第八章 ピッケル
四日目の朝、暗号化アプリに新着が入った。
「ナタンツ南方1.6キロ。ピッケル山(クーへ・コランゲ・ガズ・ラー)。衛星画像で建設活動を確認。トンネル入口の目視偵察が必要。可能な限り近接撮影。現在のイスファハン滞在中に実行せよ。」
ナタンツまで北に百六十キロ。車で二時間半。日帰りできる。
朝食のとき、ファルハドに言った。
「今日はカーシャーンを見に行きたい。出張の合間に」
「フィン庭園か。いいぞ、バラ水の工房もある。明日また現場で」
レンタカーを借りた。白いサイパ・ティバ。
◇
イスファハンを北に出た。茶褐色の荒野が広がる。イラン中央高原。標高千メートル以上の半乾燥地帯。ところどころにカナートの通気孔が点々と並んでいる。泥で固めた小さな塔。地下水路。二千年前の灌漑技術が今も動いている。
カーシャーンを通過した。ここから先は計画通り。
ナタンツの町。果樹園のザクロが——七月。まだ青い。実が膨らみ始めている。
ナタンツ核施設の正門は通らなかった。施設の北側を迂回する。検問がある区域を避けて、南側の山岳地帯に向かった。
地図は携帯のオフラインマップを使った。出発前にナタンツ周辺の衛星画像をダウンロードしてある。エリが提供した画像と、民間衛星画像を重ね合わせた。
ピッケル山。標高千六百八メートル。ナタンツ主要施設の南一・六キロ。
施設の南側に通じる道は二本。一本はナタンツの町から南に伸びるアスファルト道。検問がある可能性が高い。もう一本は東側の谷沿いの砂利道。地図上は農道として表示されている。
東の砂利道を選んだ。
◇
砂利道は狭かった。車幅ぎりぎり。両側にザクロの果樹園が続き、果樹園が途切れると茶褐色の岩肌が剥き出しの丘陵地帯に変わる。ザグロス山脈の端。
二キロ先で道が途切れていた。斜面が崩落して砂利道を塞いでいる。土砂の量からして重機なしでは復旧できない。
オフラインマップを確認した。迂回路。南に五百メートル。農道がもう一本ある。ハンドルを切った。果樹園の間を抜ける細い轍。サイパ・ティバの腹が地面を擦った。
この道はピッケル山の南斜面に近い。計画した八百メートルの距離を保てない。もっと近くに出る。
引き返すか。
轍を進んだ。
丘を一つ越えたところで、視界が開けた。
南に山が見えた。平坦な丘陵の中に一際高い山塊。茶色と灰色の岩肌。頂上付近に白い石灰岩が露出している。
ピッケル山。
路肩に車を停めた。エンジンを切った。
窓を開けた。乾いた風。気温三十八度。標高千五百メートル。湿度は低い。砂と岩の匂いだけがする。
双眼鏡をバッグから出した。八倍。ニコン。バードウォッチング用として持ち歩いている。
山の南斜面に双眼鏡を向けた。
山肌が拡大された。
そこにあった。
標高千五百五十メートル付近。山腹にトンネルの入口が口を開けている。幅約十メートル。高さ八メートル。入口の周囲にコンクリートの擁壁が構築されている。真新しいコンクリート。型枠の木目が表面に残っている。養生期間が短い。急いで施工している。
入口の手前に建設機材が並んでいた。ダンプトラック三台。コンクリートミキサー車。クレーン。バックホウ。鉄筋が束になって積まれている。
トンネルの内部は暗い。双眼鏡でも奥は見えない。入口の規模で推測できる。車両が出入りする大きさ。重機が通れる。
山の表面にボーリング孔の痕跡があった。等間隔に並ぶ小さな穴。トンネルボーリングマシンの先行ボーリング。地質調査ではない。本掘削のためのガイドホールだ。
IAEAはこの施設を知らない。
携帯を取り出した。カメラを起動した。ズーム。シャッター。トンネル入口。建設機材。コンクリート擁壁。ボーリング孔。
十二枚撮った。角度を変えて。
双眼鏡に戻った。トンネル入口の左側に、小さなプレハブ小屋が建っている。作業員の詰め所だろう。屋根にアンテナが立っている。通信設備。
人影は見えなかった。昼休みか。
迂回のおかげで近い。トンネル入口まで約五百メートル。計画では八百メートルの距離を保つはずだった。近すぎる。そのぶん画像の解像度は上がる。擁壁の打ち継ぎ部。丁寧に処理されている。重要な施設だ。
カメラでさらに六枚。
携帯を下ろしたとき、砂利道の北側から音が聞こえた。
エンジン音。ディーゼル。重い車両。
携帯をポケットに滑り込ませた。双眼鏡をバッグに戻した。
砂利道の北からカーキ色の車両が近づいてくる。トヨタ・ランドクルーザー。軍用のアンテナが屋根に立っている。フロントガラスの向こうに迷彩服の人影。
IRGC。革命防衛隊。
心拍が跳ねた。一拍だけ。
体が動いた。
ドアを開けて車から出た。左前輪のところにしゃがんだ。タイヤを両手で叩いた。首を振った。困った顔を作った。
ランドクルーザーが近づいてくる。砂利を踏む音。ブレーキ。
停まった。
ドアが開く。ブーツが砂利を踏む。
「チー・ショデ?」
何があった。ペルシャ語。
立ち上がった。両手を軽く広げた。笑顔を作った。
「サラーム。パンクしてしまって」
兵士は二人。二十代。一人が銃を肩にかけている。AK-47。もう一人は腰のホルスターに手をかけている。
「パスポート」
胸ポケットからパスポートを出した。日本国旅券。赤い表紙。
兵士がパスポートを開いた。顔写真と悟の顔を見比べた。
「日本人か」
「そうです。エンジニアです。カーシャーンに行く途中で——」
「こんな道を? 高速道路を使え」
「オフラインマップが変な道を案内して。迷ってしまいました」
兵士がパスポートをもう一人に渡した。もう一人が入国スタンプを確認している。ページをめくる音が、砂漠の静寂の中で妙に大きかった。
「モハンデスか。何のエンジニアだ」
「原発の耐震コンサルタントです。イスファハンUCFの復旧評価で来ています」
「UCF」兵士が繰り返した。「ここはイスファハンじゃないぞ」
「分かっています。休日にカーシャーンの庭園を見に行こうとして——」
「日本人?」もう一人の兵士が口を開いた。パスポートから目を上げた。若い顔。「トヨタの国だな」
パスポートを返してきた。
「ここは立ち入り禁止区域だ。戻れ。南に戻って高速道路に出ろ」
「了解です。ありがとう」
「パンクは?」
「大丈夫です。空気圧が低かっただけで」
兵士が悟の車を見た。タイヤを見た。パンクしていないことは見れば分かる。
兵士の目が悟に戻った。一秒。
「早く行け」
車に乗った。エンジンをかけた。Uターンした。砂利道を南に戻る。
バックミラーにランドクルーザーが映っている。動いていない。見送っている。
五百メートル。ランドクルーザーが小さくなった。
手のひらがハンドルの上で滑った。汗。
果樹園が見えてきた。ザクロの木。青い実が陽を受けている。
◇
カーシャーン手前の茶店でチャーイを飲んだ。
ガラスのエステカンを両手で包んだ。熱い。指先に感覚が戻ってくる。
携帯を開いた。地図を確認した。カーシャーンからイスファハンまで二時間半。
チャーイを飲み干した。立ち上がった。
カーシャーンの町に入った。フィン庭園の駐車場に車を停めた。降りて、入口の写真を一枚撮った。ファルハドに聞かれたときのために。中には入らなかった。
高速道路に乗った。南下。イスファハンに向かう。
前後の車を確認した。速度を上げ、下げた。後続に同じ速度変化をする車はない。
尾行はない。
◇
イスファハンのホテルの部屋で、撮影した十八枚の画像をノートPCに移した。画像を拡大した。トンネル入口。コンクリート擁壁。クレーン。ダンプトラック。ボーリング孔のパターン。
一枚一枚、GPSデータを確認した。撮影位置と方角。
画像をSDカードに焼いた。暗号化テキストファイルを添付した。
「ピッケル山南斜面。標高1550m付近にトンネル入口確認。幅約10m×高さ8m。コンクリート擁壁新設。TBM先行ボーリング痕跡あり。建設機材多数。規模はフォルドウ級。IAEA未申告と推定。パトロール:IRGC2名、トヨタLC70、AK-47装備。東側農道で接触。立入禁止区域指定あり。」
SDカードをジャケットの内ポケットに入れた。
テヘランに戻ったら、届ける。
◇
翌日。UCF管理棟。
午前中の点検を終えて、レイラの研究室に構造評価の修正版を届けた。ドアをノックした。返事がなかった。もう一度。
「開いてるわ」
レイラはデスクに向かっていた。ノートPCの画面から目を上げなかった。
「修正版です。北棟の残存強度を再計算しました」
「そこに置いて」
ファイルをデスクの端に置いた。
ハーフェズの詩集が目に入った。前に来たときと同じ場所。付箋の数が増えている。
「ハーフェズを読むんですか」
レイラがようやく画面から目を上げた。悟の視線の先を追って、詩集を見た。
「読む、というか。もう暗記してるものもあるけど」
「物理学者が詩を」
「数式も詩も、見えないものを記述する方法でしょう」
悟は何も言わなかった。見えないものを記述する方法。核物理の方程式。ハーフェズの韻律。
「イスファハンに来るまでは知らなかったんですが」
「ハーフェズはシーラーズの人よ。でもこの街にも詩人は多い。空気に詩が溶けてるの」
レイラは詩集を手に取らなかった。視線をPCの画面に戻した。
「北棟の修正、今日中に見ます。何かあれば連絡する」
「お願いします」
研究室を出た。廊下の窓から、復旧工事のクレーンが見えた。
見えないものを記述する方法。
悟のポケットの中にSDカードがある。十八枚の画像。IAEA未申告の施設。見えないものを、悟は写真に撮った。
感想や評価をいただけると励みになります。
気に入っていただけたらよろしくお願いします。




