第十七章 脱出
十二日目。
朝食のナンを半分だけ食べた。残り半分はポケットに入れた。
午前九時——推定。食事の間隔から逆算した時刻。
鉄扉が開いた。
看守が二人。いつもの二人ではない。IRGC。制服が違う。肩章の色。
「立て。移送だ」
手錠をかけられた。初めて。
金属が手首に食い込んだ。冷たい。鎖の長さは三十センチ弱。両手を腹の前で合わせる姿勢が強制される。重量は想定より軽かった。旧式の造りだ。新型ではない。
廊下を歩いた。いつものルートではない。右に曲がるところを左に行く。エレベーターではなく階段。下る。
一階。駐車場。
光。
太陽の光が目を刺した。十一日ぶりの自然光。涙が出た。生理的反応。感情ではない。瞳孔が収縮するまで五秒。
黒いバン。窓のないやつ。後部に乗せられた。
内部は暗かった。車内灯が一つ。金属のベンチシート。壁にボルトが剥き出しになっている。荷台仕様の改造。防音は施されていない——外の音が通る、という意味だ。手錠の鎖を座席の金属フレームにかけようとした看守の動作を、悟は目で追った。引っ掛ける角度。解除できる角度。
看守が二人、両側に座った。ドアが閉まった。また暗くなった。
エンジンがかかった。車が動き出した。
悟はエンジン音を聞いた。ディーゼル。回転数から速度を推測する。時速四十キロ前後。振動を数えた。道路の継ぎ目。一定間隔。エヴィンはテヘラン北部。山の麓。市街地に向かっているなら、道は下りになる。実際にわずかな後傾がある。南下。
左折。右折。左折。
交差点を数えた。バンの揺れ方で判断する。急ブレーキは信号か検問。スムーズな減速は渋滞。
五分が経過した。
このルートは変だ。
エヴィンから南下してVAJA保安局管轄区域を横切っている。IRGCが移送を実行するなら、IRGCの管轄区域に直接入るルートを選ぶはずだ。VAJA管轄を通過する必要はない。
意図的なルートか。誰かが——移送令状に署名した人間が——意図的にこの道を選んだ。
七分後。
急ブレーキ。
悟の体が前に投げ出された。手錠をかけた手首が座席の金具に引っかかった。痛み。
外で声がした。ペルシャ語。怒鳴っている。複数。
「道を開けろ」
「IRGC情報局だ。この囚人は我々の管轄だ」
「VAJA保安部の移送令状がある。どけ」
声が重なった。断片がバンの壁を通して届く。「——ラフバルの命令だ——」最高指導者。IRGC側の声。「——エッテラーアートの管轄権を——」情報省。VAJA側。「——お前らにジャースースを渡す権限は——」ジャースース。スパイ。自分のことだ。「——セパーフに口を出すな——」セパーフ。革命防衛隊の略称。
全部は聞き取れなかった。壁越しの怒声。権力の縄張り争い。二つの組織が一人の囚人を奪い合っている。
悟は数えた。九日間の独房で身につけた習慣。看守二人の注意がドアの外に向いている。左側の看守が腰を浮かせた。右側が無線に叫んでいる。
八分の空白。あるいはそれに似た何か。
悟は音を立てずに体をドア側にずらした。手錠の鎖を座席の金具から外した。
車の外で何かがぶつかる音。金属。
三台目の車が来た。
タイヤのスキール音。そして——車の下で缶が転がる音。シュッという噴出。催涙ガス。
白い煙が車内に入ってきた。悟は息を止めた。シャツの袖を口に押し当てた。
看守が咳き込んだ。目を押さえた。
ドアが外から開いた。
ヘブライ語。
「בוא(来い)」
悟はドアの外に飛び出した。
手錠のまま。目が涙で見えない。催涙ガス。鼻腔が燃えている。だが声の方向に走った。
手が悟の腕を掴んだ。別の車に押し込まれた。ドアが閉まった。エンジン。加速。
運転席の男が言った。
「タミルだ。三分で合流地点に着く。話はその後だ」
悟は後部座席に倒れ込んだ。手錠が手首に食い込んでいる。催涙ガスが肺を焼いている。咳が止まらない。
三分。車が停まった。別の車に乗り換えた。手錠をボルトカッターで切断した。手首に赤い跡が残った。
新しい車。ペルシャ語のラジオが流れている。普通のタクシーに見える車。運転手はイラン人——おそらくクルド人。モサドの協力者ネットワーク。
タミルが助手席から振り返った。三十代半ば。日焼けした顔。両手の爪が根元まで短く切り込まれている。工作員の手だった。
「安全な場所に移動する。質問は後だ」
質問はなかった。悟にもタミルにも。
車はテヘラン市内を抜け、北に向かった。アルボルズ山脈の麓。住宅地が途切れ、果樹園が始まった。
四十分後、車は農道に入り、石造りの小屋の前で停まった。
◇
小屋の中は清潔だった。簡素だが、水と食料がある。寝袋が二つ。衛星通信機材。
タミルが水のボトルを渡した。悟は一気に飲んだ。
「連絡を取る。待て」
タミルが衛星端末を操作した。暗号化通信。相手はテルアビブ。
五分後、タミルが端末を悟に渡した。
エリの声。
「生きているな」
「ああ」
「移送の情報はVAJA内部から漏れた。誰かまでは分からない。だが結果的に機能した」
悟はあの紙片のことを考えた。署名のない一行。ケバブの包み。手錠のない十一日間。
移送ルート。悟は車内で数えた振動を思い返した。エヴィンから南下し、VAJA保安局の管轄区域を横切っていた。
IRGCが移送を実行し、VAJAの縄張りを通る。衝突が起きないほうがおかしい。
ラヒミ。
移送令状はVAJA保安部が発行した。ルートの指定権はVAJA側にある。あの男が、奪い合いが起きる道を選んだ。
「この国にも、守るべきものはある」。
八分の空白は、偶然ではなかった。
悟はそれをエリに言わなかった。エリも聞かなかった。
「聞け。フォルドウの作戦室に入れるのはお前だけだ。コンテナ船の識別情報と航路データ。全てあの中にある。USBに落として持ち出せ」
「AEOI承認は」
「まだ生きている」
悟は計算した。VAJAの逮捕記録がAEOIのシステムに反映されるまでのタイムラグ。ブーシェフルの件では一ヶ月。だがスパイ容疑は優先度が違う。長くて七十二時間。
「脱出は排気ダクト経由。北西にタミルのチームが待つ」
簡単に言う。地下八十メートルの岩盤の中にある施設に単身で入り、IRGC管轄の作戦室サーバーからデータを抜き、排気ダクトから脱出する。
「レイラ・ハダディが必要だ」
エリが沈黙した。
「彼女のセキュリティクリアランスがなければ、作戦室区画には入れない。AEOI承認だけでは濃縮エリアまでしか行けない」
「協力者を追加で巻き込むことの意味は分かっているな」
「分かっている」
「彼女が拒否したら」
「説得する」
「どうやって」
「全部話す」
エリの呼吸がスピーカーの向こうで変わった。
「お前の判断に任せる。ただ——」
沈黙。三秒。
「ダニエルなら、お前を行かせなかったかもしれない」
通信が切れた。
悟は端末をタミルに返した。
ダニエルなら。
ダニエルは六年前、ネゲヴ砂漠で悟に言った。「信じる人間のためにやるんだ」。
エリは悟を行かせる。
ダニエルは悟を止めただろう。人間のために。
悟は窓の外を見た。雪が残った山肌。五月の山。
レイラに全てを話す。モサドのエージェントであること。ファルハドが死んだ理由。核の標的が日本であること。
合理的。
嘘だ。合理的では全くない。
レイラの前に立って、まだ嘘をつけるのか。
「タミル。テヘランに戻る方法はあるか」
◇
テヘラン。夜。
タミルの部下がレイラの現在位置を調べた。イスファハンの自宅ではなく、テヘランにいた。AEOIの本部に呼び出されている。ファルハドの件で聴取を受けたらしい。
テヘラン大学近くのアパートに仮住まいしていた。
悟は一人でアパートの前に立った。タミルは二ブロック先に車を停めて待っている。
インターホンを押した。
応答がない。
もう一度押した。
「……誰」
レイラの声。
「悟です」
沈黙。長い沈黙。十秒。二十秒。
ブザーが鳴った。ドアが開いた。
三階。ドアの前にレイラが立っていた。
Tシャツとジーンズ。髪を下ろしている。化粧はしていない。目の下に影がある。
「逮捕されたと聞いた」
「されました。脱出しました」
レイラの目が悟の手首を見た。手錠の赤い跡。
「入って」
部屋は狭かった。ワンルーム。本が積まれている。壁にイランの地図が貼ってある。テヘラン、イスファハン、コム、フォルドウ——四箇所にペンで印がついていた。テーブルの上にノートパソコンと、開いたままのノート。レイラの筆跡。数式と表のようなものが並んでいる。キッチンに食器が溜まっている。
レイラが紅茶を入れた。二人分。悟の前にカップを置いた。
座った。向かい合って。
「話して」
悟は紅茶に口をつけなかった。
「俺はモサドのエージェントです」
レイラの表情は動かなかった。紅茶のカップを持ち上げようとした手だけが、テーブルの上で止まった。
「六年前にリクルートされました。テヘランに来たのは四年前。プラントエンジニアの仕事は本物ですが、それはカバーです。イランの核施設の情報を収集して、モサドに送っていました」
レイラはカップから手を離した。膝の上に手を置いた。
「ライジング・ライオン作戦の標的座標は、俺が提供した情報に基づいています。ピッケル山の施設を見つけたのも俺です。ファルハドが——」
声が止まった。
喉の筋肉が動かなかった。嘘をつくときは完璧に制御できる喉が、本当のことを言おうとしたら動かない。
「ファルハドが逮捕されたのは、俺の活動が原因です」
レイラの目が据わった。
「出て行って」
静かな声だった。
悟は立ち上がった。
「核弾頭を搭載したコンテナ船が、日本に向かっています」
レイラの拳が白くなった。膝の上で。
「フォルドウの作戦室にデータがある。あなたのクリアランスが必要です」
「出て行って」
同じ声だった。目だけが揺れていた。
悟はドアに向かった。振り返らなかった。
廊下。蛍光灯の白い光。階段を下りた。靴音がコンクリートの壁に反響した。
◇
エントランスを出た。
五月の夜。テヘランの空気。排気ガスとジャスミン。
建物の角に立った。通りからは見えない位置。
タミルの車のヘッドライトが二ブロック先で一瞬点滅した。生存確認。
十五分が経った。
三階の窓に灯りがあった。消えていない。
二十分。窓の灯りが消えた。三秒。また点いた。部屋の中で動いたのか。別の部屋に行ったのか。
三十分。
灯りはまだ点いていた。
タミルから一度だけ無線が入った。「あと十五分で離脱する。指示をくれ」。悟は返さなかった。
四十分。
靴の底が冷たかった。五月のテヘランでも、夜は冷える。
携帯が鳴った。ポケットの中。非通知。
出た。
「あの夕暮れも?」
レイラの声だった。
「三十三橋で——ハシュト・ベヘシュトで——全部、任務だったの」
「いいえ」
「嘘つき。プロの嘘つきだって、自分で言った」
悟は黙った。レイラの言う通りだった。プロの嘘つきが「これだけは本当だ」と言っても、何の証明にもならない。
「私を利用しに来たの」
「——半分は」
「もう半分は」
「嘘をついたまま頼めなかった」
受話器の向こうで呼吸が聞こえた。
「ファルハドは何も知らなかったのね」
「何も」
「あなたのせいで死んだ」
「はい」
長い沈黙。受話器を通して、テヘランの夜の音が聞こえた。どこかでクラクション。
「一つ確認する」
レイラの声が変わった。感情が退いた。物理学者の声だった。
「二月の会議。あなた、スライドの余白に配管支持架台の寸法を書いていた。耐震の専門家が書く数字じゃなかった」
あの会議室。レイラの目が悟のスライドに止まった瞬間を覚えている。
「あの数字は何」
「UF6の配管ルーティング。フォルドウの設計と比較するために取っていました」
受話器の向こうが止まった。
「やっぱり」
声が小さかった。
「あのときから分かっていたのかもしれない。あなたの専門は耐震じゃない。配管を見る目が——プラントの内側を知っている人間の目だった」
レイラが黙った。
「分かっていて、聞かなかった。聞いたら——」
声が途切れた。
悟は待った。
「独房で——十一日間、同じことだけ考えていた」
喉が勝手に動いた。
「サーメドがいただきますを覚えた夜のこと」
受話器の向こうが止まった。
沈黙。
「上がってきて」
通話が切れた。
◇
ドアが開いていた。
レイラはテーブルの前に座っていた。目が赤い。だが乾いていた。ノートパソコンが開いている。画面にグラフが並んでいた。
「あなたのためにやるんじゃない」
悟は黙って立っていた。
「逮捕の翌日、AEOIの朝会で知った。日本人技術者がVAJAに拘束された、と。翌日——ファルハドの処刑が全体通達で確認された。A4一枚。紙一枚で、一人の人間が消えた」
レイラの指がノートの縁を辿った。
「三日目から調べ始めた。安全評価チームの権限で、フォルドウB棟の運転データにアクセスした。電力消費が九月以降、異常に高い。濃縮活動では説明がつかない。冷却水温度も常時四度高い。大量の発熱体がある。IRGC管轄区域で、アクセスは拒否された」
物理学者の目だった。データを突き合わせる目が悟を見ていた。
「照会を試みたら保安部から電話が来た。なぜB棟のデータを照会したのか。——あの電話で確信した」
悟は黙っていた。十一日間、独房の壁を数えている間に、レイラは自分の足で動いていた。
「あなたが持ち込んだ話じゃない。私の中にも、あった」
レイラが立ち上がった。窓に歩いた。テヘランの夜景。
「IRGCが核を使えば、イランは終わる。報復で国土が焼かれる。何百万人が死ぬ。イランの名前が——永遠に刻まれる。核を落とした国として」
振り返った。
「私はイランのためにやる。あなたのためじゃない」
悟は頷かなかった。
「それで十分です」
レイラがテーブルに戻った。
「フォルドウの構造図は」
「ある」
タミルから渡されたUSBを差した。施設図面が画面に開いた。
レイラの指が動いた。
「ここ。濃縮ホールBの奥。二〇二三年以降、IAEAの立ち入りが拒否されている区画。IRGC管轄に移管されたセクション」
「作戦室はここに」
「論理的に考えれば。岩盤の最深部。空爆が届かない。通信は地上の中継アンテナ経由」
「排気ダクトは」
「北側の斜坑。山の北西面。出口は標高二千四百メートル付近」
「狭い?」
「人が一人通れるサイズとモサドは言っている。確認はできていない」
レイラが画面から顔を上げた。
「私のクリアランスは安全評価チームのもの。作戦室には入れない。でも——」
AEOIのシステムにログインした。
「緊急安全評価の要請を出す。ミッドナイトハンマー後の構造健全性再評価。全エリアの点検権限。IRGC管轄区画を含む」
「通るのか」
「所長はAEOIのキャリア官僚で、IRGC嫌い。六割」
六割で十分だった。
「いつ」
「申請が通れば、三日後」
三日。七十二時間の窓。
レイラがパソコンを閉じた。冷めた紅茶を一口飲んだ。
「一つだけ聞いていい」
悟は待った。
「三十三橋の夕暮れ。あのとき、何を考えていた?」
悟は紅茶のカップを見た。
「排水勾配」
レイラが目を見開いた。
一秒後、笑った。小さく。ほとんど声にならない笑い。
「最低」
悟は紅茶を飲んだ。冷めていた。
もう一杯、飲めそうだった。
感想や評価をいただけると励みになります。
気に入っていただけたらよろしくお願いします。




