第二十章 盤外
タミルの手がジャケットの内側に入った。
「やめろ」
悟の声は掠れていた。HFで焼けた喉がまともに音を出さない。
ラヒミが車に向かって歩いてきた。両手が見えている。
後部座席のドアの前で止まった。窓越しに悟を見下ろした。
「開けろ」
タミルが動かない。ルームミラー越しに悟を見た。
「……開けてくれ」
ドアが開いた。山の空気が入った。
ラヒミが車内をのぞき込んだ。悟の顔を見た。呼吸音を聞いている。目の充血。口の端の血。視線が下がった。シャツの右脇腹が赤黒く染まっている。
「UF6か」
悟は頷いた。それだけで咳が出た。
ラヒミは体を起こし、農道の先を見ていた。背後の山。フォルドウの方角。
SUVが百メートル先に停まっている。エンジンはかかったまま。運転席に人影。ラヒミは一人で降りてきた。
「施設はUF6で汚染されている。A棟は封鎖した」
悟は息を吸った。肺が痛んだ。
「通信制御室は」
ラヒミが振り返った。
「換気系統からHFが入った。機器は全滅だ。封鎖前に確認した」
起爆コントローラは死んだ。
三百メートルのダクトの中で回り続けた計算が、止まった。
「三十分前に女が出てきた」
ラヒミの声が変わらない。
「北西に向かった。追わなかった」
ラヒミは腕時計に目を落とした。文字盤を確認し、山の方を見た。何かの時間を計算している。
風が砂を巻いた。タミルがルームミラーの中でラヒミを見ていた。手はまだジャケットの内側にある。
「エヴィンで聞いたな」
ラヒミが悟を見た。
——なぜ日本人がイスラエルのために命を懸けるのですか。
あのとき答えなかった。
「イスラエルのためじゃなかった」
声が割れた。掠れて、短い。
ラヒミは黙って待った。
「最初は借りだった。断れなかった」
咳が出た。
レヴィン家の食卓。ダニエルの大きな手。
「途中から——変わった」
ファルハド。サーメド。ナスリーン。卵焼きの台所。
「友人が死んだ。俺が蒔いた種で」
ラヒミの目がわずかに動いた。右手の指が一度だけ握られ、開いた。
「蒔いた種は刈り取る。それだけだ」
農道の舗装が白く焼けている。
ラヒミは農道の真ん中に立ったまま、南を見ていた。施設の方角。封鎖した部下。汚染の処理。報告書。待っている仕事がある。
左手の指が腿を二度叩いた。
SUVのエンジンが低く回り続けている。運転席の部下が待っている。ラヒミはSUVの方を見ない。
背を正した。
視線を悟に戻した。
「コンテナ船のことは知っている」
悟が体を起こしかけた。脇腹が裂けるように痛んだ。咳で止まった。
「IRGCの計画だ。私はVAJAの人間だ。管轄が違う」
声が低くなった。
「あの女が持っているデータで日本は船を止められる」
タミルがジャケットの中で銃把を握り直した。ラヒミの視線は悟から動かなかった。
管轄が違う。止められない。だが——外には出せる。
「止められなければ——報復が来る。テヘランに」
声は平坦だった。
「アミニのときと同じだ。無実の人間が死ぬ。今度は一人ではない」
アミニ。ファルハドの姓。エヴィンで「アミニは無実でした」と言った声と同じ声だった。処刑を報告した男が、処刑された男の名前を覚えている。
ラヒミはそれ以上何も言わなかった。視線が一度だけ地面に落ちた。
顔を上げた。
ポケットに手を入れた。タミルが銃を引きかけた。
ラヒミが出したのは——黒い木製のチェスの駒。ナイト。角が丸くなっている。
エヴィンの尋問室で机の上に置いた駒だった。
悟の膝の上に置いた。木の温もり。ラヒミの掌の温度が残っている。
「二時間で国境を越えろ」
それだけ言った。踵を返した。SUVに向かって歩いた。砂利を踏む音。一定のリズム。
振り返らなかった。
SUVが動いた。後退して農道の脇に寄せた。向きを変えた。南——フォルドウの方角に走り去った。
◇
SUVの後部座席。運転席の部下がバックミラーで一度だけラヒミを見た。何も聞かなかった。
フォルドウに向かう道。山が近づく。
報告書を書く。汚染。封鎖。日本人技術者は施設外にいた。女は行方不明。それで通る。
通らなければ——エヴィンの、反対側に座ることになる。
ファルハド・アミニの処刑報告書。日付。時刻。方法。三行の書類で一人の男が消えた。あの男の息子の写真がまだファイルにある。
窓の外で山が大きくなった。ゲートが見えてくる。
ジャケットのポケットを確かめた。身分証。携帯。鍵。駒の場所だけが空いている。
◇
タミルがアクセルを踏んだ。車が動いた。
悟は手の中のナイトの駒を見ていた。黒い木。L字に動く。予測しにくい駒。
額がシートに落ちた。
車の振動。道路の継ぎ目。数えようとした。数えられなかった。
指の腹にナイトの角の丸さ。何年分の対局の跡。
温度がゆっくり体温に近づいていく。
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