第六章 再会
七月十四日。月曜日。
イスファハン行きの国内線は半分以上が空席だった。
空爆から一ヶ月。国際便は止まっている。国内便も本数が減った。搭乗ゲートの椅子に座る乗客の顔が一ヶ月前とは違う。目が据わっている。
東京本社から指示が来たのは三日前だった。AEOIから、ブーシェフルの耐震コンサルタント契約を持つペルシアン・アトラスに追加依頼。イスファハンUCFの被災後安全評価。構造被害の調査と復旧計画の技術助言。
本社のメールには「危険なら断ってください」と書いてあった。「大丈夫です」と返した。
建物が倒壊していなければ。放射線量が許容範囲内であれば。——物理的には、大丈夫だ。
問題は物理ではなかった。
◇
イスファハン空港に降りた。気温四十三度。湿度八パーセント。息を吸うと鼻腔の粘膜が引きつった。
一ヶ月前、ファルハドがここで手を振っていた。笑うと目が三日月になる男。サーメドを連れてくるつもりだったのに妻に止められた男。
迎えの車はAEOIの公用車だった。白いサイパ・ティバ。運転手は寡黙な三十代の男で、名前を名乗らなかった。
市街を南に抜けた。ザーヤンデ川を渡る橋——スィーオセ・ポル。三十三のアーチが並ぶサファヴィー朝の橋。水はなかった。橋の下に、ひび割れた泥の河床が広がっている。
核技術センターの検問。革命防衛隊の兵士が二人。車両証とIDを確認された。
フェンスの向こうに施設が見えた。
足が止まった。
UCFの主要建屋は屋根がなかった。壁が外側に倒壊している。コンクリートの塊が散乱し、鉄筋が曲がった指のように空を指している。スポーリングのパターン。爆弾が上部から貫通し、内部で起爆している。内圧による破壊。外側からの力ではない。
入口の脇に花束が置かれていた。セロファンの包みが日差しで退色している。花は枯れていた。一ヶ月前の花だ。
十七箇所。レーダーの死角。回廊。
拳を握った。爪が掌に食い込んだ。開いた。
ヘルメットと防塵マスクを受け取った。線量計をクリップで胸ポケットに留めた。
◇
管理棟の前で待っていた。
ファルハドが歩いてきた。白衣の上に安全ベスト。丸い眼鏡。
五メートル先で分かった。痩せていた。一ヶ月前に会ったときより、頬の肉が落ちている。肩幅が広い体格は変わらないが、白衣が少し余っている。
「モハンデス」
声は変わらなかった。だが目が三日月にならなかった。
「ファルハド。久しぶりだ」
握手。掌の圧は強い。離すのが一拍遅かった。
「飛んできてくれたのか」
「業務だ。東京から依頼が来た」
「そうか」
二人で管理棟に入った。廊下を歩きながら、ファルハドが言った。
「叔父さんは手術が終わった。ガスで肺がやられて、一時は危なかった。今は意識もあるし、話もできる。でもまだ退院できない」
悟は前を向いて歩いた。
「ファルハド」
「なんだ」
「それは良かった」
声が平坦だった。自分の声が。良かった、は本当だ。退院できない、が自分のせいだという事実と同時に。
ファルハドは立ち止まらなかった。廊下の蛍光灯が二人の影を落としている。
「おじさんは病室でも技術の話をしてる。隣のベッドの患者に遠心分離機の原理を説明して、看護師に怒られたらしい」
笑えなかった。
笑うべき場面だった。一ヶ月前なら笑えた。
「現場を見よう」
ファルハドがドアを開けた。
◇
午前中。被災建屋の点検。
ファルハドと二人で南棟の配管系統を確認した。南棟は空爆の直撃を受けていない。隣接する建屋の爆発で窓ガラスが全て割れ、内部の軽微な設備が損傷しているが、構造体は健全だった。
被災箇所の配管サポートを一つずつ見ていった。三十七番のサポートで悟は屈み込んだ。支持金具がL字に曲がっている。アンカーボルトが台座から二ミリ浮いている。爆圧による変形ではない。パターンが違う。
スケールを当てた。金具の曲がり。変位量。配管の偏心荷重方向。
熱だ。
運転温度は約六十度。配管が伸びようとする方向に、金具が抵抗している。爆撃のはるか前から応力が蓄積していた。設計段階のミスだ。
「この金具、向きが逆です」
スケッチを描いた。配管の膨張方向。サポートの拘束方向。正しい取り付け向き。
ファルハドが覗き込んだ。三秒で理解した。眼鏡の奥の目が変わった。
「スライディング・サポートに変更すれば——」
「それだと横荷重を拾えない。ガイドとスライドを分けて二点支持にする」
「なるほど」ファルハドが手帳を取り出した。「ピッチは?」
「配管径の十二倍。ここなら一・八メートル」
ファルハドがスパナを差し出した。悟は受け取った。受け渡しに言葉はなかった。ファルハドが反対側のボルトを押さえている。配管の位置を微調整する間、二人の手が交互に動いた。
三十分で応急処置を終えた。
ファルハドが配管を叩いた。コンと短い音。金属の響きに異常振動がない。
「モハンデス」
振り返った。ファルハドの声が違った。朝とは違う。敬称の形は同じだった。ただ声に体重が乗っていた。
「復旧が本格化したら、この区間の設計をやり直してほしい。上に話す」
工具を片付けた。二人とも無言だった。
◇
管理棟に戻る通路で、ファルハドが聞いた。
「日本のプラントは、こういう設計ミスは少ないのか」
「ない、とは言わない。ただ、配管サポートの計算書は独立チェックが入る」
「独立チェック……」ファルハドが噛みしめるように繰り返した。「いいシステムだ」
食堂が見えてきた。壁にホメイニーとハメネイの肖像。その下にAEOIのロゴ。一ヶ月前、三人でテーブルを囲んだ食堂。サイードがスプーンを置いて日本の原発を訊いた食堂。
「昼にしよう」
ファルハドがトレイを二つ取った。ゴルメサブジーとライス。ドゥーグを二本。
三人目の椅子は空いていた。
「おじさんが退院したら、またここで食べよう。『世界一のゴルメサブジーだ』ってうるさいから」
悟はドゥーグの蓋を開けた。ミントが強い。イスファハンの味。
「ああ」
それ以上は言えなかった。
◇
午後。管理棟の一室でレポートを書いた。構造評価。残存強度。復旧優先順位。
悟が壊す手伝いをした建物を、悟が直す計画を書いている。
ペンが止まった。再開した。止まったことに気づいたのは再開した後だった。
携帯を確認した。暗号化アプリ。新着。
「南棟内部の詳細図面を入手せよ。遠心分離機の設置レイアウトが最優先」
通知を消した。ポケットに手を戻した。
窓の外で、クレーンが鉄骨を吊り上げていた。復旧工事が進んでいる。壊された建物が、また立ち上がろうとしている。
レポートの続きを書いた。
◇
ホテルに戻った。カードキーでドアを開けた。
机の上のボールペンが、朝と反対側に置いてあった。ペン先が窓の方を向いている。朝はドアの方を向けて置いた。
Do Not Disturbの札は掛けた。掛けたはずだ。
ハウスキーピングかもしれない。ペンを元の向きに戻した。シャワーを浴びた。
感想や評価をいただけると励みになります。
気に入っていただけたらよろしくお願いします。




