第71話 花粉嵐を駆け抜けて(2)
第71話 花粉嵐を駆け抜けて
そして、花のトンネルゾーンへ入った。
中は、外から見るよりもずっと幻想的だった。
頭上に咲く花々が、走る二人に合わせて淡く光る。足元には光苔が敷かれ、踏むたびに緑色の光が波紋のように広がった。
左右から伸びる花弁は、参加者を包み込むように揺れ、まるで祝福しているかのようだった。
甘い香りがする。
けれど、強すぎない。
走っていても息苦しくならない程度の、柔らかな香りだった。
「すごいな……これ」
蒼真は、思わず呟いた。
異世界に来てから、魔法には何度も驚かされてきた。
だが、こういう形で魔法植物が人を楽しませる光景を見るのは、また別の感覚だった。
事件でも、授業でもない。
純粋に祭りとして、人を楽しませる魔法。
その光景に、一瞬だけ目を奪われる。
「蒼真!」
フレイアの声が飛んだ。
「ペース落とさないでよね!」
「はい」
「返事が軽い!」
「見とれてた」
「それは……まあ、分かるけど!」
フレイアも少しだけ周囲を見た。
だが、すぐに前を向く。
「でも今はレース!」
「ああ」
蒼真は意識を戻した。
花のトンネルは穏やかなゾーンとされている。
だが、穏やかだからこそ、参加者の集中を削ぐ仕掛けが多い。
光る花に気を取られたチームが、足元の光苔で滑りかける。
別のチームは、花弁に肩を取られてバランスを崩した。
危険というほどではない。
しかし、速度を落とす原因にはなる。
「右前、苔が強く光ってる。滑りやすいかもしれない」
「避ける!」
フレイアが身体を少し左へ寄せる。
蒼真も合わせる。
結ばれた足が、ぎこちなくも同じ方向へ動いた。
うまく避けられた。
「今の、いい感じだったわね!」
「ああ。合ってた」
「でしょ!」
「調子に乗るな」
「ちょっとくらい乗らせなさいよ!」
フレイアは笑いながら走る。
その声は明るい。
だが、蒼真は気づいていた。
呼吸が少し早い。
まだ序盤なのに、肩に力が入っている。
賞品への執着が、彼女を前へ前へと押している。
それ自体は悪いことではない。
けれど、長いレースでは危うい。
「フレイア」
「なに?」
「息が浅い」
「え?」
「吐く方を意識しろ。吸おうとすると余計に苦しくなる」
「……分かった」
フレイアは少しだけ悔しそうにしながらも、素直に息を吐いた。
すると、動きがわずかに柔らかくなる。
蒼真は頷いた。
「そのまま」
「蒼真って、ほんとよく見てるわね」
「見るのが役目だからな」
「……うん。頼りにしてる」
フレイアは前を向いたまま言った。
その声が妙に素直だったので、蒼真は少しだけ返事に困った。
「ああ」
短く答える。
フレイアの頬が、ほんの少し赤くなったように見えた。
花のトンネルの出口が近づいてくる。
光る花々の先に、白く霞んだ空間が広がっていた。
風の音が聞こえ始める。
甘い花の香りに、粉っぽい匂いが混ざった。
『さあ、先頭集団が花のトンネルを抜けます! 続いて待ち受けるのは、序盤最初の難関、花粉嵐ゾーン! ランダムに吹き荒れる花粉、横から叩きつける風、そして視界を奪う白い壁! ここで一気に順位が動きます!』
実況の声が響く。
その直後、蒼真とフレイアは花のトンネルを抜けた。
世界が一変した。
白い。
前方が、花粉で白く濁っている。
風が横から吹きつけ、細かな花粉が肌に当たった。
目を細めなければ、まともに前を見られない。
足元の光苔も、花粉に隠れて見えたり消えたりしている。
参加者たちが一斉に速度を落とした。
あるチームは盾葉を展開し、大きな葉の盾で前方を守ろうとした。
だが、広がった盾葉は横風をまともに受ける。
そのチームは、風に押されて大きく横へ流された。
別のチームは霧花を使ったらしい。
周囲に霧が広がり、花粉を少し抑えたように見えたが、その分、道の光も見えづらくなっている。
蒼真は足を止めず、周囲を観察した。
花粉の流れ。
風向き。
地面の光。
参加者の動き。
完全にランダムではない。
風は上の方が強い。
地面に近い場所では、少し弱まっている。
「フレイア、もっと体勢を低くして進もう」
「わかったわ!」
二人は腰を落とした。
走るというより、低く踏み込むように進む。
すると、風の抵抗が少し減った。
「ほんとだ、進みやすい!」
「上は風が強い。下の方がまだましだ」
「さすが!」
「褒めるのは抜けてからでいい」
「はいはい!」
「はいは一回」
「今それ言う!?」
フレイアが笑いながらも、必死に足を合わせる。
蒼真は彼女の顔を見た。
花粉が目元に当たり、フレイアは少し目を細めている。
そのままでは、視界が悪いだけでなく、集中力も落ちる。
「フレイア、少し頭を下げろ」
「え?」
「動くな」
蒼真は繋がれていない方の手を伸ばし、フレイアのローブについていたフードを持ち上げた。
そのまま、彼女の頭に被せる。
「これでちょっとは花粉を防げる」
フレイアは一瞬、きょとんとした。
そして、フードの奥で頬を赤くした。
「……ありがと」
「ああ」
「でも、急にやるとびっくりするじゃない」
「花粉が目に入りそうだった」
「それは分かるけど……」
フレイアは小さく何かを呟いた。
風と花粉の音に紛れて、蒼真には聞き取れなかった。
「何か言ったか?」
「なんでもない!」
フレイアは前を向く。
しかし、耳まで赤い。
蒼真は不思議に思ったが、今はそれどころではない。
前方から、ふわふわと綿毛が流れてきた。
別チームが使った妨害植物だろう。
白い花粉に白い綿毛が混ざり、視界がさらに悪くなる。
フレイアが手を前に出した。
「盾葉を使うわ!」
「待て」
蒼真は即座に止めた。
「え?」
「ここで盾葉は使わない方がいい」
「どうして?」
「風の抵抗になる。さっき盾葉を使ったチームが流された」
フレイアは視線を向ける。
少し離れた場所で、盾葉を展開したチームが横風に押され、コース端で体勢を立て直しているところだった。
「あ……」
「守るより抜ける方がいい」
「じゃあ、霧花?」
「霧は花粉を抑えられるかもしれないが、足元の光も見えなくなる。今は道を見失う方が怖い」
「じゃあどうするの?」
蒼真は前方を見た。
花粉嵐の中にも、時折、風が抜ける瞬間がある。
完全な壁ではない。
風の強い流れと弱い流れがある。
その弱い流れに合わせて、一気に突っ切る。
「風花草を使おう」
フレイアの目が輝いた。
「一気に駆け抜けるのね」
「ああ。低姿勢のまま、前に出る」
「いいわね。そういうの、嫌いじゃないわ」
「レース中に誤解を招く言い方はやめろ」
「違う意味よ!」
「分かってる」
「分かってるなら言わないで!」
フレイアは顔を赤くしながら、足元近くの風花草へ魔力を流した。
青白い花が震える。
花の中心に光が集まった。
その瞬間、フレイアが言う。
「蒼真、つかまって!」
「ああ」
蒼真は、フレイアとの距離を詰めた。
加速時に軸がずれると危険だ。
足首も手首も繋がれている以上、二人の身体をできるだけ一体に近づけた方がいい。
蒼真はフレイアの肩と腰のあたりを支えるように、しっかりと身体を寄せた。
ほとんど抱きつくような形になる。
「ひやっ!?」
フレイアが妙な声を上げた。
風と花粉の中でも分かるほど、顔が赤くなっている。
「どうした?」
「ど、どうしたじゃないわよ! 近い!」
「つかまれと言ったのはフレイアだ」
「言ったけど! 言ったけど、こう、心の準備が!」
「加速前に心の準備をしている余裕はない」
「正論だけど、そうじゃないの!」
「じゃあ何だ?」
「今説明できるわけないでしょ!」
蒼真には分からなかった。
ただ、フレイアの体温が近い。
彼女の身体は、火属性だからなのか、もともとなのか、ほんのり温かかった。
胸元も近い。
腕に柔らかな感触が当たり、蒼真は一瞬だけ視線を逸らした。
だが、すぐに前を見る。
今はレース中だ。
「行けるか?」
「……い、行けるわよ!」
フレイアは半ばやけになったように答える。
そして、風花草へ一気に魔力を注いだ。
青白い花が大きく開く。
次の瞬間、後方へ向かって花粉が勢いよく噴射された。
反動で、二人の身体が前へ押し出される。
「っ!」
急加速。
足元の光が流れる。
花粉の白い壁が、正面から裂けるように開いた。
蒼真はフレイアの身体を支えながら、自分の重心を低く保つ。
フレイアは魔力の出力を調整し、風花草の噴射方向を細かく変えていた。
右から綿毛が来る。
「右」
「分かってる!」
フレイアが風の向きをわずかに変える。
ふわふわ綿毛が横へ流された。
前方に他チームがいる。
盾葉を広げて減速している。
「左へ抜ける」
「了解!」
内側。
外側。
低い姿勢のまま、二人は左へ寄る。
そのまま、盾葉で苦戦していたチームを追い抜いた。
『おおっと! フレイア・蒼真組、ここで風花草を選択! 守るのではなく、低姿勢からの一気突破! これは速い!』
実況の声が響く。
観客席から歓声が上がった。
だが、蒼真は歓声を聞いていなかった。
視線は前。
足元の光。
花粉の流れ。
フレイアの呼吸。
どれも見逃せない。
「フレイア、出力を少し落とせ」
「なんで!?」
「前方の風が強い。今のままだと押し返される」
「分かった!」
フレイアはすぐに従った。
風花草の噴射が少し弱まり、二人の速度がわずかに落ちる。
その直後、前方から強い横風が吹き抜けた。
もし速度を上げたままだったら、体勢を崩していたかもしれない。
フレイアは驚いた顔をした。
「ほんとに来た……!」
「風の音が変わった」
「そんなの分かるの?」
「慣れれば少しは」
「蒼真、やっぱり変よ!」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めてるわよ!」
フレイアは笑った。
花粉の中で、彼女の笑顔だけが妙にはっきり見えた。
二人の足は、最初よりずっと合っている。
手首を繋ぐ蔓紐も、邪魔ではなくなっていた。
むしろ、相手の動きが伝わる。
フレイアが踏み込む瞬間。
蒼真が方向を変えようとする瞬間。
わずかな力の入り方で、互いに分かるようになってきた。
「出口だ」
蒼真が言う。
白い花粉の向こうに、明るい光が見えた。
花粉嵐ゾーンの終わりだ。
「このまま抜ける!」
フレイアが叫ぶ。
風花草が最後に強く噴射された。
二人は白い花粉の壁を突き破る。
視界が、一気に開けた。
空気が軽い。
花粉の匂いが薄れ、代わりに湿った蔓と土の匂いが届いた。
花粉嵐ゾーンを抜けたのだ。
フレイアは肩で息をしながらも、満面の笑みを浮かべた。
「やった! かなり抜いたわよね!」
「ああ。順位は上がったと思う」
「よし!」
「ただし、少し息が上がってる」
「うっ」
「呼吸を整えろ。ここから先も長い」
「わ、分かってるわよ」
フレイアは素直に深呼吸した。
吐いて、吸う。
さっき蒼真が言った通り、吐く方を意識している。
その様子を見て、蒼真は少しだけ安心した。
勢いだけではない。
フレイアは、ちゃんと聞いている。
ちゃんと合わせようとしている。
それなら、まだ行ける。
蒼真は前を見た。
そして、目を細める。
花粉嵐の先に待っていたのは、巨大なつる橋だった。
太い蔓が編まれて橋になっており、空中に大きく渡されている。
下には柔らかそうな巨大葉のクッションが敷かれているが、落ちればかなりの時間を失うだろう。
橋は風に揺れていた。
ただ揺れているだけではない。
複数の蔓が、互いに別々の周期でしなっている。
そのせいで、橋全体が左右だけでなく、上下にも波打つように動いていた。
すでに先行しているチームのひとつが、橋の途中で大きくバランスを崩している。
観客席から悲鳴と歓声が同時に上がった。
フレイアが、ごくりと喉を鳴らす。
「次は、つる橋ゾーンよ」
「思ったより高いな」
「落ちても下の葉が受け止めてくれるけど、かなり時間を取られるわ」
「だろうな」
蒼真は橋を見つめた。
高さ。
揺れ。
風。
二人三脚の制限。
そして、互いの体重差。
考えることは多い。
フレイアは、少し息を整えながらも、前を向いている。
「ここからが本番ね」
「ああ」
蒼真は静かに言った。
「いや……本当に厄介なのは、あの揺れ方だな」
巨大なつる橋が、次の難所として二人の前に立ちはだかっていた。




