第十五章 エヴィン二〇九
五月四日。月曜日。夕方。
イスファハンからの日帰り出張を終えてテヘランに戻った。レイラとの打ち合わせ。フォルドウの安全評価チームへの同行が正式に承認された。五月十八日。二週間後。
バスから降りた。ヴァナク広場。夕方の人混みに混じって歩いた。タクシーは拾わなかった。アパートまで二十分。SDRではない。ただ歩きたかった。
空気がぬるい。五月のテヘランは日中三十度を超えるが、夕方になると乾燥した風がアルボルズ山脈から降りてくる。
アパートの通りに入った。
足が止まった。
ファーティマ・ハーヌムがアパートの入口に立っていた。
一階の隣人。赴任した直後にサフランライスの鍋を持ってきた人だ。以来、月に二度はアーシュ・レシュテを届けてくれる。
この時間にアパートの入口にいる人ではない。
ファーティマ・ハーヌムの目が悟を捉えた。十メートルの距離。表情が読めた。
知っている顔ではなかった。
悟の足はすでに減速していた。頭が追いつく前に。胸郭の筋肉が収縮し、呼吸が浅くなっている。横隔膜の動きが変わったことを腹腔の圧力変化で感知した。身体が先に状況を読んでいる。
五メートル。
「サトルさん」
ファーティマ・ハーヌムの声が低かった。いつもの甲高い声ではない。
「さっき、知らない人が来て——」
背後で車のドアが開いた。
金属のラッチが外れる音。一台ではない。二台。左右同時。開くタイミングが揃っている。訓練された動きだ。
振り向く前に右腕を掴まれていた。
肘の上、三センチ。上腕二頭筋と上腕三頭筋の間の溝に親指が食い込んでいる。制圧の定石。腕を引いても逃げられないポイントを正確に押さえている。
左腕も掴まれた。別の手。
「遠山悟さん」
ペルシャ語。背後から。声は落ち着いていた。
足音。前方から二人。後方に掴んでいる二人。少なくとも四人。視界の端に黒いSUVのバンパーが見えた。サイパSUV。もう一台はプジョー・パルス。ナンバープレートなし。
車内の無線が聞こえた。助手席の窓が数センチ開いている。
「情報安全保障省です。ご同行願います」
同行。
首だけ動かした。ファーティマ・ハーヌムがアパートの入口に立ったままこちらを見ていた。右手が胸の前で拳を握っている。口が動いた。何か言おうとした。声にならなかった。
四年間、月に二度、スープを届けてくれた人の顔だった。
「分かりました」
SUVの後部座席に押し込まれた。両側に男が座った。体温。体臭。安いコロンの匂い。
ドアが閉まった。外の音が遠くなった。
車が動いた。
窓からテヘランの夕暮れが流れた。ヴァリーアスル通り。プラタナスの並木。金色の光が葉を透かしている。渋滞のテールランプの列が、街路の先まで赤く続いている。
フードを被せられた。黒い布。何も見えなくなった。
ファーティマ・ハーヌムが持ってきたアーシュ・レシュテには、いつもミントが多すぎた。
◇
車が停まるまで四十分だった。
フードの下から、車のタイヤが砂利を踏む音が聞こえた。エンジンが切れた。ドアが開いた。腕を掴まれた。
「降りろ」
砂利の感触。靴の下。数歩歩いた。ドアが開く音。金属のドア。
室内に入った。温度が変わった。外より冷たい。コンクリートの匂い。消毒液の匂い。
フードが取られた。
蛍光灯。白い光。天井が低い。コンクリートの壁。鉄のドア。
エヴィン刑務所。
209号棟。
廊下を歩かされた。靴音が反響する。左右に鉄のドアが並んでいる。
一つのドアの前で止まった。鍵が開いた。
中に入れられた。
独房。
二メートル×三メートル。コンクリートの床。コンクリートの壁。天井に蛍光灯が一つ。スイッチは外にある。二十四時間点灯。薄い毛布が一枚。便器が隅にある。窓はない。
ドアが閉まった。鍵がかかった。
悟は独房の中に立った。
蛍光灯の光が白い。影がない。管が微かに唸っている。五十ヘルツ。その周波数だけが、独房の中の時間だった。
◇
最初の二日間は誰も来なかった。
食事が差し入れ口から押し込まれた。ナンとチーズ。水。一日二回。
蛍光灯は消えなかった。昼も夜も同じ白い光。時間の感覚が曖昧になる。睡眠剥奪の手法だった。
悟は毛布を頭から被って眠ろうとした。眠れたのか、眠れなかったのか、判然としない時間が過ぎた。
三日目の朝——朝だと思われる時間に——ドアが開いた。
看守が二人。
「出ろ」
廊下を歩いた。別の部屋に入れられた。
尋問室。
机と椅子が二脚。壁にはマジックミラー。照明は蛍光灯二本。机の上にファイルが置いてある。
椅子に座らされた。手錠はかけられていない。
向かいの椅子に男が座った。三十代。ワイシャツ。ペンを持っている。
「名前」
「遠山悟」
「国籍」
「日本」
「職業」
「プラント・エンジニア。ブーシェフル原発の耐震コンサルタント」
「在留期間」
「四年」
男はメモを取った。基本情報の確認。これは前置きだった。
男がファイルを開いた。写真が出てきた。
A4サイズの引き伸ばし。白黒。
テヘランのグランドバザール。スパイス店の入口。男が店に入ろうとしている。横顔。
悟だった。
「これは何をしているところですか」
「買い物です」
「この店には週に一度、金曜日の午後に行っていますね」
「はい。サフランを買います」
「サフランを」
男は別の写真を出した。
同じスパイス店。今度は棚の近くの映像。角度が違う。天井のカメラだ。悟が棚板の裏に手を伸ばしている。
「棚板の裏に何をしていますか」
悟は写真を見た。
画質は粗いが、手の位置は明確だった。棚板の裏。マグネット。SDカード。
デッドドロップの監視映像。
沈黙した。
男はペンを置いた。立ち上がった。
「少々お待ちください」
部屋を出た。ドアが閉まった。マジックミラーの向こうに人の気配がある。
十五分待った。あるいは三十分。時計はなかった。
ドアが開いた。
別の男が入ってきた。
五十代。白髪混じりの短髪。紺のスーツ。ノーネクタイ。顔の造りは端正で、目の周りに深い皺がある。歩き方は静かだった。軍人のような姿勢の良さだが、軍人の硬さはない。
椅子に座った。ファイルを開かなかった。手を組んだ。
「遠山さん。ラヒミです。モフセン・ラヒミ」
ペルシャ語。だが発音に微かにロシア語の影響がある。
「お会いできて光栄です。あなたのことは以前から興味を持っていました」
悟はラヒミを見た。
チェスプレイヤーの目だった。盤面を読んでいる。だが急いでいない。
「任意と聞いていましたが」
「形式上は任意です。実質は——お分かりですね」
ラヒミは椅子の背にもたれた。
「スパイス店の写真は見ましたね。あなたのデッドドロップは二年前から把握していました。ただちに拘束しなかったのは——あなたを泳がせることで、ネットワークの全容を掴みたかったからです」
二年前。悟がデッドドロップを使い始めた最初期から。
「残念ながら、ネットワークはあなた一人でした。ハンドラーとの接触はアプリ経由。物理的な接触点はデッドドロップのみ。小さな作戦です。だが——成果は小さくなかった」
ラヒミはポケットからチェスの駒を出した。黒いナイト。机の上に置いた。
「ナイト。L字に動く。予測しにくい駒です。あなたは日本人のエンジニアで、モサドのアセットだ。組み合わせとしては予想外だった」
駒に目が落ちた。黒い木製。使い込まれて角が丸くなっている。
「質問があります」
ラヒミが言った。
「なぜ日本人がイスラエルのために命を懸けるのですか」
声に嘲りはなかった。純粋な知的好奇心の声だった。
悟は答えなかった。
「いずれ答えてもらいます。時間はあります。あなたがここに来たのは——まだ始まりです」
ラヒミは椅子から立ち上がらなかった。机の上のナイトの駒を指先で回した。
「もう一つ、お伝えすることがあります」
悟はラヒミの目を見た。
「お前の友人、アミニ・ファルハドは四月十日に処刑された。革命裁判所の判決に基づく。スパイ罪。絞首刑」
絞首刑。
その三文字が、ラヒミの声から分離して残った。
「アミニは無実でした」ラヒミが言った。
悟の手が膝の上で止まった。
「我々の捜査でもそれは確認されています。アミニはモサドとは無関係でした。彼は——あなたの友人であっただけです。あなたが日本人のエンジニアとして生活し、核施設の関係者と交友を持ち、情報を外部に流した。その余波で、無関係の人間が死んだ」
ラヒミの声は平坦だった。感情が排除されている。だがその平坦さは、訓練で身につけた種類のものだった。
「そしてもう一つ」
ラヒミはナイトの駒を手に取った。掌で握った。
「あなたが収集した情報——防空網のデータ、ピッケル山の座標——がイスラエルにどう使われたか。興味がありますか」
悟は答えなかった。
「イスラエルはあなたの情報に基づいて偵察飛行を行った。我々はそれを検知した。IRGCは激昂した。彼らが何をしたか知っていますか」
ラヒミは立ち上がった。窓のない部屋の壁に歩いた。壁に向かって話した。
「彼らは計画を前倒しにした。以前から存在した構想を——実行に移した。『第三の閃光』。聞いたことがあるかもしれない。あなたのハンドラーから」
悟の呼吸が浅くなった。自覚した。意図的に呼吸を整えた。
ラヒミは振り返った。
「標的を知りたいですか」
沈黙。
「お前の祖国だ、トオヤマ」
ラヒミの声は低かった。嘲りでも怒りでもなかった。語尾がわずかに落ちた。
「お前が蒔いた種だ」
悟は椅子に座ったまま動かなかった。
日本。
コンテナ船。港湾。核弾頭。
自分が集めた情報がイスラエルの偵察を可能にし、その偵察がIRGCを刺激し、IRGCが計画を前倒しにし——日本が標的になった。
自分が蒔いた種。
サーメドの声が聞こえた。パパ、いつ帰る。
ラヒミはナイトの駒を机の上に戻した。
「私は個人的にこの計画に反対です。核攻撃はイランの滅亡を意味する。しかし私はVAJAの人間であり、IRGCの暴走を止める権限は持っていない」
ラヒミは悟を見た。
「あなたには時間が与えられます。我々の質問に答えてください。ネットワーク。ハンドラー。通信手段。情報の内容。全てです」
「答えなければ?」
「この施設の尋問手法は効率的です。答えない人間は——長期的にはいません」
ラヒミは部屋を出た。
ドアが閉まった。
悟は尋問室の椅子に座ったまま、机の上の黒いナイトを見た。
L字に動く駒。予測しにくい駒。
だが今、駒は盤の外にある。
看守が来た。独房に戻された。
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