第十六章 独房
蛍光灯の光が白い。
ファルハドの顔が浮かんだ。メガネのない顔。テレビの映像。
絞首刑。四月十日。
ダニエルの声。
——信じる人間のためにやるんだ。
信じる人間の一人は死んだ。
悟は立ち上がった。
独房の寸法を測った。歩幅で。長辺が三歩半。短辺が二歩。天井は腕を伸ばして指先が届かない高さ。二メートル四十以上。壁はコンクリート打ちっぱなし。型枠の跡が残っている。合板型枠。600×1800のパネルが六段。計算が合っている。悟はその事実に安堵した。
鉄扉。蝶番は外側。内側からは開けられない。食事は下部のフラップから差し入れられる。フラップの高さは十五センチ。
この情報は役に立たない。だが観察は思考を維持する。思考を維持する限り、壊れない。
◇
四日目。
尋問は続いた。尋問官は同じ男だった。眼鏡。ファイル。官僚。
「アミニ・ファルハド氏との関係は」
悟の手が膝の上で止まった。
「同僚です。AEOIの研究員でした」
「過去形を使いましたね」
「彼がどうなったか、聞いています」
尋問官はファイルに何か書いた。
「ファルハド・アミニは革命裁判所の判決に基づき、スパイ罪で処刑されました。彼はイスラエルの情報機関に協力していたことを自白しています」
「あの自白は——」
悟は口を閉じた。
尋問官が顔を上げた。待っている。
「何でもありません」
尋問官はまたファイルに書いた。
「あなたはアミニ氏の自宅を訪問していますね。複数回」
「はい。同僚として食事に招かれました」
「イスラエルの情報機関との接点は」
「ありません」
嘘は体から出る。声帯が振動し、舌が口蓋に触れ、唇が形を作る。筋肉の運動。悟は嘘をつくとき、自分の喉の筋肉だけに意識を集中する。声のピッチを一定に保つ。呼吸を安定させる。
嘘は技術だ。三年間磨いてきた。
尋問は二時間で終わった。独房に戻された。
◇
五日目。六日目。
尋問のパターンが見えてきた。午前と午後、各二時間。質問の内容は同じものが繰り返される。異なる順序で、異なる言い回しで。矛盾を引き出すための手法。悟はそれを知っている。エリのトレーニングで同じことをやった。
蛍光灯は消えない。
◇
六日目の午後。
尋問室に入ると、椅子の配置が変わっていた。
いつもは机を挟んで向かい合う。今日は机が壁際に寄せられ、椅子が二脚、斜めに向き合っている。距離は一・五メートル。間に遮るものがない。
悟は椅子の脚の位置を見た。床のリノリウムに擦り跡がある。つい先ほど動かした跡だった。
ラヒミが入ってきた。
前回の尋問室では紺のスーツだった。今日は白いワイシャツの袖を肘まで捲っている。左の手首に古い腕時計。文字盤が内側を向いている。軍人の癖だ。
「座ってくれ」
悟は座った。ラヒミも座った。背もたれに体を預けず、浅く腰かけている。
沈黙が十秒あった。ラヒミは悟を見ていた。見ているというより、読んでいた。
「六日間、尋問を受けたな」
「はい」
「あの男は有能か」
質問の意味が一瞬分からなかった。あの男——眼鏡の尋問官のことだ。
「質問が正確でした」
「だが何も引き出せなかった」
悟は答えなかった。
ラヒミの口元がわずかに動いた。笑みではない。観察の結果を確認したときの動きだった。
「トオヤマ。お前は尋問の訓練を受けている。嘘の整合性を保つ技術がある。教えた人間は——まあいい」
ラヒミは膝の上で指を組んだ。
「今日は質問をいくつかする」
一つではない。悟は身を引き締めた。
「まず一つ。お前は何を守ろうとした?」
声に嘲りはなかった。圧もなかった。本当に知りたがっている声だった。
悟は答えなかった。
ラヒミは待った。窓の外を見た。窓の外に何があるかは分からない。曇りガラス。光だけが透過する。
「——この国にも、守るべきものはある」
ラヒミが言った。「体制」ではなく「国」と言った。
その一語の重さに、悟は気づいた。気づいたが、顔には出さなかった。
ラヒミは窓から目を離した。
「聞き方を変えよう。お前の動機はイスラエルではない」
断定だった。問いではない。声帯の振動を聴く限り、この男は六日間の観察から結論を出している。
悟は天井を見た。蛍光灯。安定器の唸り。尋問室の蛍光灯は独房のものより新しい。唸りが小さい。
「答えない、か」
ラヒミは立ち上がらなかった。
「興味深い問いだと思わないか。モサドの歴史で、純粋な日本人のアセットは前例がない。少なくとも我々の記録にはない。ペルシャ語を話す日本人のエンジニアが、個人的な動機で——金でも思想でもなく——情報を流し続けた」
個人的な動機。ラヒミはそこまで見抜いている。
「金なら理解できる。思想なら理解できる。恐喝ならなおさらだ。だがお前はどれにも該当しない。我々はお前の銀行口座を調べた。不自然な入金はない。政治的な発言も、宗教的な傾向もない」
ラヒミは右手で左の手首の腕時計に触れた。一瞬だけ。
「残るのは人間関係だ。誰かへの——」
ラヒミは言葉を探すように指を組み直した。
「借りか。あるいは、もっと深いものか」
恩。
悟の中でその一語が鳴った。ラヒミは日本語を知らない。輪郭だけは正確に掴んでいる。
悟は膝の上の手を見た。手錠はない。六日間、一度もかけられていない。
「もう一つ、聞く」
ラヒミが言った。声のトーンが変わった。低くなったのではない。密度が上がった。
「お前たちは一月のデモにも関わったのか」
悟は何も知らない。本当に知らない。エリからそのような指令は一度も来ていない。デモは——テレビで見た。国営放送が「秩序は完全に回復した」と言っていた。スプレーで塗りつぶされたヴァリーアスル通りの壁。それだけだ。
「知らないようだな」
ラヒミが言った。表情を読んでいる。三秒あった。
「——だがお前のハンドラーは知っているだろう。マシュハドで我々の監視ドローンが三機、GPS信号を失って墜落した。お前たちの技術だ」
悟は何も答えなかった。
この情報は記憶した。脳の別の区画に、設計図として格納した。
GPSの妨害。マシュハドで。ドローン三機が信号を失って墜落。モサドの電子戦技術がイラン国内で使われた。
エンジニアの頭が、別の計算を始めた。
フォルドウは山岳地帯にある。地下八十メートルの岩盤の中。施設の周辺にはIRGCの監視ドローンが飛んでいる可能性がある。だが——マシュハドで使われた技術が、フォルドウでも使われていれば。施設周辺のGPS電波環境に「盲点」がある。
まだ情報が足りない。可能性だけは記憶した。
「答えなくていい。今日はこれだけだ」
ラヒミは沈黙した。五秒。十秒。椅子に座ったまま、悟の顔を見ている。読んでいる。
そして声のトーンがまた変わった。低くなったのではない。速度が落ちた。一語一語に間が入った。
「最後に一つ」
悟の指が膝の上で止まった。
「アミニ・ファルハド」
ラヒミの声の速度が落ちていた。語尾の音圧が下がっている。
「あの男のことを、まだ考えているか」
悟の喉が詰まった。嘘をつくときは完璧に制御できる喉が、こういう瞬間に動かなくなる。
「悪くない男だった」
ラヒミが言った。右手が腕時計に触れた。文字盤を見たのか、手首の骨を確かめたのか。指が離れるまで五秒あった。
「悪い選択をした男の隣に、たまたまいた」
ラヒミは立ち上がった。ワイシャツの袖を下ろさなかった。ドアに向かった。
ドアの前で止まった。振り返らなかった。
「トオヤマ。もう一度言う。お前が蒔いた種だ」
ドアが開いた。閉まった。
悟は椅子に座ったまま、斜めに向き合っていたもう一脚の椅子を見た。座面に体温の跡は残らない。ラヒミがそこにいた証拠は何もない。
蛍光灯の唸り。安定器の振動。
ファルハドの声が聞こえた。聞こえるはずがない。だが鼓膜が震えた。
「詩的だろう?」
悟は額を膝に落とした。蛍光灯が瞼を透かしていた。
◇
七日目の朝。悟は壁に背を預けた。蛍光灯は消えない。瞼を閉じても暗くならない。
眠れない。意識が途切れる瞬間がある。それが睡眠なのか失神なのか区別がつかない。
壁のコンクリートが冷たい。背中に触れる冷たさが唯一の時間感覚だった。
◇
八日目。
尋問はなかった。
一日中、独房にいた。食事は三回来た。ナンとチーズと角砂糖。紅茶。同じものを三回。
何もない時間が一番きつかった。尋問の二時間は、少なくとも頭を使う。嘘の整合性を維持する作業がある。独房では——何もない。
壁を見る。天井を見る。床を見る。コンクリートの表面のひび割れを数える。
七十三本。
数え直した。七十四本。見落としがあった。蛍光灯の真下に一本、細いやつがある。
父のことを考えた。
考えようとして考えたのではない。コンクリートの型枠跡を見ていたら、父の手が浮かんだ。
遠山勝。鉄筋工。四十五年間、現場に出た。手は節くれ立ち、小指の爪は半分なかった。型枠の角で削ったと聞いた。十八のときに。
母が死んだ翌日、父は現場に戻った。「仕事があるから」とだけ言った。悟は怒らなかった。理解したから。
自分のエンジニア脳は、父の現場脳と同じものだ。
父が子供に言ったことは少ない。「借りを作るな。自分の足で立て」。それだけが記憶に残っている。
悟はダニエルに救われた。ネゲヴ砂漠の脱塩プラントで、トンネルが崩落した。瓦礫の下で動けなくなった悟を、ダニエルが素手で掘り出した。その恩を返すために、イスラエルのために働いた。六年間。
返した。とうに返した。では——なぜまだ、ここにいる。
ファルハドが死んだ。悟の活動がVAJAの捜査を呼び、無関係のファルハドを巻き込んだ。
蛍光灯が鳴った。安定器の唸りが一瞬高くなり、また戻った。五十ヘルツ。
ファルハドには、借りがある。レイラには、嘘をつき続けた借りがある。日本には——コンテナ船が向かっている。
恩で動いた結果、新しい借りが増えた。
終わらない。
父は言うだろう。「だから借りを作るなと言った」。
悟は独房の天井を見上げた。蛍光灯。安定器の唸り。五十ヘルツ。
父なら、どうする。
考えるまでもない。
父は「恩」で動かない男だった。「自分の足で立て」。自分の判断で、自分の責任で。借りも恩もなく。
悟は三十五年間、その生き方ができなかった。
ダニエルの恩。エリの指令。イスラエルの大義。——全て、他人の理由だった。
自分の理由で動いたことが、一度でもあったか。
あった。
エリに「彼を助ける方法はないのか」と問うた。ファルハドのために。あの一瞬だけ、悟は自分の判断で口を開いた。
そしてエリは沈黙した。
あの沈黙の中に、全てがあった。モサドにとってファルハドは「アセットの周辺人物」に過ぎない。助ける価値のない駒。エリの沈黙はそれを教えた。
悟も駒だ。
ダニエルがいなければリクルートされなかった。ダニエルの恩がなければ拒否できた。悟はダニエルの恩情と、エリの利害計算の交差点に立っていた。
駒には駒の選択がある。
盤面は見えている。コンテナ船。核弾頭。日本。
フォルドウにデータがある。船の識別番号。航路。起爆タイミング。そのデータがあれば、日本は——世界は、船を止められる。
データを取れるのは、フォルドウに入れる人間だけだ。
悟のAEOI承認は、まだ生きているかもしれない。逮捕の事実がAEOIのシステムに反映されていなければ。VAJAとAEOIは別組織だ。ブーシェフルで見た。安全検査の不備を報告したとき、AEOI本部は一ヶ月経っても情報を共有していなかった。
これは恩ではない。
ファルハドへの償いでもない。ダニエルへの恩返しでもない。
自分が蒔いた種だ。自分の足で、刈り取る。
悟は壁から背を離した。
コンクリートの冷たさが背中から消えた。両手を見た。まだ震えている。
◇
九日目。
尋問の後、独房に戻された。
廊下を歩くとき、悟は数えた。独房から尋問室まで。六十二歩。エレベーター一回。上昇。ドアの数は四つ。看守の交代は二回。
九日間で蓄積したデータ。
まだ足りない。それでもパターンは見えている。
午後の尋問の後、看守の交代まで十二分の空白がある。日によって前後するが、八分を下回ったことはない。
八分。
何に使えるかは、まだ分からない。
◇
十日目の午後。
尋問室から独房への帰路。左側の廊下の突き当たりに、別の囚人が立っていた。
看守が悟の肩を押して目を逸らさせた。
一瞬だけ見えた。囚人の手首には手錠がかかっていた。悟にはかかっていない。
ラヒミの意図。
「時間は与えられる」。ラヒミの言葉。手錠をかけない。尋問は官僚的で暴力的ではない。蛍光灯は消えないが、それは209号棟の標準仕様だろう。
ラヒミは悟を「壊す」つもりがない。
なぜか。
ラヒミは核攻撃に反対している。VAJAの人間として。IRGCの暴走を止められないと言った。
だが——止めたいとは思っている。
「この国にも、守るべきものはある」。「体制」ではなく「国」と言った男。
悟が止める方法を持っているなら、ラヒミにとっても悟が壊れるのは望ましくない。
推測に過ぎない。
だが、手錠がない事実は残る。
◇
十一日目の夜。
食事のフラップが開いた。いつもの時間ではない。
アルミの皿ではなかった。紙の包み。中にナンと羊肉のケバブ。それと——折り畳んだ紙片。
紙片を開いた。ペルシャ語で一行。
「明朝。移送。備えろ」
署名はない。
悟は紙片を食べた。ナンと一緒に噛んで飲み込んだ。紙の繊維が喉に引っかかった。水で流した。
ケバブを食べた。
羊肉の脂が舌に広がった。十一日ぶりの肉だった。
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