第8話「何も変わらない」
『まだ話すな』
その文字が、頭から離れなかった。
先生は黒板に文字を書き続けている。教室にはチョークの擦れる音だけが静かに響いていた。
それなのに、授業の内容はほとんど頭に入ってこない。
黒板を写しているふりをしながら、何度も視線が斜め前へ向いてしまう。
廊下側の席。
そこには、翔太がいた。
ノートを取り、ときどき手の中でシャーペンを回しながら、退屈そうに黒板を眺めている。
いつもの翔太だった。
少なくとも、そう見える。
でも。
翔太のスマホは、今も俺のポケットの中にある。
その事実だけが、目の前の光景をおかしくしていた。
気づけば、また翔太を見ていた。
その時だった。
翔太がシャーペンを落とす。
床を転がったそれを拾おうとして、軽く屈み込む。
その瞬間、息が詰まった。
翔太はスマホを探そうともしなかった。
ポケットを気にする様子すらない。
ただ落としたシャーペンだけを拾って、何事もなかったみたいに席へ戻っていく。
頭が混乱する。
スマホがないことに、気づいていないのか。
それとも――。
「……さっきから見すぎじゃない?」
不意に声がした。
その声で、はっとする。
前の席の雨宮が、少しだけ肩越しに振り返っていた。
「いや……別に」
反射的に返した声は、自分でもわかるくらい不自然だった。
雨宮は少しだけ首を傾げる。
「翔太くんと何かあった?」
胸の奥がざわついた。
思わず、また斜め前を見る。
翔太は相変わらず、何事もない顔で黒板を見ている。
“トイレで消えた”なんて、言えるわけがなかった。
「……ちょっと」
結局、曖昧に返すことしかできない。
雨宮は少し黙ったあと、
「なら、ちゃんと話した方がいいと思うけど」
そう言って前へ向き直った。
その言葉だけが、妙に頭に残る。
――ちゃんと話した方がいい。
でも。
『まだ話すな』
通知の文字が浮かぶ。
その時、机の中でスマホが小さく震えた。
反射的に取り出す。
画面を見る。
そこに表示されていたのは――
『話したら、次は雨宮だ』
一瞬、息が止まる。
ゆっくりと前の席を見る。
雨宮は何も知らないまま、ノートに文字を書いていた。
その後ろ姿が、急に遠く感じた。




