第七章 レイラ
二日目。
管理棟の会議室。冷房が効いている。窓の外に、破壊されたUCFの建屋。
テーブルの向かいに女が座っていた。
三十代前半。黒いルーサリーを後ろに寄せて、額が見えている。丸い顔。大きな目。その目が悟を値踏みしている。テーブルの上に分厚いファイルと、ノートPCと、冷めたチャーイのグラス。ファイルを押さえる指先の爪が短い。やすりで整えた切り方ではない。実験器具を扱う手だ。薬品が染みる爪の隙間を最小にする、実用の切り方。
「遠山悟さん。ペルシアン・アトラス・エンジニアリング。ブーシェフル原発の耐震コンサルタント」
ペルシャ語。だが発音にフランス語の角がある。母音の丸め方が違う。
「そうです」
「レイラ・ハシェミ。AEOI安全評価部。物理学」
握手はなかった。レイラは軽く頷いた。
「ブーシェフルの耐震評価は読みました。水平震度〇・三Gへの引き上げ提案。イラン側は無視したでしょう」
事実だった。
「彼らは『検討する』と言いました」
「この国では『検討する』は『却下する』の丁寧語です」
声にユーモアがある。だが目は笑っていなかった。口が立つ。嫌いじゃない。
レイラがファイルを開いた。UCFの設計図面。被災前の構造。
「あなたの仕事は二つ。一つ、残存構造の安全評価。倒壊リスクがある建屋の特定。二つ、復旧工事の構造設計の助言」
「放射線管理は?」
「私の担当です。UF6漏洩区域のデコンタミネーションはほぼ完了しています。残留線量は許容範囲内」
ファイルの中に線量マップがあった。UF6——六フッ化ウラン——が漏洩した区域が赤く塗られている。建屋の北東部分。ここは爆弾の直撃ではなく、隣接建屋の爆発による圧力波で配管が破断している。
配管の破断。圧力系統の損傷。悟の専門分野だ。
「配管の破断箇所を見せてもらえますか」
レイラが一瞬、目を細めた。安全評価のエンジニアが真っ先に配管を見たがるのは普通ではない。構造屋なら柱と梁から入る。
「もちろん。ただし防護装備が必要です。残留HFガスの可能性がある」
HF。吸えば肺が焼ける。
「了解です」
◇
午後。防護服を着てUCF建屋の内部に入った。
「この区画は〇・四ミリシーベルト毎時。滞在は九十分以内」レイラが歩きながら言った。資料を見ていない。区画ごとの数値が頭に入っている。
この人は現場を自分の身体で把握している。
壁のないコンクリートの枠組み。鉄筋が露出し、赤錆が浮いている。空爆から一ヶ月。雨は降っていない。イスファハンの夏は雨が降らない。だが乾燥が鉄筋の酸化を止めるわけではない。高温が反応を促進する。
レイラが先を歩いた。足取りに迷いがない。この施設を知り尽くしている。
「ここが転換ラインAです。イエローケーキからUF6への転換工程」
設備の配置。配管のルーティング。圧力容器の耐圧設計。緊急遮断弁の位置。
悟は壁の亀裂にスケールを当てた。開口型のクラック。柱脚のベースプレートが台座から浮いている。アンカーボルトが二本、引き抜けている。
「この建屋は次の地震で倒壊します。解体して再建するしかない」
「分かっています」レイラが静かに言った。「問題は、彼らがそう思っていないことです」
悟はスケッチを描いた。ペンを動かしながら、視界の端が搬入ヤードを拾っていた。資材の量が多い。復旧工事の規模に比べて、明らかに多い。
「遠山さん」レイラが言った。「さっき、最初に配管を見たがったわね。構造屋なら柱と梁から入るものだけど」
「配管系の耐震評価をやっていた時期がある。癖です」
レイラは何も言わなかった。
◇
管理棟に戻った。レイラの研究室に通された。安全評価報告書の共同署名が要るという。
ドアを開けた。
六畳ほどの部屋。窓が一つ。窓枠にサボテンの鉢が三つ並んでいる。いずれも枯れかけている。水やりの優先順位が低い人間の部屋だ。
壁に額が二枚。一枚はAEOIの辞令。もう一枚はフランス語だった。パリ第十一大学——現パリ=サクレー大学。理学博士。核物理学。二〇一八年。額縁の木が日焼けしている。ここに長く掛けてある。
机の上にノートPCと分厚い報告書の束。その横にハーフェズの詩集が置いてあった。革装の古い版。付箋が十数枚、色とりどりに飛び出している。背表紙が割れかけている。何百回も開いた本。
「座って」
レイラが報告書を出した。悟の評価所見と、レイラの線量測定データを統合した共同報告書。
目を通した。レイラの文章は数値の扱いが正確で、推測と事実の区別が明瞭だった。報告書の書き方で技術者の力量は分かる。
サインをした。レイラもサインした。
「チャーイ、飲みます?」
レイラがデスクの脇の電気ケトルに手を伸ばした。研究室に私物のケトルがある。ここで長時間過ごしている証拠だ。
「いただきます」
ケトルが湯を沸かす間、悟はもう一度壁の学位証書を見た。パリ=サクレー。核物理。制裁強化前のフランス留学。帰国してAEOIに入った。
「帰れなかったんですか」
口が先に動いた。舌の上に言葉が残っている。
レイラの手がケトルの上で止まった。一秒。
「帰らなかったの。違いが分かる?」
チャーイを二つ入れた。エステカンに注ぐ手つきは丁寧だった。
「フランスにいれば安全だった。研究も続けられた。でも、私はイランの科学者よ。この国の科学を、この国の中で守りたかった」
悟はチャーイを受け取った。角砂糖はない。レイラは砂糖を入れない派らしい。
◇
ドアがノックされた。
白衣の男が顔を出した。四十代。レイラと同じ安全評価部の同僚だろう。顔が強張っている。
「ハシェミ博士。ちょっと——」
男はちらりと悟を見た。
「大丈夫。遠山さんはAEOIの契約技術者よ」
男がドアの中に入ってきた。声を落とした。
「さっき所長室に革命防衛隊の連絡将校が来た。B棟の人員を三名、『特別プロジェクト』に供出しろと」
レイラのチャーイを持つ手が止まった。
「特別プロジェクト?」
「詳細は不明。IRGC管轄。所長は抵抗したが、上から通達が来ているらしい。拒否できないと」
「誰が」
「カリミとモラディの名前が出ていた。三人目はまだ決まっていない」
レイラはエステカンをデスクに置いた。中の紅茶が揺れた。
「カリミは除染チームの柱よ。モラディはUF6の計測で替えが利かない。二人とも抜かれたら安全評価が止まる」
「分かっている。だから——」
男は続ける前に、もう一度声を落とした。
「B棟の今年度予算も、また軍に持っていかれた。研究費がない。機材の更新もできていない。なのに人まで……」
「私たちは科学者よ」
レイラの声が変わった。低く、硬くなった。
「軍人じゃない」
同僚は何も言えなかった。レイラもそれ以上は言わなかった。
男が出て行った。
研究室に沈黙が残った。窓の外で、復旧工事のクレーンが鉄骨を吊り上げている。
レイラがチャーイを手に取った。一口飲んで、デスクのハーフェズの詩集に目を落とした。付箋の一枚が半分剥がれかけていた。指で押さえ直した。
「遠山さん。報告書のサインは終わったから、午後の点検に行きましょう」
声は元に戻っていた。平坦な事務の声。
悟はチャーイを飲み干した。ケトルの隣にマグカップが一つだけ掛かっているのが見えた。来客用は持っていない。悟のチャーイは、レイラが普段使いのエステカンで淹れたものだった。
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