第85話 植物の部屋で眠った夜
第85話 植物の部屋で眠った夜
植物祭のフィナーレを終えた学園は、まだ淡い余韻に包まれていた。
校庭の方からは、片付けをする生徒たちの声が聞こえてくる。遠くで笑い声が弾み、誰かが「また来年も」と言っているのが、夜風に乗って薄く届いた。
けれど、さっきまで校庭全体を震わせていた魔法植物たちの音楽は、もうない。
響管草の低い音も、共鳴花の透明な音色も、旋律花の色鮮やかなメロディも、すべては夜の空気の中に溶けていた。
蒼真は、エルミナに手を引かれながら寮棟へ戻っていた。
ノクティス魔法学園の寮は、男女で建物が分かれているわけではない。一つの大きな寮棟の中で、フロアごとに男子生徒と女子生徒の生活区域が分かれている。
女子生徒の方が圧倒的に多いため、女子フロアはいくつもある。反対に男子生徒は少なく、男子フロアはほとんど一階層を専有しているような形だ。
共用ロビーや階段、食堂などは同じ建物内にある。
だから、寮棟に戻ること自体は特別なことではない。
ただ。
蒼真は、横を歩くエルミナを見た。
緑色の髪が夜風に揺れ、長い耳の先が少し赤い。
手は繋がれたままだ。
問題は、寮棟に入ることではない。
エルミナの部屋へ行くことだ。
「蒼真」
エルミナが振り返る。
「緊張してる?」
「……少し」
「ふふ。正直だね」
「顔に出てたか?」
「うん。すごく」
エルミナは楽しそうに笑った。
普段の柔らかい雰囲気に、今夜は少しだけいたずらっぽさが混じっている。
「大丈夫だよ。取って食べたりしないから」
「植物みたいに言うな」
「蒼真は危険植物じゃないものね」
「それは安心していいのか?」
「たぶん」
「たぶんか」
二人は小さく笑った。
その笑いで、蒼真の緊張が少しだけ緩む。
寮棟の中へ入ると、祭り帰りの生徒たちがちらほらいた。
手に屋台の包みを持つ者。
花冠をつけたままの者。
疲れた顔で階段を上がっていく者。
植物祭の一日は、誰にとっても特別だったのだろう。
エルミナは女子フロアへ続く階段を上がる。
蒼真もその後に続いた。
途中、何人かの女子生徒とすれ違ったが、特に騒がれることはなかった。祭りの日で人の出入りが多いこともあるし、エルミナが一緒にいるからだろう。
それでも、蒼真はどこか落ち着かなかった。
「ここだよ」
エルミナが一つの扉の前で止まる。
木製の扉には、小さな植物の札が掛けられていた。
そこには、丸い文字でこう書かれている。
――エルミナ・リーフグレイス。
その下に、小さな蔦が絡むような飾りがついていた。
「入って」
「ああ」
扉が開く。
その瞬間、蒼真は思わず息を止めた。
部屋の中は、小さな温室だった。
棚の上には鉢植え。
窓辺にも鉢植え。
壁には乾燥させた植物標本。
天井近くからは吊り下げ式の蔦植物が垂れ、淡く光る苔が小瓶の中でほのかな明かりを放っている。
机の上には植物図鑑や研究ノートが積まれ、羽ペンとインク瓶の横には、小さな薬草の束が置かれていた。
ベッドのそばにも、丸い葉を持つ植物がいくつか並んでいる。
部屋全体に、土と葉と花の匂いがした。
強くはない。
むしろ落ち着く匂いだ。
「すごいな……」
蒼真は素直に呟いた。
エルミナは少し照れたように笑う。
「そう?」
「植物園みたいだ」
「それは褒め言葉だね」
「もちろん」
蒼真が頷くと、エルミナは嬉しそうに目を細めた。
「この子は夜になると空気を浄化してくれるの。こっちは眠りを助ける香りを出す子。あっちの小瓶は光苔で、夜の読書用」
「全部育ててるのか?」
「うん」
「大変じゃないか?」
「好きだから平気」
エルミナは当然のように言った。
その言葉に、蒼真は少し笑う。
やはり、彼女は植物が好きなのだ。
研究対象としてではなく、生活の一部として。
いや、もはや家族のように。
「適当に座って」
「ああ」
「私、先にシャワー浴びてくるね。植物祭でずっと動いてたから、汗も土もすごくて」
「分かった」
「蒼真もあとで使っていいよ」
「いや、俺は戻ってからで――」
「遠慮しなくていいのに」
「大丈夫だ」
蒼真がそう答えると、エルミナは少しだけ笑った。
「じゃあ、待ってて」
そう言って、エルミナは奥の浴室へ向かった。
扉が閉まる。
しばらくして、水の音が聞こえ始めた。
蒼真は部屋の中央に立ったまま、少しだけ固まる。
「……落ち着け」
自分に言う。
部屋に呼ばれただけだ。
話したいことがあると言っていた。
それだけだ。
それだけのはずだ。
たぶん。
蒼真は小さく息を吐き、近くの椅子に腰掛けた。
部屋は静かだった。
シャワーの水音が遠くに聞こえる。
それ以外は、植物たちが微かに葉を揺らす音だけ。
窓の外には夜の学園。
昨日までの喧騒ではなく、祭りの終わった静けさが広がっていた。
蒼真は机の上に置かれた研究ノートを見た。
もちろん、中身を勝手に見るつもりはない。
ただ、表紙に書かれた文字だけが目に入る。
葉脈反応記録。
影咲き草観察。
魔力吸い花群生調査。
どれもエルミナらしい。
蒼真は椅子にもたれ、今日一日を思い返した。
朝、ユリウスにからかわれた。
植物祭が始まった。
エルミナからフィナーレの約束をされた。
魔法植物カフェでリリアに会った。
フレイアに引っ張られて、バトルレースに出た。
花粉嵐。
つる橋。
森迷宮。
フレイアの火属性魔法。
優勝。
フレイアの耳元での囁き。
セレナとの相性迷路。
花冠。
蒼淵の心核。
セレナの赤面。
リリアとの材料採集競争。
月光花。
霧隠れシダ。
風紡ぎ綿。
星露草。
優勝賞品の古代薬草術大全。
ルミエールとの屋台巡り。
花冠づくり。
香り占い。
メモリフラワー。
アクセサリーの贈り合い。
エルミナの研究発表。
影咲き草。
そして、魔法植物の音楽パレード。
「……色々ありすぎだろ」
蒼真は小さく呟いた。
事件は起きていない。
いや、植物祭の直前にはトマスの件があったが、今日一日に限れば、事件というより祭りだった。
それでも、体も頭も限界に近い。
気づかないうちに、かなり疲れていたのだろう。
エルミナの部屋に満ちる植物の香りは、妙に落ち着いた。
眠りを助ける植物があると言っていたが、本当に効果があるのかもしれない。
蒼真は椅子から立ち上がり、部屋の中を少し歩いた。
窓辺に置かれた小さな鉢植えを見る。
丸い葉が、月明かりを受けて淡く光っていた。
その隣には、昼間見た影咲き草の小さな株がある。
まだ展示用ほど大きくはないが、光を受けると壁に小さな影の花を作っている。
「本当に影が花になるんだな」
蒼真はしばらく眺めた。
見えるものと、影に現れるものが違う。
やはり、不思議な植物だ。
ふと、ベッドの端に腰を下ろした。
柔らかい。
植物の香りが近い。
ここにも、睡眠を助ける植物の小鉢が置かれていた。
「少しだけ……」
横になるつもりはなかった。
ただ、背中を預けただけ。
ほんの少し、目を閉じるだけ。
エルミナが戻ってきたら起きればいい。
そう思った。
しかし。
次の瞬間、意識は静かに沈んでいった。
シャワーの音も。
植物の香りも。
今日一日の記憶も。
すべてが柔らかく混ざり、蒼真は眠りに落ちた。
しばらくして、浴室の扉が開いた。
エルミナが戻ってくる。
湯上がりの髪は少し湿っており、肩にかかる緑色の髪からは花の香りがした。
部屋着に着替える前の彼女は、蒼真へ声をかけようとして足を止めた。
「蒼真、次どうぞ……」
返事がない。
「蒼真?」
エルミナは近づく。
そして、ベッドで眠っている蒼真を見つけた。
完全に熟睡している。
呼吸は穏やかで、顔には疲れがにじんでいた。
エルミナはしばらく黙って見つめる。
それから、小さく笑った。
「本当に疲れてたんだね」
彼女はそっと近づき、蒼真の額にかかっていた髪を指先で払った。
蒼真は起きない。
「お疲れ様」
エルミナの声は、とても優しかった。
彼女は一度、浴室の方へ戻り、部屋着に着替えた。
柔らかな薄緑色のパジャマ。
植物の刺繍が裾に入っている。
髪を軽く拭きながら、もう一度ベッドのそばへ戻る。
蒼真はやはり眠っていた。
「話したいこと、あったんだけどな」
エルミナは小さく呟いた。
残念そうではある。
けれど、怒ってはいない。
むしろ、安心したような顔だった。
「今日は、たくさん頑張ったもんね」
彼女はベッドの端に腰掛ける。
部屋の植物たちは、夜の光をわずかに放っている。
光苔の瓶。
月明かりを受ける葉。
影咲き草の小さな影。
その淡い光の中で、エルミナは蒼真の寝顔を見つめた。
「蒼真」
呼んでも、返事はない。
「私ね、今日、本当に楽しかった」
独り言。
植物だけが聞いている。
「研究発表を見てもらえて、影咲き草を褒めてもらえて、音楽パレードを一緒に見られて……それに」
エルミナの頬が赤くなる。
「キスも、した」
彼女は自分の唇にそっと触れた。
「君は、きっとまた悩むんだろうね。元の世界のこととか、帰るかもしれないこととか、いろいろ」
蒼真は眠っている。
何も答えない。
「でも、今夜くらいは、何も考えずに休んでいいよ」
エルミナは小さく微笑んだ。
そして、蒼真の隣にそっと横になる。
最初は少し距離を空けた。
けれど、部屋が静かになるにつれて、彼女も眠気に包まれていく。
植物祭の準備。
研究発表。
育成コンテスト。
音楽パレード。
今日一日、エルミナもまた、ずっと走り続けていた。
「おやすみ、蒼真」
そう言って、エルミナは目を閉じた。
部屋の中で、光苔が淡く光っている。
眠り草がほのかな香りを漂わせる。
夜は静かに更けていった。
翌朝。
蒼真は、見慣れない天井を見て目を覚ました。
「……ん」
最初は、自分がどこにいるのか分からなかった。
窓から柔らかな朝の光が差し込んでいる。
空気には、土と葉の匂いが混じっている。
視界の端に、吊り下げられた蔦植物が見えた。
蒼真は数秒、ぼんやりした。
そして。
「……!」
一気に意識が覚醒した。
飛び起きる。
見回す。
植物だらけの部屋。
エルミナの部屋。
昨夜の記憶が、断片的に戻ってくる。
音楽パレード。
キス。
部屋に誘われたこと。
シャワーの音。
ベッドに横になったこと。
そして――。
「俺、寝たのか……?」
蒼真は自分の服を確認する。
昨日のままだ。
特に乱れている様子はない。
周囲を見る。
エルミナはいなかった。
代わりに、机の上に一枚の紙が置かれていた。
蒼真はゆっくり近づき、手紙を手に取る。
短い文だった。
――蒼真へ。
――昨日は楽しかったわ。
――今度はゆっくりしましょう。
――エルミナより。
「……」
短い。
短いのに、妙に破壊力がある。
蒼真は手紙を持ったまま、しばらく固まった。
「俺は……昨夜、何もしてないよな……?」
誰も答えない。
部屋の植物たちは、静かに朝の光を浴びている。
まるで何も見ていないふりをしているようだった。
蒼真は額に手を当てた。
「寝落ちしただけだ。たぶん」
たぶん、では困る。
だが、記憶を辿っても、眠りに落ちたところまでしかない。
少なくとも、自分が何かをした記憶はない。
むしろ、エルミナが気を遣ってそのまま寝かせてくれたのだろう。
蒼真は手紙を丁寧に畳んだ。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉か、自分でも少し分からなかった。
エルミナへか。
それとも、何も起きなかったことへか。
蒼真は部屋を出る前に、もう一度室内を見回した。
小さな温室のような部屋。
光苔。
影咲き草。
眠り草。
植物図鑑。
研究ノート。
昨夜、安心して眠ってしまった理由が分かる気がした。
この部屋は、エルミナそのもののようだった。
穏やかで、植物に満ちていて、少し不思議で、優しい。
「また、ちゃんと礼を言わないとな」
蒼真はそう呟き、部屋を後にした。
廊下は朝の静けさに包まれていた。
祭りの翌朝らしく、まだ起きている生徒は少ない。
蒼真は女子フロアから階段を降り、自分の男子フロアへ戻る。
幸い、途中で知り合いには会わなかった。
もしルミエールやリリア、フレイア、セレナにこの状況を見られたら、説明がかなり面倒なことになる。
いや、ユリウスに見られるのも危険だ。
あいつなら絶対に面白がる。
そう思いながら部屋の扉を開ける。
「……ただいま」
誰もいない。
ユリウスの姿はなかった。
ベッドも空。
机の上もいつも通り。
蒼真は深く息を吐いた。
「助かった……」
もしユリウスがいたら、朝帰りだなんだと散々からかわれていたに違いない。
蒼真は制服の上着を脱ぎ、シャワーを浴びる準備をした。
昨日の植物祭の匂いが、まだ服に残っている。
花。
土。
香草。
少しだけ、エルミナの部屋の香りも。
シャワーを浴び、着替えを終えると、ようやく頭が少し冷えた。
窓の外を見る。
昨日まで花と蔦で飾られていた校庭は、少しずついつもの姿に戻り始めていた。
屋台の一部は片付けられ、通路の飾りも外されている。
植物祭は終わった。
けれど、その一日で起きた出来事は、簡単には消えそうにない。
フレイア。
セレナ。
リリア。
ルミエール。
エルミナ。
それぞれと過ごした時間が、頭の中に残っている。
蒼真は机の上に置いたエルミナの手紙を見た。
「……本当に色々あったな」
小さく呟く。
祭りは終わった。
今日からまた、いつもの学園生活が始まる。
蒼真は制服の襟を正し、部屋の扉へ向かった。




