表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フォルドウ  作者: お寿司


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/29

第十五章 エヴィン二〇九

五月四日。月曜日。夕方。


イスファハンからの日帰り出張を終えてテヘランに戻った。レイラとの打ち合わせ。フォルドウの安全評価チームへの同行が正式に承認された。五月十八日。二週間後。


バスから降りた。ヴァナク広場。夕方の人混みに混じって歩いた。タクシーは拾わなかった。アパートまで二十分。SDRではない。ただ歩きたかった。


空気がぬるい。五月のテヘランは日中三十度を超えるが、夕方になると乾燥した風がアルボルズ山脈から降りてくる。


アパートの通りに入った。


足が止まった。


ファーティマ・ハーヌムがアパートの入口に立っていた。


一階の隣人。赴任した直後にサフランライスの鍋を持ってきた人だ。以来、月に二度はアーシュ・レシュテを届けてくれる。


この時間にアパートの入口にいる人ではない。


ファーティマ・ハーヌムの目が悟を捉えた。十メートルの距離。表情が読めた。


知っている顔ではなかった。


悟の足はすでに減速していた。頭が追いつく前に。胸郭の筋肉が収縮し、呼吸が浅くなっている。横隔膜の動きが変わったことを腹腔の圧力変化で感知した。身体が先に状況を読んでいる。


五メートル。


「サトルさん」


ファーティマ・ハーヌムの声が低かった。いつもの甲高い声ではない。


「さっき、知らない人が来て——」


背後で車のドアが開いた。


金属のラッチが外れる音。一台ではない。二台。左右同時。開くタイミングが揃っている。訓練された動きだ。


振り向く前に右腕を掴まれていた。


肘の上、三センチ。上腕二頭筋と上腕三頭筋の間の溝に親指が食い込んでいる。制圧の定石。腕を引いても逃げられないポイントを正確に押さえている。


左腕も掴まれた。別の手。


「遠山悟さん」


ペルシャ語。背後から。声は落ち着いていた。


足音。前方から二人。後方に掴んでいる二人。少なくとも四人。視界の端に黒いSUVのバンパーが見えた。サイパSUV。もう一台はプジョー・パルス。ナンバープレートなし。


車内の無線が聞こえた。助手席の窓が数センチ開いている。


「情報安全保障省です。ご同行願います」


同行。


首だけ動かした。ファーティマ・ハーヌムがアパートの入口に立ったままこちらを見ていた。右手が胸の前で拳を握っている。口が動いた。何か言おうとした。声にならなかった。


四年間、月に二度、スープを届けてくれた人の顔だった。


「分かりました」


SUVの後部座席に押し込まれた。両側に男が座った。体温。体臭。安いコロンの匂い。


ドアが閉まった。外の音が遠くなった。


車が動いた。


窓からテヘランの夕暮れが流れた。ヴァリーアスル通り。プラタナスの並木。金色の光が葉を透かしている。渋滞のテールランプの列が、街路の先まで赤く続いている。


フードを被せられた。黒い布。何も見えなくなった。


ファーティマ・ハーヌムが持ってきたアーシュ・レシュテには、いつもミントが多すぎた。


 ◇


車が停まるまで四十分だった。


フードの下から、車のタイヤが砂利を踏む音が聞こえた。エンジンが切れた。ドアが開いた。腕を掴まれた。


「降りろ」


砂利の感触。靴の下。数歩歩いた。ドアが開く音。金属のドア。


室内に入った。温度が変わった。外より冷たい。コンクリートの匂い。消毒液の匂い。


フードが取られた。


蛍光灯。白い光。天井が低い。コンクリートの壁。鉄のドア。


エヴィン刑務所。


209号棟。


廊下を歩かされた。靴音が反響する。左右に鉄のドアが並んでいる。


一つのドアの前で止まった。鍵が開いた。


中に入れられた。


独房。


二メートル×三メートル。コンクリートの床。コンクリートの壁。天井に蛍光灯が一つ。スイッチは外にある。二十四時間点灯。薄い毛布が一枚。便器が隅にある。窓はない。


ドアが閉まった。鍵がかかった。


悟は独房の中に立った。


蛍光灯の光が白い。影がない。管が微かに唸っている。五十ヘルツ。その周波数だけが、独房の中の時間だった。


 ◇


最初の二日間は誰も来なかった。


食事が差し入れ口から押し込まれた。ナンとチーズ。水。一日二回。


蛍光灯は消えなかった。昼も夜も同じ白い光。時間の感覚が曖昧になる。睡眠剥奪の手法だった。


悟は毛布を頭から被って眠ろうとした。眠れたのか、眠れなかったのか、判然としない時間が過ぎた。


三日目の朝——朝だと思われる時間に——ドアが開いた。


看守が二人。


「出ろ」


廊下を歩いた。別の部屋に入れられた。


尋問室。


机と椅子が二脚。壁にはマジックミラー。照明は蛍光灯二本。机の上にファイルが置いてある。


椅子に座らされた。手錠はかけられていない。


向かいの椅子に男が座った。三十代。ワイシャツ。ペンを持っている。


「名前」

「遠山悟」

「国籍」

「日本」

「職業」

「プラント・エンジニア。ブーシェフル原発の耐震コンサルタント」

「在留期間」

「四年」


男はメモを取った。基本情報の確認。これは前置きだった。


男がファイルを開いた。写真が出てきた。


A4サイズの引き伸ばし。白黒。


テヘランのグランドバザール。スパイス店の入口。男が店に入ろうとしている。横顔。


悟だった。


「これは何をしているところですか」


「買い物です」


「この店には週に一度、金曜日の午後に行っていますね」


「はい。サフランを買います」


「サフランを」


男は別の写真を出した。


同じスパイス店。今度は棚の近くの映像。角度が違う。天井のカメラだ。悟が棚板の裏に手を伸ばしている。


「棚板の裏に何をしていますか」


悟は写真を見た。


画質は粗いが、手の位置は明確だった。棚板の裏。マグネット。SDカード。


デッドドロップの監視映像。


沈黙した。


男はペンを置いた。立ち上がった。


「少々お待ちください」


部屋を出た。ドアが閉まった。マジックミラーの向こうに人の気配がある。


十五分待った。あるいは三十分。時計はなかった。


ドアが開いた。


別の男が入ってきた。


五十代。白髪混じりの短髪。紺のスーツ。ノーネクタイ。顔の造りは端正で、目の周りに深い皺がある。歩き方は静かだった。軍人のような姿勢の良さだが、軍人の硬さはない。


椅子に座った。ファイルを開かなかった。手を組んだ。


「遠山さん。ラヒミです。モフセン・ラヒミ」


ペルシャ語。だが発音に微かにロシア語の影響がある。


「お会いできて光栄です。あなたのことは以前から興味を持っていました」


悟はラヒミを見た。


チェスプレイヤーの目だった。盤面を読んでいる。だが急いでいない。


「任意と聞いていましたが」


「形式上は任意です。実質は——お分かりですね」


ラヒミは椅子の背にもたれた。


「スパイス店の写真は見ましたね。あなたのデッドドロップは二年前から把握していました。ただちに拘束しなかったのは——あなたを泳がせることで、ネットワークの全容を掴みたかったからです」


二年前。悟がデッドドロップを使い始めた最初期から。


「残念ながら、ネットワークはあなた一人でした。ハンドラーとの接触はアプリ経由。物理的な接触点はデッドドロップのみ。小さな作戦です。だが——成果は小さくなかった」


ラヒミはポケットからチェスの駒を出した。黒いナイト。机の上に置いた。


「ナイト。L字に動く。予測しにくい駒です。あなたは日本人のエンジニアで、モサドのアセットだ。組み合わせとしては予想外だった」


駒に目が落ちた。黒い木製。使い込まれて角が丸くなっている。


「質問があります」


ラヒミが言った。


「なぜ日本人がイスラエルのために命を懸けるのですか」


声に嘲りはなかった。純粋な知的好奇心の声だった。


悟は答えなかった。


「いずれ答えてもらいます。時間はあります。あなたがここに来たのは——まだ始まりです」


ラヒミは椅子から立ち上がらなかった。机の上のナイトの駒を指先で回した。


「もう一つ、お伝えすることがあります」


悟はラヒミの目を見た。


「お前の友人、アミニ・ファルハドは四月十日に処刑された。革命裁判所の判決に基づく。スパイ罪。絞首刑」


絞首刑。


その三文字が、ラヒミの声から分離して残った。


「アミニは無実でした」ラヒミが言った。


悟の手が膝の上で止まった。


「我々の捜査でもそれは確認されています。アミニはモサドとは無関係でした。彼は——あなたの友人であっただけです。あなたが日本人のエンジニアとして生活し、核施設の関係者と交友を持ち、情報を外部に流した。その余波で、無関係の人間が死んだ」


ラヒミの声は平坦だった。感情が排除されている。だがその平坦さは、訓練で身につけた種類のものだった。


「そしてもう一つ」


ラヒミはナイトの駒を手に取った。掌で握った。


「あなたが収集した情報——防空網のデータ、ピッケル山の座標——がイスラエルにどう使われたか。興味がありますか」


悟は答えなかった。


「イスラエルはあなたの情報に基づいて偵察飛行を行った。我々はそれを検知した。IRGC(革命防衛隊)は激昂した。彼らが何をしたか知っていますか」


ラヒミは立ち上がった。窓のない部屋の壁に歩いた。壁に向かって話した。


「彼らは計画を前倒しにした。以前から存在した構想を——実行に移した。『第三の閃光』。聞いたことがあるかもしれない。あなたのハンドラーから」


悟の呼吸が浅くなった。自覚した。意図的に呼吸を整えた。


ラヒミは振り返った。


「標的を知りたいですか」


沈黙。


「お前の祖国だ、トオヤマ」


ラヒミの声は低かった。嘲りでも怒りでもなかった。語尾がわずかに落ちた。


「お前が蒔いた種だ」


悟は椅子に座ったまま動かなかった。


日本。


コンテナ船。港湾。核弾頭。


自分が集めた情報がイスラエルの偵察を可能にし、その偵察がIRGCを刺激し、IRGCが計画を前倒しにし——日本が標的になった。


自分が蒔いた種。


サーメドの声が聞こえた。パパ、いつ帰る。


ラヒミはナイトの駒を机の上に戻した。


「私は個人的にこの計画に反対です。核攻撃はイランの滅亡を意味する。しかし私はVAJA(情報安全保障省)の人間であり、IRGCの暴走を止める権限は持っていない」


ラヒミは悟を見た。


「あなたには時間が与えられます。我々の質問に答えてください。ネットワーク。ハンドラー。通信手段。情報の内容。全てです」


「答えなければ?」


「この施設の尋問手法は効率的です。答えない人間は——長期的にはいません」


ラヒミは部屋を出た。


ドアが閉まった。


悟は尋問室の椅子に座ったまま、机の上の黒いナイトを見た。


L字に動く駒。予測しにくい駒。


だが今、駒は盤の外にある。


看守が来た。独房に戻された。

感想や評価をいただけると励みになります。

気に入っていただけたらよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ