第十四章 セヴォミーン・ダラフシャーン
三月。テヘラン。
朝、サンガクを焼く匂いでアパートの階段が煙っていた。一階のナーンヴァーイーが毎朝六時に窯に火を入れる。赴任した年は、この匂いで目が覚めた。今は目覚ましが三回鳴る。
サンガクを一枚買った。部屋に戻って半分にちぎった。フェタチーズを載せた。
半分で手が止まった。残りをキッチンペーパーに包んで冷蔵庫に入れた。昨日の半分がまだそこにあった。
洗面台に立った。剃刀を右手に持った。鏡は見なかった。顎の輪郭を左手で確認しながら刃を当てる。いつからそうなったのか分からない。
手が震えた。〇・三秒。再開した。剃り終えた。
タオルで顔を拭いた。鏡にちらりと目が行った。頬骨が出ている。ベルトの穴を先月ひとつ詰めた。その前の月にもひとつ。
オフィスへの通勤ルートにIRGCの検問が増えていた。バスのダイヤは一月から乱れたままだった。
夕方、アパートの廊下でファーティマ・ハーヌムと鉢合わせた。
「サトルさん。しばらくは夜遅くに外出しないほうがいい。バスィージがまだうろついている。外国人も安全じゃない」
「分かりました。ありがとうございます」
ファーティマ・ハーヌムは何かを言いかけて、言わなかった。部屋に入った。ドアが閉まった。
四年間、月に二度、スープを届けてくれる人だ。その人が声を落として廊下で話した。
◇
三月十一日。
暗号化アプリが振動した。
『至急。今日中に安全な場所で通話できるか。テキストでは伝えきれない。』
エリが通話を求めるのは初めてだった。
『十三時。メッラト公園。第二駐車場の東側。』
◇
昼休みにオフィスを出た。Snappは使わなかった。尾行下で配車履歴を残すのは避けたい。ヴァリーアスル通りで流しのタクシーを拾った。
メッラト公園の北門で降りた。園内を歩いた。ノウルーズを控えた公園に家族連れが多い。子供が芝生を走り回っている。
尾行者を確認するために二度立ち止まった。一度目は屋台でザクロジュースを買うふりをした。二度目はベンチに座って靴紐を結び直した。
第二駐車場の東側。木陰のベンチに座った。暗号化通話アプリを起動した。
三コールで繋がった。
「聞こえるか」
「聞こえる」
「作戦コード『第三の閃光』。セヴォミーン・ダラフシャーン。IRGC最高軍事顧問会議が承認した秘密作戦だ。別のソースが断片を掴んだ」
「内容は」
「核攻撃だ」
公園の芝生の上を風が渡った。
「空爆の前にIRGCが濃縮ウランを移送していた。六十パーセント、十二キロ以上。別の施設で弾頭を組み立てた」
「ピッケル山か」
「お前が送ったデータがそれを裏付けている。トンネルの規模と深度。遠心分離機ではなく弾頭の組み立てと保管に適した構造だ」
ピッケル山のトンネル。九月に撮った写真。あのデータがこの結論に繋がる。
「弾頭は完成しているのか」
「高い確率で。少なくとも一発」
「標的は」
沈黙が三秒あった。
「特定できていない。運搬手段は通信傍受と衛星分析から、コンテナ船を使う可能性が高い」
「ミサイルではないのか」
「イランの弾道ミサイルは最大射程二千キロ。イスラエルには届く。だが初の核装置だ。重い。小型化には核実験が要る。一発しかないなら迎撃されたら終わりだ」
コンテナ船。商用航路に紛れた核弾頭。港に直接入港すれば、ミサイル防衛では迎撃できない。
「起爆方式はリモート信号式と推定している。衛星経由の暗号化信号。船員は積荷の正体を知らない」
一方向の信号。起爆だけ。中止信号は存在しない。
「標的の特定を急ぐ。通話を切る。動くな」
通話が切れた。
携帯をポケットに入れた。
公園で子供が風船を手放した。赤い風船が空に上がっていく。母親が別の風船を買いに行った。
◇
四月。
通勤のタクシーの中。ヴァリーアスル通りの渋滞で車が止まった。
エリからの返信は三週間、「標的の特定に全力を注いでいる」の一行だけだった。
ならば自分で考える。
膝の上のノートを開いた。
FMEA。プラントのどのバルブが壊れるかを予測する手法だ。故障の確率と影響度を掛けて、リスク順に並べる。除外するのではなく、重みを付ける。
便益×成立性÷報復リスク。
コンテナ船という運搬手段が答えを制約している。ミサイルなら射程が標的を限定する。コンテナ船は地球上のどの港にも着ける。だが標的の選定には合理性がある。
イスラエル。核保有国。即時報復の蓋然性が最大。便益が高くても分母が大きすぎる。
米本土。報復確率はほぼ一。
NATO加盟国。条約第五条。自動参戦ではないが蓋然性は高い。
サウジアラビア。中東全域が敵に回る。便益に対して政治コストが上回る。
インド。核保有国。
いずれも分母が大きい。
残るのはNATO域外の同盟国で、コンテナ船の東方航路上にある国。
タクシーの窓の外をプラタナスの若葉が流れた。
韓国。在韓米軍二万八千人。攻撃は米軍への攻撃と見なされる。
オーストラリア。主要港湾が分散している。単一港の被害では戦略的効果が薄い。
日本。
指が止まった。
核兵器を持たない。ミサイル防衛はイージス艦のSM-3と地上のPAC-3。だがコンテナ船は弾道ミサイルではない。港に入る商船を迎撃する仕組みは、どの国にもない。
日米安保条約第五条。「共通の危険に対処するように行動する」。核報復を約束してはいない。東京が消えたとき、ワシントンがテヘランに核を撃つか。
日本が核攻撃を受けて米国が報復しなければ、核の傘は終わる。NPTは崩壊する。戦後秩序を一発で終わらせる楔。
広島、長崎。三度目の核攻撃。
便益×成立性÷報復リスク。スコアが最も高い国が一つだけある。
運転手がバックミラー越しに悟を見た。「モハンデス、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「大丈夫です」
声が自分のものに聞こえなかった。
ノートを閉じた。膝の上に手を置いた。指先の感覚がない。右手で左手を握った。
自分の祖国に、コンテナ船が向かっている。
タクシーが動き出した。
◇
オフィスに着いた。昼休みに暗号化アプリを開いた。
『標的は日本だ。便益と報復リスクの比で最も高い。非核保有。MDが港湾攻撃に無力。拡大抑止は条文上の保証なし。他の候補はいずれも報復リスクが上回る。』
返信まで四十秒。エリにしては長い。
『根拠は。』
FMEA分析の要約を送った。
一分。
『テルアビブの分析と一致している。』
それだけだった。
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