第十九章 代償
アラームが鳴った。
施設全体に響く警報音。赤い回転灯がA棟の天井で回り始めた。
ナヒードが壁の内線電話に手を伸ばした。悟はすでにA棟北側に向かって走り出していた。
「遠山さん——」
ナヒードの声が警報にかき消された。
排気ダクトのアクセスハッチ。開いていた。ボルトが床に散らばっている。レイラが外した。
通路の向こうから靴音。複数。早い。
無線の声が壁に反響した。ペルシャ語。遠い声だが明瞭だった。
「——東翼は後回しだ。メイントンネルを押さえろ」
ラヒミの声だった。
ハッチに飛び込んだ。
銃声。
A棟の奥——遠心分離機のカスケード付近。金属が裂けた。配管。
UF6配管。
銃弾がカスケード配管に命中したなら——六フッ化ウランが漏洩する。空気中の水分と反応してフッ化水素。HF。
A棟のHVAC分岐がレイラの言った通りなら、HFはB棟通信制御室に到達する。起爆コントローラの銅配線を腐食する。
ダクトの入口に向けて銃声がした。金属壁に弾丸が跳ねた。火花。右脇腹に衝撃。跳弾の破片が肉に入った。
這った。
◇
直径八十センチ。暗闇。肘と膝。
二十メートル。ダクトが左に曲がった。弾が届かなくなった。
一回の動作で六十センチ。腕を伸ばし、肘を支点にして体を引きずる。脇腹の傷口がダクトの底に擦れた。
五十メートル。脇腹から温かいものが流れている。許容範囲。
匂い。
甘い。化学的な甘さ。
UF6だった。ダクトの中に流れてきている。配管は破れた。
悟は袖で口と鼻を覆った。遅かった。最初のひと呼吸で吸い込んでいた。
喉が燃えた。咳が出た。止まらなかった。
UF6が空気中の水分と反応してHFを生成している。ダクトの中を出口に向かって流れている。悟と同じ方向に。追い越して。
HFがA棟のHVAC系統に入っているなら——換気ダクトの分岐からB棟通信制御室まで。銅配線の腐食は始まっているか。
変数が多い。漏洩量。風速。分岐構造。
這った。
百メートル。脇腹の出血が止まらない。シャツが張り付いている。
セルフチェック。呼吸——一分間に二十八回。速いが規則的。右脇腹——出血継続、深さ不明。指先——右手正常、左手の小指が鈍い。まだいける。
百五十メートル。
呼吸ができなくなった。横隔膜が痙攣している。
涙が止まらない。視界が白く滲んだ。HFが粘膜を焼いている。
もう一つの計算が回る。
銅配線のHF腐食速度。十五度、実験室条件で〇・〇五ミリ毎時。実環境の温度。湿度。濃度。教科書のデータはここでは使えない。
成功したのか。していないのか。
確証のないまま這った。
二百メートル。左手がしびれている。意識——数字が出るのに時間がかかる。
脇腹の感覚がなくなっている。痛みだけが距離の代わりになった。
体が動かなくなった。
◇
ダクトの中で仰向けになった。暗い鉄の壁が近い。
呼吸。浅い。短い。肺が半分しか動いていない。
USBはレイラが持っている。もう外に出ただろう。データは——届く。
起爆コントローラは。
エリの命令を捨てた。コントローラを自分で破壊する代わりに、UF6漏洩に賭けた。賭けではなかった。エンジニアの見積もり。だが見積もりは実測ではない。
ファルハドの声が聞こえた。
——詩的だろう?
詩的ではなかった。配管から漏れたガスで肺が焼けて、排気ダクトの中で動けなくなっている。
エリの声。「コントローラを破壊しろ。第一目標だ」
命令を捨てた。
ダニエルの声。「信じる人間のためにやるんだ」
父の声。「自分の足で立て」
三人とも、ここにはいない。
ここにいるのは、自分の足で来た男だけだ。
悟は横隔膜に力を入れた。
立てなかった。だが這った。
光。前方に。小さな円。
五十メートル。四十メートル。指先の感覚がない。呼吸が何回か分からない。意識だけがある。光がある。
出口。山の北側斜面。標高二千四百メートル。
五月の風が頬に当たった。冷たい。乾いている。
日光が目を刺した。青い空。
岩場に転がった。
◇
咳き込んだ。唾を吐いた。赤かった。
損傷の確認。右脇腹——跳弾破片、出血継続。肺——灼熱感。深く吸えない。
レイラはいなかった。
岩場。灌木。砂。風。
行ったのだ。振り返らずに。USBを持って。
——イランのためにやる。あなたのためじゃない。
足音。下から。
タミルだった。岩場を登ってくる。悟を見つけて走った。
「レイラは」
「三十分前に出た。車に乗せた。USBを持っている」
タミルが悟の腕を肩にかけた。斜面を下った。視界が狭くなっていた。中心だけが残っている。タミルの肩。乾いた岩。
車が見えた。農道。タミルが悟を後部座席に押し込んだ。エンジンがかかった。
農道を走った。揺れ。砂利。
「国境まで三時間だ。持つか」
悟は答えなかった。額をシートの端に預けた。フロントガラスの向こう。山の稜線。
HFは通信制御室に届いたか。コントローラは死んだか。
分からないまま、山を出る。
車がカーブを曲がった。
前方。農道の幅いっぱいに車が停まっていた。黒いSUV。ナンバープレートなし。
タミルがブレーキを踏んだ。
SUVの運転席から男が降りてきた。紺のスーツ。ノーネクタイ。白髪混じりの短髪。
ラヒミだった。
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