第77話 風に舞う綿と、黒髪助手の反撃(1)
第77話 風に舞う綿と、黒髪助手の反撃
湿地帯を抜けると、空気が変わった。
さっきまで足元にまとわりついていた泥の匂いと、薄い霧の湿り気が少しずつ遠ざかっていく。代わりに、乾いた草の匂いと、遠くから吹き下ろしてくる風の冷たさが混じり始めた。
蒼井蒼真は、横を歩く九条リリアをちらりと見た。
リリアの黒髪は、まだところどころ湿っている。泥はかなり落としたはずだが、制服の裾には薄く茶色い跡が残っていた。
だが、彼女の表情は先ほどよりずっと明るい。
鞄の中には、月光花と霧隠れシダ。
泥まみれになりながらも、リリアはきっちり成果を出した。
そのあたりが、いかにも彼女らしい。
「次は高所にある風紡ぎ綿を取りに行くわよ」
リリアが採集リストを確認しながら言った。
「ああ」
蒼真は短く返す。
するとリリアが、眼鏡の奥からじっと見上げてきた。
「何、そのパッとしない返事」
「普通だろ」
「普通じゃないわ。さっきまであんなに赤くなってたのに」
「それは……」
「もっとしたかったの?」
「は?」
蒼真は思わず足を止めた。
リリアはにやりと笑う。
「欲しがりさんね」
「いや、違うって」
「まあ、照れちゃって」
「照れてない」
「耳が赤いわよ」
蒼真は反射的に耳に触れそうになって、やめた。
触れたら負けだと思った。
リリアはそれを見て、さらに楽しそうに笑う。
「可愛い」
「からかうな。行くぞ」
「はいはい」
軽い調子で返しながらも、リリアは蒼真の隣を離れない。
歩幅を合わせているのは、たぶん意識してのことだ。
魔法薬の材料採集競争。
始まる前は、リリアが本を欲しがっているだけの競技だと思っていた。
だが、実際に始まってみると、彼女の知識と判断力は頼もしかった。植物の特徴、生育地、採取方法、保存容器の扱い。どれも蒼真には分からない。
事件ならば、蒼真は現場を見る。
痕跡を見る。
人の言葉の矛盾を見る。
だが、植物は違う。
知らなければ、そもそも何を見ればいいのか分からない。
その意味で、今のリリアはまさに助手であり、同時に教師でもあった。
「風紡ぎ綿って、風属性魔法薬に使う素材だったな」
「ええ。風魔法の触媒としてかなり優秀よ。魔力を軽くする性質があって、飛行補助薬や呼吸調整薬にも使われるわ」
「呼吸調整?」
「高所や強風地帯で魔力循環が乱れにくくなる薬。あと、長時間詠唱する術者の呼吸を安定させる補助薬にもなるわね」
「本当にいろいろあるんだな」
「魔法薬は奥が深いのよ」
リリアの口調に熱が入る。
「同じ素材でも、採る時期、保存状態、乾燥方法で効果が変わるの。風紡ぎ綿なんて特に繊細で、強く握るだけで繊維が潰れて品質が落ちるわ」
「なら、触るのも難しそうだな」
「そうよ。だから採取には専用の網と、魔力遮断布を使うの」
リリアは鞄から小さな折りたたみ式の網を取り出して見せた。
見た目は虫取り網に近いが、網目が銀色に光っている。細かい魔法文字が縁に刻まれていた。
「これで風紡ぎ綿を包む。直接手で掴むのは最後」
「なるほど」
「あなたは下で見ていて」
「俺は何もしなくていいのか?」
「今のところはね」
リリアは少しだけ意地悪く笑った。
「湿地帯でも、あなたは私の泥を落としただけだったし」
「一応、見張りはしてた」
「それと、私に変な触り方をした」
「誤解だ」
「誤解かしら」
「誤解だ」
「それで、キスして、赤くなって」
「リリア」
「はいはい。真面目な顔に戻らないで。競技中だったわね」
リリアはくすくす笑う。
蒼真はため息をつき、前を見る。
高所エリアは、遠目にも目立っていた。
祭り用に整備された採集フィールドの一角に、切り立った岩場がある。自然の崖をそのまま利用しているのか、あるいは土属性魔法で安全に整形しているのか、崖の表面には足場になりそうな凹凸がいくつもある。
だが、下から見上げると、かなり高い。
崖の上では白い綿のようなものが風に揺れていた。
空に溶けそうなほど軽い。
風が吹くたび、ふわりと浮き上がり、また岩肌の植物に絡まって留まる。
「あれか」
「ええ。風紡ぎ綿よ」
リリアは目を細めた。
「思ったより状態がいいわね。風に流されすぎていない」
「普通に登るのか?」
「まさか」
リリアは崖の前で立ち止まり、足元の影を見た。
太陽は少し傾き始めている。
その影は、リリアの足元から崖の方へ伸びていた。
「闇魔法は、影があれば応用範囲が広がるの」
「さっきの影糸もそうだったな」
「ええ。でも、今度は少し違うわ」
リリアは右手を崖へ向けた。
指先がすっと動く。
「影縫い――シャドウステッチ」
黒い糸が、リリアの足元から伸びた。
それは先ほどの影糸より太く、密度が高い。蜘蛛の巣というより、縫い針から伸びる黒い糸のようだった。
糸はリリアの靴底を通り、崖の表面へ突き刺さる。
そして、靴と岩肌を縫い合わせるように固定した。
「靴を崖に縫ってるのか?」
「正確には、影を媒介に接点を固定しているの。足を置いた場所から滑りにくくする魔法よ」
「便利だな」
「でしょう?」
リリアは少し得意げだった。
「ただし、固定しすぎると動けなくなるから、足を上げるたびに解除と再縫合を繰り返す必要があるわ」
「かなり細かい制御だな」
「だから私向きなの」
そう言って、リリアはさらに魔法を唱える。
「影手――シャドウハンド」




