第76話 影の糸と月光の花(1)
第76話 影の糸と月光の花
「開始!」
鐘の音が、植物祭の競技会場に高く響いた。
その瞬間、開始地点に並んでいた参加者たちが一斉に走り出す。草原へ向かう組、古木の森へ向かう組、岩場の方へ駆けていく組。誰もが狙う素材を決めているらしく、動きに迷いはない。
蒼井蒼真も、その流れの中へ踏み出した。
隣には、黒髪眼鏡の少女――九条リリア。
いつもは図書室や研究部で本を開いている印象が強い彼女だが、今は競技用の小さな採集鞄を肩にかけ、真剣な表情で前を見ている。
「蒼真」
「ああ」
「まずは湿地帯から行くわよ」
「湿地帯か。足場、大丈夫なのか?」
蒼真が尋ねると、リリアは眼鏡を押し上げた。
「任せなさい。こういう場所は、闇属性の得意分野よ」
「闇魔法?」
蒼真がそう聞き返した瞬間、リリアが足を止めかけた。
そして、額に手を当てる。
「……そうだった」
「何がだ?」
「あなた、実際の闇魔法を見たことがないのよね」
「ああ。教科書で読んだだけだな」
リリアは小さく息を吐いた。
「蒼真、本当にこの世界の常識だけ抜けてるわよね」
「異世界から来たからな」
「それを言われると何も言えないわ」
リリアは少し歩調を緩め、蒼真と並びながら説明を始めた。
「闇魔法っていうと、怖がる人もいるの」
「怖がる?」
「ええ。昔は暗殺、呪い、精神干渉、拘束、そういう用途で使われた歴史があるから」
「なるほど。名前の印象もあるだろうな」
「そうね。でも、闇属性そのものが悪いわけじゃないわ」
リリアの声は、少しだけ真面目だった。
「闇魔法の主な性質は、影、精神、隠密、吸収、弱体化」
彼女は指を一本ずつ立てる。
「影を操る。相手の意識を鈍らせる。姿や気配を隠す。魔力や力を吸収する。対象の動きを弱める」
「攻撃というより、補助や妨害に近いのか」
「そう。火のように壊すわけじゃない。光のように照らすわけでもない。闇は、隠す。削る。縛る。奪う」
「……便利そうだな」
「でしょう?」
リリアは少し得意げに笑った。
「ただ、扱いは難しいわ。出力を上げればいい属性じゃないもの。繊細に、静かに、相手に気づかれないように動かす必要がある」
「リリア向きだな」
「どういう意味?」
「理論派で、細かい制御が得意そうだから」
リリアは一瞬黙った。
そして、少しだけ頬を赤くする。
「……そういう褒め方、ずるいわ」
「褒めたつもりだったんだが」
「だからずるいの」
蒼真にはよく分からなかった。
だが、リリアが嫌がっているわけではなさそうなので、それ以上追及しなかった。
やがて、道の先に湿地帯が見えてきた。
植物祭用に区切られた採集フィールドの一角。
地面はぬかるみ、薄い霧が漂っている。水辺には光を反射する小さな草が揺れ、奥には膝ほどの高さまであるシダ類が密生していた。
普通に歩けば靴が沈みそうな場所だ。
リリアはその前で立ち止まる。
「ここからが湿地帯ね」
「足を取られそうだな」
「だから闇魔法を使うの」
リリアは右手を軽く下げ、静かに唱えた。
「影糸――シャドウスレッド」
リリアの足元の影が、すうっと伸びた。
黒い糸のようなものが靴の裏から広がり、蜘蛛の巣のように細かく地面へ絡みつく。泥の上に直接立つのではなく、影の網で体重を分散しているように見えた。
リリアが一歩、湿地へ踏み出す。
靴は沈まない。
「すごいな」
「湿地や壁面でよく使う応用よ。影を細い糸状に伸ばして接地面を増やすの。泥に足を取られにくくなるわ」
「なるほど」
蒼真は感心した。
「それ、俺にも効果あるかな?」
リリアは少し考える。
「さあ。試してみる?」
「頼む」
「いいわ。じっとしていて」
リリアは蒼真の足元へ手を向けた。
「影糸――シャドウスレッド」
蒼真の靴の裏に、黒い糸が絡む。
一瞬だけ、蜘蛛の巣のような模様が浮かんだ。
だが次の瞬間。
ふっと消えた。
「あ」
「あ」
二人の声が重なった。
リリアはしゃがみ込み、蒼真の靴を見つめる。
「だめね。蒼真の体質に干渉されて消えてる」
「俺の魔力無効化か」
「たぶん。私の魔力で作った影糸が、あなたに定着する前に乱されてるんだわ」
「便利なようで不便だな」
「本当にね」
リリアは立ち上がり、少し唇を尖らせた。
「私の魔法が効かないって、なんだか悔しいわ」
「悪い」
「あなたが謝ることじゃないわ。むしろ研究対象としては面白いくらいよ」
「俺は素材扱いか」
「大丈夫。大切に扱うわ」
「それは安心していいのか?」
「安心しなさい。たぶん」
「たぶんか」
リリアはくすりと笑った。
だが、すぐに競技の表情へ戻る。
「この足場だと、あなたを連れて奥までは行けないわね」
「俺は普通に歩くと沈むか」
「沈むわ。泥まみれになるだけならまだしも、時間を取られる。ここは私が行く」
「一人で大丈夫か?」
「大丈夫よ。霧隠れシダと月光花を取ってくる」
「気をつけてな」
蒼真がそう言うと、リリアは一瞬だけ表情を緩めた。
「はい」
その返事は、いつもの理論派のリリアより少しだけ柔らかかった。
リリアは湿地帯の奥へ進んでいく。
影糸の補助があるおかげで、足取りは軽い。泥の上に立っているはずなのに、まるで薄い板の上を歩いているようだった。
蒼真は湿地帯の入口付近で待つ。
周囲では、別の参加者たちが苦戦していた。
ある生徒は足を取られて転びそうになり、別の生徒は霧に巻かれて方向を見失っている。
湿地帯はただの泥場ではない。
霧そのものにも、何らかの魔力が含まれているようだった。
蒼真の目には、薄い灰色の魔力の流れが見える。
それは濃くはない。
だが、霧と一緒にゆっくり動き、人の感覚をずらすように揺れていた。
「幻惑系か……」
リリアが言っていた霧隠れシダ。
近づくと霧で姿を隠す植物。
おそらく、その周辺ではこの魔力の揺らぎがもっと強くなるのだろう。
蒼真は入口から目を凝らす。
リリアの姿は、時々霧に隠れる。
黒髪が揺れ、眼鏡の光が一瞬だけ見える。
彼女は慎重に、しかし迷いなく進んでいた。
さすがリリアだ。
知識だけではない。
実際にそれを使える。
蒼真がそう思った、その時だった。




