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フォルドウ  作者: お寿司


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20/29

幕間④ 壁

三月十七日。火曜日。東京。


合同庁舎六号館B棟、地下。柏木真帆は端末の画面を睨んでいた。


デスクの脇に一冊のファイルが立てかけてある。「イラン経済情勢——制裁下の社会不安定化リスク」。付箋が一枚、貼り出ている。バザール商人の不満が臨界点に近い——分析担当者の走り書きだった。


もう一冊、背表紙の見えない分厚いファイルが開いたままになっていた。エネルギー白書だ。付箋がはみ出している。何十枚もあるが、一枚だけ色が違う。「ホルムズ海峡」と表示されたページに差し込まれた青い付箋だった。


コーエンとの面会から二ヶ月近く。「バンダレアッバース港から出ているものがある」——コーエンの声が消えなかった。


バンダレアッバースから横浜に向かうコンテナ船のうち、オマーン沖で異常停泊した三隻を特定した。


それが二ヶ月の作業の結論だった。


特定の方法は後から整理する。端末にはAIS——船舶自動識別装置のデータと商用衛星画像が並んでいる。マクサーのアーカイブ。六ヶ月分。ほとんどの船は通常の航路を辿っている。三隻だけが違った。ホルムズ海峡通過後、オマーン沖で不自然に停泊している。停泊ポイントを地図上に落とすと、半径四キロの円内に収まった。停泊中の船の周囲に小型船舶のAIS反応。洋上での積み替えの痕跡。


異常か。偶然か。


柏木の習性は「まず正常を定義する」ことだった。ベースラインから外れたものに旗を立てる。今、三つの旗が立っている。


山岸課長補佐には口頭で報告済みだった。「独自にやれ。リソースは使うな」。それが了承の形だった。


午前十時。内線が鳴った。


「柏木さん、NSC(国家安全保障会議)事務局から。久保田次長が会議室にお見えです。レポートの件で」


柏木は缶コーヒーを飲み干した。ジョージアのエメラルドマウンテン。今日二本目。空き缶をデスクの横に並べた。


立ち上がった。ファイルを一冊持った。昨日NSCに再提出したレポート。「イラン核関連物資の対日搬入リスクについて——予備的評価」。全七ページ。一月の報告が書面で却下された後、二ヶ月かけて航路データで日本行きの船を特定して書き直した。柏木のキャリアで最も薄い、そして最も重いレポートだった。


 ◇


NSC事務局次長・久保田直樹は、会議室の奥の席に座っていた。


五十六歳。外務省出身。髪は灰色に近い。ネクタイは紺。姿勢は崩れていなかったが、肩に力が入っている人間の座り方だった。久保田の隣に補佐官が一人。メモ帳を開いている。


柏木は向かいに座った。


「レポートは読んだ」


久保田の声は低く、平坦だった。声の温度から感情を読み取れない。官僚のスキルだ。


「イランが日本を核攻撃の標的にしている可能性がある。根拠はモサド東京連絡官からの非公式情報と、バンダレアッバース港の航路異常。確度はC-3以下。——これで合っているか」


「はい」


「率直に聞く。この情報をどう評価している」


柏木はファイルを開いた。手が安定している。震えていないことを確認した。


「独自検証の結果、航路異常は事実です。バンダレアッバースを出港した複数のコンテナ船が、ホルムズ海峡通過後にオマーン沖で停泊し、洋上で積み替えを行っている痕跡があります。目的港の記録と実際の航路にずれがある船が三隻。うち一隻は日本の港湾が最終目的地です」


久保田は柏木を見た。


「日本行きの船がオマーン沖で停泊した。それだけか」

「それだけです。この時点では」

「モサドの情報は確認が取れているのか」

「取れていません。モサドの情報源が——拘束された可能性があります」


久保田はネクタイの結び目に触れた。無意識の動作だろう。


「柏木さん。いくつか指摘する」


補佐官がメモ帳のページをめくった。


「第一に、イランが日本を核攻撃の標的とする戦略的合理性が認められない。イランの主要敵国はアメリカとイスラエルだ。中東域外に核の矛先を向ける動機がない」


「その点は私も——」

「最後まで聞け」


柏木は口を閉じた。


「第二に、情報源がモサドだ。イスラエルには日本を対イラン包囲網に引き込む動機がある。モサドの情報操作の可能性を排除できない。実際、過去にモサドはイラクの大量破壊兵器情報を誇張して米国を戦争に引きずり込んだ前例がある」

「承知しています」

「第三に、確度Cの情報で閣議案件にはできない。NSCが動けば外務省が動く。外務省が動けばイラン側に察知される。日本・イラン間の外交チャネルは限られている。誤報だった場合、失うものが大きすぎる」


久保田は椅子の背に体を預けた。


「アザデガン油田の権益を忘れたか」


久保田が言った。補佐官がペンを止めた。


「イランとの関係を壊すわけにはいかない。確度不十分な情報で外交チャネルを動かして、それが誤報だったら——日本のエネルギー安全保障が直撃を受ける」


「レポートは受理した。ファイルには残す。だがこの段階でアクションを取ることは難しい。確度が上がれば、改めて検討する」


柏木はファイルを閉じた。


「次長。一つだけ」


久保田が柏木を見た。


「航路異常は現在進行形です。仮にこの情報が正しかった場合、船が目的港に到着してからでは——」


「仮にの話は情報ではない」


久保田の声に感情はなかった。声のトーンだけが一段下がった。何かを切り捨てた時の声だった。


「柏木さん。私は二十年前にリヤドにいた。湾岸で情報が入った時、確度不足で上に上げなかった。結果的に大事には至らなかった。正しい判断だったと今でも思っている」


柏木は久保田を見た。久保田の目は柏木を見ていなかった。二十年前のリヤドを見ていた。


「確度が足りない情報で動いて間違えれば、責任を取るのはあなたではない。大臣だ。総理だ。だから慎重になる。それがこの仕事だ」


久保田は立ち上がった。補佐官もメモ帳を閉じて立った。


「継続的な監視は止めない。何か掴んだら直接連絡しろ。ただし、外に漏らすな」

「了解しました」


久保田がドアに向かった。ドアノブに手をかけた。


振り返らなかった。


「——あのとき上げていたらどうなっていたか、は考えることがある。たまにだが」


ドアが閉まった。


柏木は会議室に一人で座っていた。テーブルの上にレポートが残っている。全七ページ。「予備的評価」の文字が蛍光灯の下で白く光っていた。


 ◇


デスクに戻った。


久保田の判断は正しい。論理的に正しい。確度Cの情報で閣議案件にはできない。外交リスクと情報の信頼性を天秤にかければ、動かないことが合理的な判断だ。


柏木はそれを理解していた。理解していて、納得していなかった。


端末を開いた。


三隻を特定した作業の続きに戻った。


防衛省の公開情報——海上幕僚監部の広報資料。「日本関係船舶の航路情報」。月次レポート。ペルシャ湾を出港し、日本の港湾に到着したコンテナ船のリストを直近六ヶ月分引き出した。出港地。経由地。到着港。積載量。船籍。


二百四十七隻。フィルタをかけた。バンダレアッバース出港。日本着。六ヶ月。二十三隻。AISデータで「航路逸脱」のあった船舶を照合した。三隻が残った。


三隻のうち一隻の目的港が「横浜」だった。


横浜港。南本牧ふ頭CT。日本最大級の水深コンテナバースだ。


柏木はモニターの横に立てかけてあるピッケル山のプリントを見た。A4一枚。白黒。山腹のトンネル入口。もう何ヶ月もそこにある。


コーエンの名刺はジャケットの内ポケットにある。裏の手書きの番号。


「別の経路」——コーエンの言葉が、航路データの上で意味を持ち始めていた。


久保田の指摘も正しい。モサドの情報操作の可能性。横浜行きのコンテナ船がオマーン沖で停泊した事実は、それだけでは何も証明しない。


何も証明しない。だが三つの旗が立っている。


午後九時。フロアの蛍光灯が一列消えた。タイマー制御の自動減灯。


北朝鮮担当の後藤はもう帰っていた。残っているのは柏木だけだった。


コンビニで買ってきたおにぎりを食べた。梅干し。レジ横のポップが目に入った後になって、文字の内容が頭に入ってきた。「ホルムズ海峡の緊張継続に伴い、燃料サーチャージを改定いたします」。おにぎりを一口かじって、そのまま手を止めた。


端末に向き直った。


横浜行きのコンテナ船。パナマ船籍。運航会社はドバイ登記のペーパーカンパニー。特に異常はない。


マクサーの衛星アーカイブに戻った。この船がオマーン沖で停泊していた日の画像を拡大した。解像度三十センチ級。甲板が見える。


出港時と停泊後で、船首側のコンテナの色が変わっていた。赤から青。洋上で載せ替えられている。コンテナ一つ。二十フィート。


トランシップ——洋上での直接積み替えは、制裁対象国が荷主を偽装する常套手段だ。イランの石油密輸でも使われている。それだけなら珍しくない。


だが目的港が横浜だった。


新しいフォルダを作った。「バンダレアッバース追跡」。六ヶ月分の航路データと衛星画像を整理して入れた。


横浜行きのコンテナ船のファイルには、赤い旗のアイコンを付けた。


デスクライトの光が画面に反射していた。午後十一時。ビルの外は静かだった。霞が関の冬の夜。


柏木はピッケル山のプリントを手に取った。四つ折りにして鞄に入れた。


もう一度画面を見た。「バンダレアッバース追跡」のフォルダ。コンテナ船のリスト。横浜。


柏木は端末をスリープにしなかった。画面を開いたまま、椅子の背に体を預けた。


天井の蛍光灯は消えている。デスクライトだけが手元を照らしていた。


久保田の言葉が残っていた。「あのとき上げていたらどうなっていたか、は考えることがある」。


柏木もまた、考えることになるだろう。この画面を閉じて帰った後の夜に。


だが今夜は、まだ閉じない。

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