3白
少し遅れた。
急ぎ足になる。
彼女が待っている。
名前も知らない、誰か。
名乗ってもいない。
それでも、待っていてくれているだろうし、俺は急いでいる。
出会ってすぐに名乗らなかった。そうしてずっといて、もう名乗ってはいけないような気がするんだ。
階段を昇って、息を切らして。
いつもの場所。
いつもの光景?
じゃ、ない。
彼女は俺を見て、俯いて、怯えたように走り去った。
服が、破かれていた。
襟から滲んだ血が、やけに目について。
一瞬だったのに。
それから俺は、もう一人の奴に気がついた。
苛立ったように煙草をくわえて俺を見た。
俺と煙草を交互に見て、それから醜悪な顔で笑った。
俺はかっとなって、そいつの胸倉を掴んでいた。
「んだよ。だいたい、女一人でこんなところに居るのが悪いんだ」
一人じゃなかった!
俺がいた。
「さわんな! 帰る」
俺は逃げる奴を追いかけようとした。
「いいのよ。そのうち、すぐに思い知るから」
彼女の声が俺の背後から降ってきた。
俺は振り返った。
今までのすべてが、悪い冗談だったのだとでもいうように、彼女がいた。
「大好きよ。良い子に育ってね」
彼女は、まるで母親でもあるかのように、俺の頭を抱きしめてそう囁いた。
俺は、そのビルにいけなくなった。
何度探してもそこにたどりつけなくて。
高いビルに上って、周囲を見渡しても、この町に建築途中のビルはなかった。
なかったんだ、あの破れた腹の中のような建物は。




