表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フォルドウ  作者: お寿司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/29

第二十章 盤外

タミルの手がジャケットの内側に入った。


「やめろ」


悟の声は掠れていた。HFで焼けた喉がまともに音を出さない。


ラヒミが車に向かって歩いてきた。両手が見えている。


後部座席のドアの前で止まった。窓越しに悟を見下ろした。


「開けろ」


タミルが動かない。ルームミラー越しに悟を見た。


「……開けてくれ」


ドアが開いた。山の空気が入った。


ラヒミが車内をのぞき込んだ。悟の顔を見た。呼吸音を聞いている。目の充血。口の端の血。視線が下がった。シャツの右脇腹が赤黒く染まっている。


「UF6か」


悟は頷いた。それだけで咳が出た。


ラヒミは体を起こし、農道の先を見ていた。背後の山。フォルドウの方角。


SUVが百メートル先に停まっている。エンジンはかかったまま。運転席に人影。ラヒミは一人で降りてきた。


「施設はUF6で汚染されている。A棟は封鎖した」


悟は息を吸った。肺が痛んだ。


「通信制御室は」


ラヒミが振り返った。


「換気系統からHFが入った。機器は全滅だ。封鎖前に確認した」


起爆コントローラは死んだ。


三百メートルのダクトの中で回り続けた計算が、止まった。


「三十分前に女が出てきた」


ラヒミの声が変わらない。


「北西に向かった。追わなかった」


ラヒミは腕時計に目を落とした。文字盤を確認し、山の方を見た。何かの時間を計算している。


風が砂を巻いた。タミルがルームミラーの中でラヒミを見ていた。手はまだジャケットの内側にある。


「エヴィンで聞いたな」


ラヒミが悟を見た。


——なぜ日本人がイスラエルのために命を懸けるのですか。


あのとき答えなかった。


「イスラエルのためじゃなかった」


声が割れた。掠れて、短い。


ラヒミは黙って待った。


「最初は借りだった。断れなかった」


咳が出た。


レヴィン家の食卓。ダニエルの大きな手。


「途中から——変わった」


ファルハド。サーメド。ナスリーン。卵焼きの台所。


「友人が死んだ。俺が蒔いた種で」


ラヒミの目がわずかに動いた。右手の指が一度だけ握られ、開いた。


「蒔いた種は刈り取る。それだけだ」


農道の舗装が白く焼けている。


ラヒミは農道の真ん中に立ったまま、南を見ていた。施設の方角。封鎖した部下。汚染の処理。報告書。待っている仕事がある。


左手の指が腿を二度叩いた。


SUVのエンジンが低く回り続けている。運転席の部下が待っている。ラヒミはSUVの方を見ない。


背を正した。


視線を悟に戻した。


「コンテナ船のことは知っている」


悟が体を起こしかけた。脇腹が裂けるように痛んだ。咳で止まった。


IRGC(革命防衛隊)の計画だ。私はVAJA(情報安全保障省)の人間だ。管轄が違う」


声が低くなった。


「あの女が持っているデータで日本は船を止められる」


タミルがジャケットの中で銃把を握り直した。ラヒミの視線は悟から動かなかった。


管轄が違う。止められない。だが——外には出せる。


「止められなければ——報復が来る。テヘランに」


声は平坦だった。


「アミニのときと同じだ。無実の人間が死ぬ。今度は一人ではない」


アミニ。ファルハドの姓。エヴィンで「アミニは無実でした」と言った声と同じ声だった。処刑を報告した男が、処刑された男の名前を覚えている。


ラヒミはそれ以上何も言わなかった。視線が一度だけ地面に落ちた。


顔を上げた。


ポケットに手を入れた。タミルが銃を引きかけた。


ラヒミが出したのは——黒い木製のチェスの駒。ナイト。角が丸くなっている。


エヴィンの尋問室で机の上に置いた駒だった。


悟の膝の上に置いた。木の温もり。ラヒミの掌の温度が残っている。


「二時間で国境を越えろ」


それだけ言った。踵を返した。SUVに向かって歩いた。砂利を踏む音。一定のリズム。


振り返らなかった。


SUVが動いた。後退して農道の脇に寄せた。向きを変えた。南——フォルドウの方角に走り去った。


 ◇


SUVの後部座席。運転席の部下がバックミラーで一度だけラヒミを見た。何も聞かなかった。


フォルドウに向かう道。山が近づく。


報告書を書く。汚染。封鎖。日本人技術者は施設外にいた。女は行方不明。それで通る。


通らなければ——エヴィンの、反対側に座ることになる。


ファルハド・アミニの処刑報告書。日付。時刻。方法。三行の書類で一人の男が消えた。あの男の息子の写真がまだファイルにある。


窓の外で山が大きくなった。ゲートが見えてくる。


ジャケットのポケットを確かめた。身分証。携帯。鍵。駒の場所だけが空いている。


 ◇


タミルがアクセルを踏んだ。車が動いた。


悟は手の中のナイトの駒を見ていた。黒い木。L字に動く。予測しにくい駒。


額がシートに落ちた。


車の振動。道路の継ぎ目。数えようとした。数えられなかった。


指の腹にナイトの角の丸さ。何年分の対局の跡。


温度がゆっくり体温に近づいていく。

感想や評価をいただけると励みになります。

気に入っていただけたらよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ