第十八章 地下
六割の賭けに勝った。
五月二十日。早朝四時。
タミルの車がテヘランを出た。北西へ。コム高速道路。
助手席にレイラ。後部座席に悟。三人の間に会話はなかった。
コムでタミルと別れた。タミルはフォルドウ北西十五キロの合流地点に先行する。悟がレンタカーのハンドルを握った。レイラの判断だった。公用車を使えば移動記録がAEOI本部に残る。
コムからフォルドウまで約百六十キロ。荒れた二車線。左右に砂漠と岩山。
夜が明け始めた。東の空がオレンジに染まる。
レイラが口を開いた。
「ファルハドが遠心分離機の話をするとき、いつも言ってた。『詩的だろう?』って」
悟はハンドルを握ったまま前を見ていた。
「今日、私たちはあの遠心分離機の前を通る。何千基も。ファルハドが愛した機械の前を通って、彼を殺した国の秘密を盗む」
レイラの声が低くなっていた。
「皮肉ね」
悟はハンドルを切った。道がカーブしている。
「皮肉です」
それだけ言った。
レイラが助手席でタブレットを開いた。施設平面図。
「メイントンネルは南側から北へ下る。勾配八度。五百七十メートルで地下駐車場。東にA棟、西にB棟。B棟の奥がIRGC管轄区画」
悟は脳内に図面を描いた。配管ルート。換気系統。
「緊急排気ダクト。北側斜坑。直径八十センチ。全長三百メートル」
匍匐で八分。
「もう一つ。空爆後にIRGCが増設した機器の排熱処理で、A棟の換気ダクトから分岐を取っている可能性がある」
UF6配管はカスケードの給排気系に接続されている。漏洩すればガスはA棟の換気系統に入る。その先に通信制御室がある。
記憶した。
◇
午前七時。フォルドウ施設ゲート。
山の斜面にトンネルの入口。コンクリートの開口部。ミッドナイトハンマーのクレーターが山肌に残っている。入口は無傷だった。
検問所。IRGC兵士が二名。自動小銃。
一人が近づいてきた。若い。十八、九歳。自動小銃を胸の前に構えているが、手が微かに震えている。銃のグリップを握り直す動作が一度あった。
悟の視線が兵士のブーツに落ちた。泥がこびりついている。踵のゴムがすり減って、ミッドソールの黄色い層が覗いていた。支給品の交換時期を過ぎている。
レイラがIDカードと承認書類を提示した。兵士がタブレットで照合している。
「徴兵二年目ね、あの子」レイラが小声で言った。「ブーツを見れば分かる」
悟は前を見たまま、指先でステアリングを軽く叩いた。一回だけ。
「通れ」
ゲートが開いた。トンネルに入った。LED照明が白く壁に反射する。八度の下り勾配。照明間隔は約八メートル。光と影が規則正しく繰り返される。
五分後。トンネルが広がった。地下駐車場。天井にパイプが走っている。冷却水配管。空調ダクト。電線管。
悟は車を停めた。エンジンを切った。
腹の底に振動がある。可聴域の下。遠心分離機。何千基もの遠心分離機が、岩盤の向こうで回転している。
セキュリティチェックポイント。二重の鉄扉。レイラの指紋と虹彩。悟の臨時許可証は磁気カード。
案内のAEOI職員。白衣。被曝線量計。名前はナヒード。二十代。
「全区画。まずA棟から始めて、B棟奥まで」
ナヒードが一瞬躊躇した。
「B棟奥は特別管理区画に——」
「承認書類に含まれています」
ナヒードがタブレットを操作した。三十秒。
「……承認されています。ただ、特別管理区画にはIRGCの護衛が同行します」
レイラが頷いた。「構いません」
◇
A棟濃縮ホール。
扉が開いた瞬間、悟は足を止めた。
見渡す限りの遠心分離機。銀色の筒状の機械が蛍光灯の白い光に照らされて、何列にもわたって並んでいる。数えられなかった。百基、二百基。列が奥の壁まで途切れない。
音ではなかった。振動だった。何千基のローターが毎秒九百回転で回っている。その回転が空気を揺らし、床を揺らし、骨を揺らす。
足元のコンクリートが震えている。靴底を通して伝わる微振動。〇・〇一G以上。回転体の質量、回転数、軸受の偏芯量——計算が勝手に走る。
配管接続部に目が止まった。SUS316Lのフランジ構造。設計思想がUCFの冷却系と重なった。同じ大学。同じ学派。ファルハドが学んだ教室で、同じ教科書を使った世代がここを建てた。
ファルハドの声が聞こえた。
——詩的だろう?
悟は歩いた。レイラの隣を。ナヒードの後ろを。
レイラは壁面の亀裂を測定している。あるいは測定しているふりをしている。レーザー距離計を構えて、数値をタブレットに記録していく。本物の安全評価のように。
「ここの亀裂は爆撃由来ではありませんね」
レイラが振り返った。
「岩盤の地圧です。応力方向が水平。爆撃なら垂直方向に走ります」
ナヒードがメモを取った。嘘は言っていない。ただ見ている範囲が違う。
配管をなぞった。冷却水。フランジ接合。ボルトのピッチ。そして換気ダクトの径と分岐。天井のケーブルラック。通路のカメラの死角。安全評価に必要なデータと、もう一つの目的に必要なデータが、同じ視線の中で重なっている。
A棟の点検に二時間。壁面亀裂をミリ単位で記録した。その合間に、脳が別の地図を描いていた。
◇
B棟。
A棟との間に防爆隔壁。鉄扉が三重。ここからIRGCの護衛が二名加わった。自動小銃。無線。
その奥。通路が狭くなった。天井が低くなった。照明が蛍光灯からLEDスポットに変わった。壁にIRGCのエンブレム。
特別管理区画。
さらに鉄扉。暗証番号。IRGC護衛の一人が入力した。四桁。7291。
作戦室。
長方形。十メートル×六メートル。中央にテーブル。壁面にモニター三台。サーバーラック二基。端末が四台。空調が強い。サーバー冷却のため。
IRGC将校が一名。書類を確認し、不機嫌な顔をした。
「安全評価に作戦室は関係ない」
「構造健全性の評価には全区画の目視検査が必要です。AEOIの規定です」
レイラの声は官僚的に正確だった。将校は鼻を鳴らしたが、署名した。
「十五分だ」
作戦室の鉄扉の前で、悟は足を止めた。
扉の向こうから声が漏れていた。衛星電話の音声は壁を通す。送話口に向かって明瞭に発音する癖がつくからだ。
「——司令官、船が東経百三十五度線を通過しました」
悟は壁に背中をつけた。レーザー距離計を壁に向けたまま。
「目標海域到達まで推定四時間。送信準備を開始します」
四時間。
東経百三十五度線。明石市を通る経度。その線を船が通過した。目標海域——横浜沖か東京湾口か。
どちらか一方しか選べない。
データ抽出——サーバーからファイルを落として二十分。ファームウェア改竄——通信制御室の起爆コントローラを書き換えて二十分。二つの部屋の間にB棟通路と防爆隔壁。IRGC巡回を避けて移動に十五分。合計五十五分。
送信準備完了まで四十分。
十五分、足りない。
出発前の最終通信。エリの声。「コントローラを破壊しろ。第一目標だ。船は我々が処理する」。
我々が処理する。コントローラが壊れれば起爆信号は送れない。イスラエルの安全は確保される。だが船はそのまま日本に向かう。核装置を積んだコンテナ船が横浜港に入る。起爆信号が来なくても、発見されなければ次の機会に使われる。
データを取らなければ、日本は船の名前も知らない。
悟は壁の亀裂にレーザーを当てた。数値を読んだ。読んでいなかった。
もう一つの計算がある。
脱出経路はA棟濃縮ホールを通過する。追手がつく。UF6配管——銃弾が命中すれば六フッ化ウランが漏洩する。空気中の水分と反応してフッ化水素。HF。金属を腐食する。電子回路の銅配線、はんだ、コネクタ。
換気ダクト経由で通信制御室にHFが流入すれば、起爆コントローラの回路基板が死ぬ。レイラが車内で言った——空爆後の増設機器の排熱処理に、A棟系統から分岐を取っている可能性。
確実ではない。変数が多い。だがエンジニアとして——確率は十分にある。
データを先に抜く。逃げる過程でA棟を通る。銃撃戦になればUF6は漏れる。HFがコントローラを腐食する。
エリの命令を捨てる。
これは恩じゃない。俺の責任だ。
「レイラ博士。サーバーラック周辺の壁面測定に移ります」
レイラが頷いた。
悟はレイラと目を合わせなかった。壁に歩いた。天井の亀裂をレーザー距離計で測り始めた。数値を読み上げる。レイラがタブレットに記録する。
IRGC将校はデスクに戻った。護衛二名は入口。
七分後。
悟は部屋の隅に移動した。サーバーラックの横。壁面を測るふりをしながら、背面を見た。
USBポート。青い樹脂の縁。埃が薄く積もっている。
レーザー距離計を左手に持ったまま、右手がポケットに入った。タミルの超小型USBドライブ。爪の先ほどのサイズ。
ナヒードの巡回間隔は二十二分。A棟で確認済み。次の巡回まで十一分。
「六ミリ。レイラ博士、記録を」
レイラが端末の方に歩いた。将校の視線がレイラの動きを追った。
その三秒。
悟の右手がサーバーの背面に伸びた。指先がポートの縁に触れた。埃が崩れた。USBを差し込んだ。端子が嵌合する微かなクリック。タミルが仕込んだプログラムが起動する。船舶識別情報、航路データ、起爆タイミングを検索し、コピーする。
「六ミリ、記録しました」
サーバーラック側面の小さなLED。書き込み中は不規則に明滅する。
三十秒。
IRGC将校がデスクの引き出しを開けた。何かを探している。悟の方は見ていない。
六十秒。
悟は壁を移動した。サーバーラックから一歩離れた位置。「四ミリ。やや拡大傾向です」
九十秒。
LEDの間隔がわずかに長くなった。書き込みの後半。
ナヒードが部屋に入ってきた。悟の作業を覗き込んでいる。
「この亀裂、以前の点検では記録されていましたか」
「初回です。経年変化を見るのが今回の目的ですから」
ナヒードが頷いた。彼女の視線がサーバーラックの方に動いた。USBは背面。正面からは見えない。
「こちらの壁面も測定しますか」
「ええ」
悟はナヒードの方に歩いた。サーバーラックから遠ざかる方向。
百二十秒。
将校がデスクから顔を上げた。悟とレイラを見た。サーバーラックを見た。
時間が延びた。
将校の目がラックの上を滑り、壁の監視カメラに移り、入口の護衛に戻った。日常の確認動作。
百四十秒。
廊下で靴音がした。一人。足音が近づいた。作戦室の鉄扉の前で止まった。
悟の指がレーザー距離計のグリップを握り直した。
足音が遠ざかった。
百五十秒。
「レイラ博士、この区画の湿度データはお持ちですか。結露の痕跡があります」
「前回の環境モニタリングでは相対湿度三十二パーセント。結露が起きる値ではありません」
「配管からの微量漏水の可能性があります。冷却系統との接続部を——」
LEDの点滅が止まった。コピー完了。
百六十秒。タミルの見積もりを二十秒超過。
悟は壁から離れた。サーバーラックの横を通りながら、右手でUSBを抜いた。ポートの縁に残った指紋を親指の腹で拭いた。
「天井の測定も必要です。脚立はありますか」
ナヒードが首を振った。
「では本日は壁面までとします」
IRGC将校が立ち上がった。「もう十分だろう」
「ご協力感謝します」
悟は部屋を出る前に振り返った。〇・五秒。椅子の角度。書類の位置。サーバーラックの前面パネル。入室前と同じ。
部屋を出た。鉄扉が閉まった。
ポケットにUSBドライブがある。船の名前。航路。起爆のタイミング。
十五分間、心拍数が上がらなかった。
嘘だ。上がっていた。ただ手が震えなかっただけだ。
◇
B棟の通路を歩いた。
壁時計。作戦室に入ってから三十二分。チェックポイントは二十五分だった。タミルが設定した暗号チェックイン——潜入から二十五分後にトンネル入口付近の中継器にワンバースト信号を送る。
悟はトンネル入口にいなかった。七分の遅延。
エリは気づいている。通信障害なら三分以内に再試行がある。七分超過は逸脱の判定基準を超えている。
「保証人の義務は保証人にしか及ばない」。あの言葉がファルハドに向けられたとき、悟は黙って聞いていた。
今度は自分が輪の外だ。命令を捨てた男に、脱出支援を続ける理由はない。
タミルの車は消えている。
A棟との防爆隔壁を通過した。濃縮ホール。遠心分離機の低い振動が足の裏から伝わってくる。
レイラがいた。A棟の北側区画。ナヒードの姿はない。
「ナヒードは」
「トイレ。三分前に出た」
北側の壁面。レイラが排気ダクトのアクセスハッチを示した。ボルト六本。M10。通路の作業員ロッカーにスパナセットがある。通りすがりに確認している。
悟はポケットからUSBドライブを出した。レイラの手に渡した。指が触れた。冷たかった。
「ダクトに入ってください。先に」
レイラが目を上げた。
「あなたは」
「すぐ後を追います。ナヒードが戻る前に口実を作る」
レイラは悟を見た。物理学者の目。時間の猶予を計算している目。
「行ってくれ」
悟はジャケットの内ポケットから紙片を出した。四つ折り。タミルが渡したもの。
レイラのポケットに押し込んだ。
「フォルドウ北西十五キロ。ハルザン村。羊飼いに『ダニエルの友人だ』と。タミルがいなければそこへ行ってくれ」
レイラはUSBをジーンズの右ポケットに入れた。ファスナーを閉めた。
「届けてくれ。日本に」
レイラは悟を見た。三秒。
何も言わなかった。
踵を返した。A棟の東端に向かって歩き始めた。振り返らなかった。
白衣が遠ざかる。遠心分離機の間に消える。
足音が消えた。
悟は一人でA棟に立っていた。低い振動だけが、靴底を通して脛骨に届いている。
レイラがダクトに到達するまで四分。ボルトを外すのに二分。匍匐三百メートル、八分。合計十四分。
十四分後、レイラは北側斜面に出る。
悟はナヒードが戻ってくるのを待った。壁にレーザー距離計を向けたまま。
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