいですわ」
「怪しくない。正確に言っただけだ」
蒼真は落ち着こうとした。
だが、落ち着こうとするほど、逆に自分が尋問を受けているような気分になる。
セレナは腕を組んだ。
「エルミナ先輩は、男子の告白をすべて断ってきた方ですわ。植物学に打ち込み、誰とも一定以上の距離をおくことで有名ですの」
「それは、昨日ルミエールから少し聞いた」
「そんな方の部屋から、朝に男子が出てくる。これは普通のことではありません」
セレナの声は冷静だった。
冷静だからこそ、逃げ場がない。
フレイアが横から言う。
「で、何があったの?」
「何もない」
「即答が怪しい」
「本当に何もないから即答したんだ」
「じゃあ、なんで朝までいたのよ!」
蒼真は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「疲れて、寝た」
教室の沈黙が深くなる。
フレイアが、じとっとした目で見てきた。
「女の子の部屋で?」
「……そうなるな」
「ベッドで?」
「たぶん」
「たぶん!?」
フレイアの声が裏返った。
蒼真は慌てて付け足す。
「いや、記憶が途中からないだけで、意識的に何かしたわけじゃない。昨日は植物祭でかなり歩き回ったし、競技にも参加したし、夜のパレードまであって……」
「言い訳が長いわ」
フレイアに切られた。
セレナが小さく息を吐く。
「蒼真。男女が夜に同じ部屋で過ごすということの意味を、少しは理解していますの?」
「理解はしている」
「本当に?」
「……たぶん」
「たぶんでは困りますわ」
蒼真は言い返せなかった。
正論だった。
ここで反論しても、軽率だったこと自体は変わらない。
だが、本当に何もしていない。
それだけは分かってほしい。
蒼真は、教室の奥に視線を向けた。
ルミエール。
昨日、夕方までは一緒にいた。屋台を巡り、食事をして、花冠を作り、香り占いをした。エルミナと合流した場面も見ている。
少なくとも、そこまでは証言してくれるはずだ。
「ルミエール」
蒼真は助けを求めるように声をかけた。
「何とか言ってくれ」




