第72話 空を駆ける二人
第72話 空を駆ける二人
花粉嵐ゾーンを抜けた瞬間、世界が白から緑へ変わった。
舞い散る花粉が薄れ、視界が開ける。風に混じっていた粉っぽい匂いが消え、代わりに、湿った蔓と土の匂いが鼻先をかすめた。
フレイアは肩で息をしながらも、満面の笑みを浮かべていた。
「やった! かなり抜いたわよね!」
「ああ。順位は上がったと思う」
「よし!」
「ただし、少し息が上がってる」
「うっ」
フレイアは痛いところを突かれたように胸を押さえた。
蒼真は前を見ながら言う。
「呼吸を整えろ。ここから先も長い」
「わ、分かってるわよ」
フレイアは素直に息を吐いた。
吐いて、吸う。
さっきよりも少し落ち着いた呼吸になる。
その様子を確認してから、蒼真は次のゾーンへ視線を移した。
目の前に広がっていたのは、巨大なつる橋だった。
太い蔓が何本も編み込まれ、空中に長い橋を作っている。下には巨大な葉が何枚も敷き詰められており、落下しても怪我をしないようにはなっているらしい。
だが、落ちれば大幅な時間ロスになる。
しかも橋は、ただ揺れているだけではなかった。
左右に揺れる。
上下にしなる。
さらに、複数の蔓が別々の周期で波打っているせいで、橋全体が生き物の背中のように不規則に動いている。
先行しているチームの一つが、橋の中央で体勢を崩した。
「うわっ!」
観客席から悲鳴と歓声が同時に上がる。
そのチームはなんとか踏みとどまったが、完全に速度を失っていた。
フレイアがごくりと喉を鳴らす。
「次は、つる橋ゾーンよ」
「思ったより高いな」
「落ちても葉っぱが受け止めてくれるけど、時間はかなり取られるわ」
「だろうな」
蒼真は橋を観察した。
橋の幅。
揺れの周期。
風向き。
二人三脚での歩幅。
そして、自分とフレイアの体重差。
考えるべきことは多い。
蒼真は突然、フレイアへ顔を向けた。
「フレイア」
「なに?」
「体重はいくつだ?」
「な、なに急に!?」
フレイアの顔が一気に赤くなった。
足と手首を繋がれた状態で、そんな質問をされるとは思っていなかったのだろう。
「いいから。橋を渡るのに必要だ」
「ひ、必要って……」
「揺れ方が変わる。大体でいい」
フレイアは視線を泳がせた。
「さ、最近は測ってないけど……五十キロくらいかな……」
そしてなぜか、自分の胸元へちらりと視線を落とす。
「最近また胸が大きくなっちゃって……その分、少し増えてるかもだけど……」
「俺は六十キロちょっと。十キロ差か」
「ちょっと、聞いてる!?」
「聞いてる。十キロ差があると、普通に渡れば揺れが偏る」
「そっちじゃない!」
フレイアが叫んだ。
蒼真は真顔だった。
「今はそっちが重要だ」
「女の子の体重を聞いて、その反応なの!?」
「必要な情報だった」
「もう、蒼真ってほんと……!」
フレイアは顔を真っ赤にしたまま、ぷいっと前を向いた。
だが、怒っているというより、照れている。
蒼真は橋へ視線を戻す。
「普通に渡るのは危ないな」
「え?」
「俺たちは二人三脚で、体重差もある。橋の揺れに合わせて歩くには、速度を落とさないといけない。そうすると後ろに追いつかれる」
「じゃあ、根を伸ばして橋を安定させる?」
「それも一つの手だが、橋全体を安定させるには時間がかかる。しかも他チームもいる」
「じゃあどうするのよ」
「残ってる植物アイテムは?」
フレイアはすぐに表情を切り替えた。
照れはまだ残っているが、レース中だと分かっているのだろう。
「跳躍ツタ、光走花、盾葉、根のガード……あと少しなら風花草も使えるわ」
「跳躍ツタは?」
「飛べるけど……橋を全部越えるには足りないと思う。数十メートルくらいかな」
蒼真は橋の長さを見る。
「届かないな」
「だよね」
「なら、こっちを使う」
「え?」
「光走花だ」
フレイアが目を丸くした。
「橋の上で?」
「ああ」
「揺れてるのよ?」
「だから使う」
蒼真は橋の動きを指差した。
「あの橋は全体が不規則に揺れているように見える。でも完全に無秩序じゃない。蔓がしなる瞬間と戻る瞬間がある」
「つまり?」
「揺れの底を歩くんじゃなく、戻る瞬間に合わせて走る。橋が押し返してくる力を利用する」
「……ごめん、半分くらいしか分からない」
「簡単に言うと、走って渡る」
「それ、簡単すぎない!?」
「止まるより危険は少ない」
「ほんとに?」
「たぶん」
「たぶん!?」
フレイアは悲鳴に近い声を上げた。
だが、蒼真はすでに橋を見ていた。
他チームが慎重に渡っている。
だが慎重すぎるせいで、逆に揺れに飲まれている。
なら、速度で抜ける方がいい。
「フレイア、つかまって」
「え?」
「落ちたら終わる」
蒼真はフレイアを引き寄せた。
手首と足首は固定されている。
さらに身体を近づけ、肩と腰を支える。
「ひやっ!?」
フレイアがまた妙な声を上げた。
「近い! 近いってば!」
「加速するんだろ」
「そうだけど! 何回やっても慣れないのよ!」
「慣れてくれ」
「そんな簡単に言わないで!」
フレイアは顔を真っ赤にしながらも、光走花へ魔力を流した。
橋の入口付近に咲いていた黄金色の花が、ぱっと開く。
その花びらから、光の筋が伸びた。
まるで、橋の上に細い道ができるように。
「行くぞ」
「もう、どうにでもなれ!」
光走花が輝いた。
二人の身体が前へ押し出される。
つる橋へ突入した瞬間、足元が大きく沈んだ。
普通ならそこで体勢を崩す。
だが蒼真は、沈む前から次の揺れを見ていた。
「今、右」
「っ、はい!」
「次、左。踏み込むな、流せ」
「分かった!」
フレイアが蒼真の指示に合わせる。
二人は橋の上を駆け抜けた。
揺れる橋の上を、まっすぐではなく、波に乗るように。
沈む場所を避ける。
跳ね返る場所を踏む。
風が強い瞬間は低くなる。
橋が戻る瞬間に、光走花の速度を乗せる。
『おおっと! フレイア・蒼真組、ここで光走花! 揺れるつる橋を速度で突破するつもりか!?』
実況の声が響いた。
観客席がどよめく。
慎重に進んでいたチームの横を、蒼真とフレイアは一気に抜いた。
「うそ、速っ!」
「橋で加速するの!?」
「危なくない!?」
そんな声が背後に流れていく。
フレイアの表情が、恐怖から興奮へ変わっていく。
「すごい! これ、気持ちいい!」
「前見ろ」
「見てる!」
「見てない」
「見てるってば!」
フレイアは笑っていた。
先ほどまでの照れも緊張も、風に飛ばされたようだった。
だが、蒼真は油断しない。
橋の終盤。
蔓の揺れが大きくなる。
出口手前で、橋が一段高く跳ねるようにしなった。
「フレイア、根のガードを少しだけ橋に絡めろ」
「安定させるの?」
「一瞬だけでいい。最後の跳ねを殺す」
「了解!」
フレイアが魔力を流す。
橋の脇から細い根が伸び、蔓へ軽く絡んだ。
橋の跳ねが一瞬だけ弱まる。
「今だ」
二人は最後の一歩を踏み込んだ。
つる橋を抜ける。
足元が固い地面に変わった。
フレイアが大きく息を吐く。
「抜けた!」
「ああ」
「ねえ、今のすごくなかった!?」
「かなり危なかった」
「そうじゃなくて!」
「成功したからよかった」
「そう、それ!」
フレイアは嬉しそうに笑った。
だが、蒼真はすぐ前を見た。
光走花の速度は、まだ完全には落ちていない。
その先に待っていたのは、巨大な花の群れだった。
巨大花のジャンプ台。
大人が何人も乗れるほど大きな花が、閉じたり開いたりしている。
開いた瞬間に乗れば、花びらの弾力で次の足場へ跳べる。
だが、タイミングを間違えれば、花に弾かれて横へ飛ばされる。
実際、前方で一組のチームが失敗し、柔らかな葉のクッションへ転がり落ちていた。
フレイアが前を見て叫ぶ。
「蒼真、このままだとぶつかるわ!」
「大丈夫」
「どこが!?」
「フレイア、跳躍ツタを使うんだ」
「ここで!?」
「ああ。光走花の速度を残したまま、跳躍ツタで角度をつける」
「なるほど……って、そんなことできるの!?」
「できるかどうかは、今から分かる」
「それ一番怖いやつ!」
蒼真は巨大花の動きを見た。
花が開く直前、茎がわずかに膨らむ。
花びらの縁が震える。
そして、低い音が鳴る。
あれが合図だ。
「三秒後」
「分かった!」
「二」
フレイアが跳躍ツタへ魔力を込める。
足元のツタがうねり、二人の足元に絡むように構える。
「一」
巨大花が開き始める。
「今だ!」
「跳躍ツタ!」
ツタが地面を蹴るように伸びた。
二人の身体が宙へ投げ出される。
光走花の速度。
跳躍ツタの跳躍力。
巨大花の開花タイミング。
その三つが重なり、二人は空中へ大きく飛び上がった。
「わあっ!」
フレイアが歓声を上げる。
下にコースが見える。
観客席が見える。
花々が光っている。
まるで、本当に空を駆けているようだった。
「これ、気持ちいいね!」
「まだ終わってない」
「分かってるけど、すごい!」
フレイアは笑った。
その横顔が、午前の光の中で輝いて見えた。
だが次の瞬間、彼女の笑顔が引きつる。
「ねえ、蒼真」
「なんだ」
「着地、どうするの?」
蒼真は一瞬だけ黙った。
「……盾葉を使う」
「今考えたでしょ!?」
「間に合う」
「ほんとに!?」
「たぶん」
「またたぶん!」
落下が始まる。
風が耳元を鳴らす。
フレイアが蒼真の腕にしがみついた。
「落ちるーーー!」
「フレイア、盾葉!」
「もうっ、分かったわよ!」
フレイアが叫ぶように魔力を込める。
空中で、大きな葉が広がった。
盾葉。
普段は防御に使う葉だが、今は傘のように二人の上へ広がっている。
落下速度が緩む。
ふわり、と身体が浮くような感覚。
だが完全に止まるわけではない。
二人はそのまま地面へ降り、最後に少し転がった。
「っ……!」
蒼真はフレイアを庇うように身体を丸める。
芝生のような柔らかい地面を一回転し、ようやく止まった。
数秒、二人は動かなかった。
そして、フレイアが顔を上げる。
「……生きてる?」
「たぶん」
「そこは断言して!」
「生きてる」
「よし!」
フレイアは大きく息を吐き、それから蒼真を見た。
「まったく、無茶苦茶よ」
「成功した」
「成功したけど、無茶苦茶!」
「否定はしない」
「しなさいよ!」
フレイアはそう言って、こらえきれずに笑った。
蒼真も少しだけ笑う。
手首と足首はまだ繋がれたまま。
二人は地面に座り込むような姿勢で、かなり近い距離にいた。
フレイアはそれに気づき、また顔を赤くする。
「……そろそろ、起きるわよ」
「ああ」
二人は体勢を立て直した。
実況の声が遅れて響く。
『な、なんという突破だー! つる橋を光走花で駆け抜け、巨大花ジャンプ台を跳躍ツタで飛び越え、最後は盾葉を傘代わりに着地! フレイア・蒼真組、かなり順位を上げています!』
観客席から歓声が上がる。
フレイアは息を切らしながらも、嬉しそうに笑った。
「聞いた? 順位上がってるって!」
「ああ。だが、まだ終わってない」
「分かってる」
二人は前を向いた。
そこに広がっていたのは、暗い緑の森だった。
先ほどまでの華やかなコースとは違う。
木々が密集し、蔓が垂れ下がり、地面から太い根が迷路のように伸びている。
奥は薄暗く、道がいくつにも分かれていた。
森迷宮ゾーン。
最後の難関が、二人の前に現れた。
フレイアはごくりと息を呑む。
「ここからが、本当の勝負ね」
蒼真は森の入口を見つめた。
風も、花も、橋も、ジャンプ台も。
ここまでは突破できた。
だが、迷宮なら話は別だ。
必要なのは速度だけではない。
観察。
記憶。
判断。
そして、嘘の道を見抜くこと。
「行こう」
蒼真が言う。
フレイアは頷いた。
「うん」
森の奥で、根がゆっくりとうごめいた。




