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魔力ゼロ探偵と美少女たちの魔法学園事件簿 ~その事件、魔法じゃありません!~  作者: にめ
1学年前期:ボタニカル・マギアフェスタ

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第76話 影の糸と月光の花(2)

第76話 影の糸と月光の花




 湿地帯の奥から、小さな悲鳴が聞こえた。


「きゃっ!?」


「リリア?」


 蒼真が一歩踏み出しかける。


 だが、すぐに足元の泥が沈み、靴の先が取られた。


「くそ……」


 これでは追えない。


 無理に踏み込めば、自分も足を取られて動けなくなる。


 蒼真は入口で待つしかなかった。


 数分後。


 霧の中から、リリアが戻ってきた。


 両手には、淡く光る花と、細い葉を持つシダ。


 月光花と霧隠れシダ。


 目的の素材は確かに持っている。


 ただし。


「……リリア」


「何よ」


「大丈夫か?」


「大丈夫じゃないわ」


 リリアは泥まみれだった。


 黒髪の先に泥がつき、頬にも薄く茶色の汚れが跳ねている。制服の裾も、靴も、採集鞄も泥だらけだ。


 眼鏡にまで小さな泥の点がついていた。


「取れたのは取れたわ」


 リリアは月光花と霧隠れシダを保存容器へ入れながら、悔しそうに言う。


「でも、最悪」


「何があった?」


「跳ね根よ」


「跳ね根?」


「近づくと跳ねて逃げる植物。根っこのくせに、やたら元気なの」


「根っこが跳ねるのか」


「跳ねるわ。しかも泥を撒き散らしながら」


 リリアはむすっとした顔で眼鏡を外し、泥を拭おうとする。


 だが手も汚れているため、かえって汚れそうだった。


 蒼真はハンカチを取り出した。


「ほら」


「……ありがと」


 リリアは少しだけ素直な声で受け取る。


 蒼真は周囲を見回した。


 湿地帯の端に、小さな水辺と木陰がある。競技フィールド内ではあるが、少し人目が少ない。


「そこで少し落とそう。泥がついたままだと動きにくいだろ」


「時間は?」


「まだある。視界が悪い状態で進む方が危ない」


「……正論ね」


 二人は水辺へ移動した。


 リリアはしゃがみ、手を水で洗う。眼鏡も慎重に濡らして泥を落とした。


 蒼真は近くに立ち、周囲を見ていた。


 他の参加者たちはそれぞれ別ルートへ散っており、ここにはほとんど人がいない。


 リリアは手と顔を軽く洗うと、濡れた髪を指で払った。


「もう、最悪だわ」


「素材は取れてる。結果だけ見れば成功だ」


「理屈ではそうだけど、泥まみれになる予定はなかったの」


「跳ね根は想定外か」


「ええ。あんな位置にいるなんて思わなかったわ」


 リリアは制服の肩についた泥を拭こうとする。


 だが、うまく落ちない。


「貸して」


「え?」


「ハンカチ。俺がやる」


 蒼真は水で湿らせたハンカチを受け取り、リリアの肩の泥をそっと拭った。


 布越しに、できるだけ丁寧に。


 リリアの体がぴくりと揺れる。


「……蒼真」


「痛かったか?」


「違う」


「じゃあ、冷たかったか?」


「それも違う」


「なら?」


「……変な撫で方しないで」


 リリアの声が小さくなる。


「変な?」


「丁寧すぎるのよ」


「泥を落としてるだけだ」


「だから、その“だけ”が問題なの」


 リリアの耳が赤い。


 蒼真はようやく自分の距離が近いことに気づいた。


「あ、ごめん。加減が分からなくて」


「変に優しいと、変な気分になるじゃない」


「変な気分?」


「言わせないで」


 リリアはむっとした顔で蒼真を見る。


 頬が赤いせいで、怒っているというより、照れているように見えた。


「何? 誘ってるの?」


「いや、そういうつもりじゃ……」


 蒼真まで顔が熱くなる。


「ごめん」


「だめ」


「だめ?」


「許さない」


 リリアはハンカチを蒼真の手から取る。


 そして、一歩近づいた。


「リリア?」


「罰よ」


「何の――」


 言い終える前に、リリアが背伸びした。


 唇が触れる。


 それは一瞬だった。


 だが、蒼真の思考を止めるには十分だった。


「……っ」


 リリアは少し離れ、眼鏡越しに蒼真を見上げる。


「これで少しだけ許してあげる」


「リリア、競技中だぞ」


「知ってるわ」


「なら――」


「だから、ちょっとだけ」


 リリアはもう一度、今度は頬に軽く口づけた。


 蒼真の体が固まる。


「おい」


「何?」


「ここまでだ」


「どうして?」


「これ以上はまずい」


 蒼真はリリアの肩に手を置き、少しだけ距離を取った。


 力は入れない。


 拒絶ではなく、線を引くための距離。


 リリアはその手を見て、少しだけ目を細める。


「どうまずいのかしら?」


「競技中だ。それに、人が来るかもしれない」


「それだけ?」


「それだけじゃない」


 蒼真は言葉に詰まる。


 リリアは、そんな蒼真を見て、少し意地悪く笑った。


「蒼真って、こういうところは真面目ね」


「こういうところだけじゃない」


「そうかしら」


 リリアは指先で自分の唇に触れた。


「じゃあ、続きはまた後でね」


「続きって何の続きだ」


「さあ?」


 リリアはにこりと笑い、保存容器を確認する。


 完全に主導権を握られている。


 蒼真は顔の熱を冷ますように、水辺の方へ視線を逸らした。


「……素材は無事なんだな」


「ええ。月光花と霧隠れシダ、どちらも状態はいいわ」


 リリアは採集鞄から容器を取り出す。


 月光花は淡く白い花弁を閉じていた。


 昼間であるため完全には開いていないが、花の中心には柔らかな光が残っている。


 霧隠れシダは細かい葉を持ち、容器の中でも薄い霧をまとっていた。


「本当に取ってきたんだな」


「当然よ。泥まみれになった分、成果は出したわ」


「さすがだ」


 蒼真が素直に言うと、リリアは少しだけ視線を逸らした。


「……そうやってすぐ褒める」


「褒められることをしただろ」


「だからずるいのよ」


「さっきからずるいばかりだな」


「実際ずるいもの」


 リリアは立ち上がり、濡れたハンカチを軽く絞った。


「このハンカチ、あとで洗って返すわ」


「気にしなくていい」


「気にするわ。私が泥だらけにしたんだから」


「元々汚れてもいいものだ」


「そういう問題じゃないの」


 リリアはハンカチを丁寧に畳み、採集鞄の外ポケットへ入れた。


 蒼真はその仕草を見て、少し笑う。


「何?」


「いや、リリアはそういうところ几帳面だなと思って」


「当然よ。借りたものは返す。資料も本もハンカチも同じ」


「本と同列か」


「大事なものには変わりないわ」


 少しの沈黙。


 水辺の向こうで、魔法植物の葉が揺れる。


 祭りの喧騒は遠く、ここだけ静かだった。


 リリアはふと、蒼真を見上げる。


「ねえ、蒼真」


「何だ?」


「私の闇魔法、どうだった?」


「どうって?」


「怖かった?」


 その問いは、軽く聞こえた。


 だが、軽いだけではなかった。


 蒼真は少し考えて答える。


「怖くはなかった」


「本当に?」


「ああ。便利で、繊細で、リリアらしいと思った」


 リリアは目を丸くした。


「……リリアらしい?」


「細かく制御して、状況に合わせて使う魔法だろ。強引に壊すんじゃなくて、条件を整える感じがする」


「……」


「だから、リリアらしい」


 リリアはしばらく黙っていた。


 やがて、ふっと小さく笑う。


「あなた、やっぱりずるいわ」


「またそれか」


「ええ。またそれ」


 リリアは歩き出した。


 だが、少しだけ足を止め、蒼真の袖を軽くつまむ。


「でも、ありがとう」


「ああ」


「闇魔法をそう言ってくれる人、そんなに多くないから」


 その言葉で、蒼真は少しだけ理解した。


 闇属性。


 名前の印象。


 歴史。


 それらが、リリアにも少なからず影を落としているのだろう。


 彼女は普段、それを理論で覆っている。


 けれど、何も感じていないわけではない。


「俺は見たものを言っただけだ」


「だから、それが嬉しいのよ」


 リリアはそう言って、前を向いた。


 競技の途中だ。


 立ち止まっている時間はない。


 リリアは採集リストを確認する。


「月光花、霧隠れシダは確保。残りは風紡ぎ綿と星露草」


「次はどっちだ?」


「風紡ぎ綿ね」


「高所エリアか」


「ええ。崖上にあるわ」


「……嫌な予感しかしない」


「奇遇ね。私も少し嫌な予感がしてるわ」


「行くのをやめる選択肢は?」


「ないわ」


「だよな」


 リリアはにやりと笑った。


「優勝賞品がかかってるもの」


「本のためか」


「本のためよ」


「分かった」


 蒼真は頷く。


「行こう」


「ええ」


 二人は湿地帯を後にした。


 背後では、まだ霧が静かに揺れている。


 月光花の淡い光と、霧隠れシダの薄い霧。


 リリアが泥まみれになりながら取ってきた成果が、鞄の中で確かに守られている。


 蒼真は歩きながら、ちらりとリリアを見る。


 頬にはまだ少し泥の跡が残っていた。


「リリア」


「何?」


「頬、まだ少し泥が残ってる」


「え?」


 リリアが指で触ろうとする。


 蒼真は反射的に手を伸ばしかけて、止めた。


 さっきのやり取りを思い出したからだ。


 リリアはそれに気づき、くすりと笑う。


「何? 今度は触らないの?」


「触るとまた罰がありそうだからな」


「学習したのね」


「一応な」


「残念」


「残念なのか」


「さあ?」


 リリアは楽しそうに笑った。


 その表情は、いつもの理論派の助手とは少し違う。


 少し意地悪で、少し甘くて、そしてどこか嬉しそうだった。


 やがて湿地帯の霧が薄れ、視界が開ける。


 遠くには高所エリアが見えた。


 岩場と崖。


 その上を強い風が吹き抜けている。


 白い綿のようなものが、空中をふわりと漂っているのが見えた。


 リリアが立ち止まり、眼鏡を押し上げる。


「あれが風紡ぎ綿よ」


「風で飛ばされる素材だったな」


「ええ。風属性魔法薬には必須。希少度も高い」


「採るのは難しそうだ」


「難しいわよ」


 リリアは蒼真を見る。


「でも、取るわ」


「そう言うと思った」


「次は高所にある風紡ぎ綿を取りに行くわよ」


 蒼真は崖の方を見て、短く息を吐いた。


「落ちるなよ」


「それは蒼真の方でしょ」


「俺は下で見てるだけかもしれないぞ」


「どうかしらね。あなた、結局巻き込まれるタイプだもの」


「否定できないな」


 二人は並んで、高所エリアへ歩き出した。


 湿地帯の泥と霧を抜け、次に待つのは風と崖。


 そして、白く揺れる希少素材。


 植物祭の材料採集競争は、まだ終わらない。

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