第84話 魔法植物たちの夜想曲
第84話 魔法植物たちの夜想曲
校庭に出ると、夜が始まっていた。
昼間の賑わいを包んでいた空は、いつの間にか深い藍色へ変わっている。西の空に残っていた夕焼けの名残も薄れ、学園の尖塔や屋根の輪郭が、夜の色に溶け込もうとしていた。
けれど、暗くはない。
校庭には、無数の魔法植物が並べられていた。
通路の両脇に置かれた光る苔。蔦で作られたアーチ。花弁の奥に淡い灯りを宿した大輪の花。細い茎を揺らす小型植物。
それらがまだ音を出す前から、会場全体が何かを待っているようだった。
「間に合ったね」
隣で、エルミナがほっとしたように言った。
彼女は蒼真の腕を取ったまま、校庭の中央へ視線を向けている。
緑色の髪が夜風に揺れ、長い耳の先が少しだけ見えた。
研究発表の時の真剣な顔でもなく、影咲き草を説明していた時の誇らしげな顔でもない。
今のエルミナは、純粋に植物祭のフィナーレを楽しみにしている少女の顔をしていた。
「すごい人ですね」
蒼真が言うと、エルミナがちらりと見上げる。
「敬語」
「あ」
「さっきから何度も言おうと思っていたんだけどね」
エルミナは少し頬を膨らませた。
「せっかく一緒に見るんだから、もう少し近い感じがいいな」
「……分かった」
「うん」
エルミナは満足そうに笑った。
蒼真はまだ少し慣れない。
エルミナは二年生で、植物の知識も豊富で、研究発表では教師や研究者たちを前に堂々と話していた。
尊敬する先輩。
そう思うのは自然なことだった。
けれど彼女は、その距離を少し寂しがっている。
それなら、努力するしかない。
「人が多いな」
蒼真は言い直した。
「うん。音楽パレードは毎年一番人気なんだよ」
「魔法植物が音楽を奏でるんだったか」
「そう。正確には、育成者が魔力を流して、植物がそれぞれの性質で音を返すの」
「植物が楽器になるのか」
「楽器でもあるし、演奏者でもあるかな」
エルミナはそう言って、嬉しそうに校庭を見た。
「植物はね、ちゃんと応えてくれるんだよ」
その言葉に、蒼真は昼間の研究発表を思い出す。
葉脈は魔力の導線ではなく、魔力回路。
植物は魔力を受信し、変換し、保持する。
魔力環境を情報として解析する。
ならば、これから始まる音楽も、ただ人間が植物を鳴らしているだけではないのかもしれない。
人と植物が、魔力を通じて会話している。
そんなものなのかもしれない。
やがて、校庭の中央に立つ教師が手を上げた。
会場の照明が、ゆっくり落ちていく。
ざわめきが薄れる。
観客たちの声が消え、風の音だけが残る。
そして、鐘が鳴った。
カーン……。
低く澄んだ音が、夜の校庭に広がる。
もう一度。
カーン……。
通路の両脇に並ぶ魔法植物たちが、淡く光を帯び始めた。
蒼真は息を呑む。
昼間に見た光る花とは違う。
それぞれの植物が、自分の中に宿した色で、静かに光っている。
青。
緑。
金。
薄紫。
白。
光が浮かび、重なり、夜の校庭をゆっくり染めていく。
「始まるよ」
エルミナが小さく言った。
その声も、まるで音楽の一部のように柔らかかった。
最初に現れたのは、太い茎を持つ大きな植物だった。
茎の内部が空洞になっているらしく、表面にはいくつもの節がある。
育成者がそっと手を添え、魔力を流し込む。
次の瞬間。
ドォォォン……。
低く深い音が鳴った。
大太鼓のような音。
けれど、ただ叩いた音ではない。
茎の奥から響き、地面を通って足元まで震わせるような音だった。
「……すごい」
「響管草だよ」
エルミナが囁く。
「茎の内部が空洞になっていて、魔力を通すと空気が振動するの。育て方で音の深さが変わるんだ」
「楽器じゃないのか」
「植物だよ」
「植物って何だったかな」
蒼真が真顔で言うと、エルミナがくすりと笑った。
響管草の低音に合わせて、周囲の小型植物が葉を震わせる。
しゃらら、と細かな音が生まれた。
金属音に似ている。
けれど、冷たくはない。
葉が擦れ合う自然な響きが、低音の上に重なっていく。
次に現れたのは、薄い膜のような花弁を持つ花たちだった。
共鳴花。
魔力に反応して花弁が震え、風鈴のような音を奏でる。
一輪が鳴る。
ちりん。
もう一輪。
りん。
それが列になって重なり、透明な合唱のような音になった。
夜空へ、音が浮かび上がる。
蒼真は完全に見入っていた。
共鳴花の音は、楽器というより、光が音になったようだった。
「綺麗だな」
「でしょう?」
エルミナの声は少し誇らしげだった。
「この子たちは、風だけでは鳴らないの。育成者の魔力の揺らぎに合わせて音を出すんだよ」
「魔力が乱れると?」
「音も濁る」
「なるほど」
「だから、音楽パレードは育成技術の発表でもあるの」
続いて、色鮮やかな花が行進に加わった。
旋律花。
花弁の色が変わるたびに、音階も変わる。
赤い花弁が高い音を出し、青い花弁が低い音を響かせる。黄色い花弁は柔らかな中音を奏で、紫の花弁がその間を滑るように繋いでいく。
育成者たちが魔力を細かく操作するたび、花の色が変わり、旋律が生まれる。
校庭全体が、巨大な鍵盤になったようだった。
蒼真は、現代日本で聞いた音楽を思い出す。
ピアノ。
バイオリン。
吹奏楽。
電子音。
どれとも違う。
これは、生命と魔力が混ざった音だった。
人工の楽器では出せない。
けれど、完全な自然音でもない。
その中間。
この世界だからこそ生まれる音。
「蒼真」
エルミナが小さく呼んだ。
「ん?」
「ね。だから私は植物が好き」
その声は、これまで聞いたどの言葉よりも優しかった。
蒼真はエルミナを見る。
彼女はパレードを見ていた。
目を細め、まるで大切な友人たちの演奏を見守るように。
「この子たちは、ただ綺麗なだけじゃない。怖い子もいるし、扱いが難しい子もいる。でも、ちゃんと向き合えば、ちゃんと返してくれる」
「……そうだな」
「人より分かりやすい時もあるんだよ」
その言葉の奥に、少しだけ寂しさが混じっている気がした。
土臭いと言われた過去。
混血であることへの引け目。
植物ばかり見ていると言われた孤独。
蒼真はそれを思い出した。
だからこそ、エルミナにとって植物はただの研究対象ではない。
友人であり、家族であり、自分を理解してくれる存在なのかもしれない。
その時。
エルミナの手が、そっと蒼真の手に触れた。
指先が重なる。
それから、ゆっくりと握られる。
「……エルミナ先輩?」
蒼真が言った瞬間、エルミナが少しだけ眉を下げた。
「先輩」
「あ」
「それ、やめてほしい」
「……すみません」
「敬語も」
「……あ」
エルミナは少しだけ体を寄せた。
肩が触れる。
手は繋がれたまま。
「距離を感じるんだ」
「距離……」
「うん。蒼真くんに尊敬されるのは嬉しいけど、それだけだと少し寂しい」
彼女の声は小さい。
けれど、はっきりしていた。
「私は、君ともっと近くなりたい」
蒼真は少し黙った。
周囲では、旋律花の音が高まっている。
光粒草がリズムに合わせて明滅し、芳香樹が甘い香りを漂わせる。風紋草がそよぎ、音に合わせて空気の流れを変えた。
観客の髪がふわりと揺れる。
音楽そのものが、肌に触れてくるようだった。
「……分かった」
蒼真はゆっくり言った。
「努力します」
エルミナが見上げる。
「敬語」
「分かったよ」
今度はきちんと直した。
エルミナの顔が、ぱっと明るくなる。
「うん」
「でも、すぐには慣れないかもしれない」
「いいよ。ゆっくりで」
「エルミナ……で、いいのか?」
名前を呼んだ瞬間、エルミナの長い耳がぴくりと揺れた。
夜の光の中でも分かるくらい、頬が赤くなる。
「……うん」
エルミナは小さく頷いた。
「それがいい」
蒼真も少し照れた。
呼び方を変えただけだ。
それだけなのに、距離が一気に近づいた気がする。
手の温度が、さっきよりはっきり分かる。
パレードはさらに進む。
光粒草が夜空へ小さな光を放ち、それが星のように舞った。
芳香樹が音の強弱に合わせて香りを変える。
甘い香り。
爽やかな香り。
雨上がりの土のような香り。
風紋草が風を生み、その香りを観客席へ運んでいく。
音、光、香り、風。
すべてが一つに重なる。
校庭全体が巨大な楽器になっていた。
蒼真はただ見ていた。
考えることを忘れるほどだった。
「綺麗だな」
「うん」
エルミナの声が隣から聞こえる。
「一緒に見られて、よかった」
「俺もだ」
その言葉に、エルミナがこちらを見た。
光粒草の光が、彼女の瞳に映っている。
緑色の瞳が揺れる。
少し不安そうで、少し嬉しそうで、それでも何かを決めたような顔。
「蒼真」
「ん?」
エルミナは繋いだ手に少し力を込めた。
周囲では、パレードがクライマックスへ向かっている。
すべての植物が中央へ集まり、育成者たちが魔力を合わせ始めた。
響管草の低音。
共鳴花の透明な音。
旋律花の色と音階。
光粒草の明滅。
芳香樹の香り。
風紋草の風。
それらが一つの波になり、校庭を満たす。
観客たちが息を呑む。
その中で、エルミナは蒼真へ少しずつ近づいた。
蒼真は止めなかった。
止める理由が見つからなかった。
彼女の顔が近い。
花と土と、少し甘い香りがした。
次の瞬間。
唇が重なった。
それは、短いキスではなかった。
静かで、長いキスだった。
周囲では音楽が高まり、光が溢れ、風が渦を巻いている。
拍手も歓声も、まだ遠い。
蒼真には、エルミナの手の温度と、唇の柔らかさだけがはっきり感じられた。
時間が引き伸ばされたようだった。
やがて、ゆっくり唇が離れる。
エルミナは顔を赤くしながらも、視線を逸らさなかった。
「エルミナさん……」
「さんも、いらない」
「……難しいな」
「ゆっくり慣れて」
「……分かりました」
「敬語」
「分かったよ」
エルミナは嬉しそうに笑った。
それから、もう一度、短く唇を重ねた。
今度は少しだけ軽い。
けれど、蒼真の心臓はさっきより強く鳴った。
パレードが終わる。
全ての植物が一斉に光を放ち、最後の音が夜空へ消えていく。
一瞬の静寂。
そして、観客席から大きな拍手が沸き起こった。
歓声が校庭を満たす。
魔法植物たちの音楽パレードは、盛大な拍手の中で幕を閉じた。
だが、蒼真の頭はそれどころではなかった。
隣のエルミナは、繋いだ手を離さない。
むしろ、少しだけ強く握っている。
「ね、蒼真」
「何だ?」
エルミナは少しだけ顔を伏せた。
長い耳の先まで赤い。
けれど、声ははっきりしていた。
「これから、私の部屋に来ない?」
「え?」
蒼真は固まった。
「部屋?」
「うん。寮にある私の部屋」
「それって……」
言葉が続かない。
エルミナも赤い。
だが、逃げない。
「話したいことがあるんだ」
「話?」
「うん」
彼女は少しだけ蒼真の手を引いた。
「それに、もう少し一緒にいたい」
まっすぐな言葉だった。
蒼真は返事に困る。
夜。
女子寮。
エルミナの部屋。
この組み合わせが、どう考えても普通ではないことくらいは分かる。
けれど、エルミナの表情は真剣だった。
からかっているわけではない。
軽い気持ちでもない。
「来る?」
エルミナが尋ねる。
祭りの歓声は少しずつ遠ざかっていく。
夜の校庭には、まだ魔法植物たちの余韻が残っていた。
光。
香り。
風。
そして、繋がれた手の温度。
蒼真は小さく息を吐いた。
「……分かった。行くよ」
エルミナの顔が、柔らかくほころんだ。
「ありがとう」
彼女は蒼真の手を引いて歩き出す。
植物祭のフィナーレを終えた校庭を背に、二人は寮の方へ向かった。
夜の学園に、まだ響管草の低い余韻が残っている。
その音を背中に聞きながら、蒼真はエルミナの横顔を見た。
緑色の髪が夜風に揺れる。
彼女は少し照れていて、けれど嬉しそうだった。
植物祭の夜は、まだ終わらない。




