第78話 星露草と黒髪助手のご褒美(1)
第78話 星露草と黒髪助手のご褒美
中心部の森に近づくにつれて、空気は明らかに重くなっていった。
それは湿地帯の霧とは違う。
水気でも、泥の匂いでも、植物の密度でもない。
もっと見えないもの。
けれど確かにそこにあるもの。
魔力だ。
蒼井蒼真の目には、それが青白い靄のように見えていた。
森の入口から奥へ向かうほど、その靄は濃くなる。地面を這うように流れ、木々の根元へ絡みつき、葉の隙間から光の筋のように立ち上る。
まるで森全体が、巨大な魔法陣の内側にあるようだった。
蒼真は無意識に足を止め、周囲を見回した。
「……すごいな」
隣で、リリアが小さく呟いた。
その声は、いつもの理論的な響きより少しだけ硬い。
「そんなにか?」
蒼真が尋ねると、リリアは眼鏡の奥で目を細めた。
「蒼真、本当に平気なの?」
「平気って?」
「息苦しくない? 頭が重いとか、胸がざわつくとか」
「いや、特には」
蒼真は自分の体の感覚を確かめる。
足は動く。
呼吸も普通。
視界が少し派手になったような感覚はあるが、それは魔力痕跡が濃いからだろう。
不快感はない。
むしろ、痕跡がはっきり見える分、周囲の状態を読み取りやすい。
リリアは信じられないものを見るように蒼真を見た。
「やっぱり、あなたの体質はおかしいわ」
「褒めてるのか?」
「半分は褒めてるわ。半分は研究したい」
「俺は研究素材じゃない」
「大切に扱うって言ったでしょう?」
「それは安心していいのか分からない」
いつもの調子で返したつもりだったが、リリアの笑みは少し弱かった。
彼女の額にはうっすら汗が浮いている。
黒髪の端が頬に張りつき、呼吸もわずかに浅い。
「リリア」
「何?」
「無理してないか」
「……してない、と言いたいところだけど」
リリアは一歩前へ進もうとして、すぐに止まった。
その足元に、青白い小さな花が咲いている。
花弁は半透明で、中心部に黒い点がある。可憐な見た目だが、周囲の魔力がその花へ吸い込まれるように流れていた。
「魔力吸い花か」
「ええ」
リリアは小さく息を吐いた。
「触れなくても、近づくだけで少しずつ魔力を吸われる。普通の魔法使いなら、ここから先はかなりきついわ」
「リリアもか?」
「闇属性は吸収系に多少耐性があるけど……この量は無理ね」
リリアは悔しそうに唇を噛んだ。
「ごめん。私、これ以上は進めないかも……」
その声には、弱音を吐くことへの悔しさが混じっていた。
蒼真は周囲を確認する。
森の入口から少し進んだ場所に、倒木がある。腰を下ろせる高さで、周囲には魔力吸い花が比較的少ない。
「リリアはここで待っててくれ」
「蒼真?」
「俺が星露草を取ってくる」
「ひとりで?」
「ああ」
「危なくないの?」
「分からない。でも、少なくとも今のところ俺には影響がない」
「でも……」
「無理して一緒に来られる方が危ない」
蒼真がそう言うと、リリアは反論しかけて、口を閉じた。
彼女は感情だけで動くタイプではない。
状況を判断すれば、最適解は分かっている。
分かっているからこそ、悔しいのだろう。
「……分かったわ」
リリアは倒木に腰を下ろした。
採集鞄を抱えるようにして、蒼真を見上げる。
「でも、危ないと思ったらすぐ戻ってきて」
「ああ」
「星露草より、あなたの方が大事だから」
蒼真は一瞬、言葉に詰まった。
「……分かった」
「本当に?」
「本当に」
「あなたの本当に、信用できない時があるのよね」
「それは否定しない」
「否定しなさいよ」
リリアは少しだけ笑った。
その笑みを見て、蒼真も肩の力を抜く。
「行ってくる」
「うん。ありがと」
蒼真は森の奥へ向かった。
足を踏み入れるたび、青白い魔力の靄が靴元で揺れる。
普通の生徒なら、この時点で足が重くなるのだろう。
だが蒼真には、ただ光の流れが見えているだけだった。
魔力吸い花は、そこかしこに咲いていた。
小さな花弁を開き、周囲の魔力をゆっくり吸い込んでいる。その吸い込み方は、風というより渦だ。
目に見えない水流が、花の中心へ落ち込むように流れている。
蒼真は花を踏まないよう慎重に進む。
自分には効かないとしても、植物を傷つける必要はない。
この森は、祭りの競技フィールドであると同時に、生きている場所だ。
エルミナが聞いたら、きっとそう言うだろう。
「……植物は生きている、か」
蒼真は小さく呟く。
その言葉は、いつの間にか自分の中にも残っていた。
森の奥へ行くほど、魔力の痕跡は複雑になっていく。
青。
白。
緑。
時折、金色に近い細い筋。
木の根が魔力を吸い上げ、葉脈へ送り、葉先から空気中へ放っているように見える。
植物が魔力をただ受けるだけではなく、処理し、流し、環境を作っている。
エルミナが研究していた葉脈の話を、蒼真は思い出した。
植物の葉脈は魔力を受信し、変換し、保持する。
難しい発表だったが、要するに植物も魔力を扱っているということなのだろう。
その視点で見ると、この森はただの森ではない。
魔力を循環させる巨大な生物のようだった。
(俺は……本当に何なんだろうな)
蒼真は歩きながら、自分の手を見る。
魔力を生み出せない。
けれど、外部魔力に干渉できる。
魔法を乱し、時に無力化し、痕跡を見る。
普通の魔法使いが進めない場所を、こうして平然と歩いている。
魔力ゼロ。
そう呼ばれている。
しかし、それは本当に正しいのか。
ゼロというより、何かの空白。
あるいは、周囲の魔力を受け付けない穴。
考えても答えは出ない。
だから蒼真は、目の前の目的へ意識を戻した。
星露草。
リリアが欲しがる素材。
優勝の鍵になる植物。
森の奥で、小さな光が瞬いた。
蒼真は足を止める。
木々の根元。
魔力吸い花の群生を抜けた先。
そこに、青白く光る草が生えていた。
葉は細く、夜露をまとっているように輝いている。
葉先には小さな光の粒。
その粒はただ丸いだけではない。
よく見ると、星形に揺れていた。
「これが……星露草か」
蒼真はしゃがみ込む。
周囲には、似たような光を放つ草もいくつかある。
だが、リリアが言っていた特徴を思い出す。
本物の星露草は、夜露のように光る。
葉先の露が星形に揺れる。
魔力濃度が高い場所に生える。
目の前の草は、その条件を満たしている。
蒼真は採集道具を取り出した。
リリアから教わった通り、根元を傷つけないように土をほぐす。
根は浅いが、細かい。
強く引けば切れる。
蒼真は慎重に指先を動かした。
一本目。
無事に採取。
保存容器へ入れると、草の光が瓶の中で小さく瞬いた。
「……思ったより、あるな」
周囲を見れば、星露草は一株だけではなかった。
根元の影、倒木の裏、魔力吸い花に囲まれた小さな空間。
普通の魔法使いなら近づけない場所に、いくつも生えている。
だから残っていたのだろう。
蒼真は一本ずつ慎重に採取した。
二本。
三本。
四本。
取りすぎて環境を壊さないよう、群生地には必ず株を残す。
エルミナなら、そうする。
リリアも、品質だけでなく採取後の生育を考えるだろう。
蒼真は必要十分な数だけを集めた。
「これだけあれば、さすがに足りるだろ」
保存容器を確認し、立ち上がる。
その時、森の奥で何かが揺れた気がした。
蒼真は視線を向ける。
風ではない。
魔力の流れが、一瞬だけ乱れた。
青白い靄が、奥へ吸い込まれるように揺らいだのだ。
「……?」
何かいるのか。
それとも森そのものの反応か。
蒼真はしばらく目を凝らした。
だが、次の瞬間には流れは元に戻っていた。
今、深追いするべきではない。
競技中であり、リリアを待たせている。
蒼真は踵を返した。
来た道を戻る。
魔力吸い花の間を抜け、青白い靄の中を歩く。
倒木の近くまで戻ると、リリアが不安そうに立ち上がった。
「蒼真!」
「待たせた」
「大丈夫だった?」
「ああ。特に問題はなかった」
「本当に?」
「本当に」
リリアは蒼真の顔をまじまじと見た。
怪我がないか、顔色が悪くないか、呼吸が乱れていないか。
観察しているのが分かる。
蒼真は苦笑した。
「そんなに見るな」
「見るわよ。あなた、自分の異常に鈍いんだから」
「異常前提なのか」
「前提よ」
リリアはそう言ってから、蒼真の手元に気づいた。
「それ……」
「ああ。星露草だと思う」
蒼真が保存容器を差し出す。
リリアは受け取り、中を覗いた。
そして固まった。
「……え?」
「違ったか?」
「違わないわ」
リリアはもう一度見る。
さらに角度を変えて確認する。
「……え?」
「だから違ったのか?」
「違わないって言ってるでしょう!」
リリアの声が少し大きくなる。
「こんなに?」
「そこそこ生えてたぞ」
「そこそこって……!」
リリアは両手で保存容器を抱え、震えるように言った。
「これ、全部高級素材よ!? 一本でもかなり点になるのに、こんなに状態のいい星露草を複数本って……!」
「取りすぎたか?」
「違うわ! むしろよく株を残して採ったわね。根もほとんど傷ついてない。品質も高い。信じられない」
「リリアに教わった通りにやっただけだ」
「……」
リリアは一瞬、言葉を失った。
そして、嬉しそうに笑う。
「本当に、あなたって……」
「何だ?」
「最高の相棒ね」
そう言うと、リリアは一歩近づいた。
蒼真が反応するより早く、頬に軽い感触が触れる。
ちゅ、と小さな音。
「わっ」
蒼真は思わず声を漏らした。
リリアは少しだけ頬を赤くしながらも、今日は引かない。
「ありがと、蒼真」
「あ、ああ」
「なに? 足りない?」
「足りないとか、そういう話じゃない」
「じゃあ、もう一回?」
「いいから、行くぞ」
「はーい」
リリアは満足そうに笑った。
そして、ごく自然に蒼真の手を取る。
蒼真は手元を見る。
「リリア?」
「迷子防止よ」
「俺が?」
「私が」
「この辺りなら、もう大丈夫じゃないか?」
「うるさいわね。迷子防止なの」
「そうか」
「そうよ」
リリアは前を向いたまま言う。
耳は赤い。
蒼真は何も言わなかった。
手を離す理由もない。
二人は手を繋いだまま、森を出た。




