第十三章 三十三橋
水の音がしなかった。
スィーオセ・ポル——三十三のアーチが連なるサファヴィー朝の橋。四百年前、ここには川が流れていた。今はひび割れた泥の河床が、アーチの額縁に三十三回繰り返されているだけだ。
UCFの追加点検を終えた三月の午後、レイラに誘われてここに来た。
橋の東側の階段を下りた。掌を壁に当てた。煉瓦が掌に冷たい。四百年分の風雨で角が落ち、指に砂岩の粒子が残った。アーチの回廊に入ると、外の乾いた空気とは別の湿度があった。石が記憶している水の気配。
足元の石畳がわずかに傾いている。河床に向かって。摩耗した石の元の角度は——
「もう三年枯れている」レイラが言った。
橋の下を歩いた。
「ザーヤンデ・ルードが枯れたのは、干ばつだけが原因じゃない」
レイラの声が低くなった。
「上流でダムを建てて、水をヤズドに引いた。灌漑用水を工業に回した。この街の水は盗まれた」
「農民たちがデモをした。この河床に何万人も集まった。翌日、治安部隊が来た」
乾いた河床の向こうに、対岸の建物のシルエットが夕方の光に浮いている。
「この国は乾いていく」
声が静かだった。
「水も。自由も」
悟は何も言わなかった。
◇
橋を渡り切った。チャハール・バーグ通りを南に歩いた。
「ハシュト・ベヘシュトに行きましょう」
門をくぐると空気が変わった。糸杉が並んでいる。長方形の池に水が張られている。ここには水がある。池の水面に糸杉のシルエットが映っていた。
ベンチに座った。
「痩せた?」
レイラが横顔を見ていた。
「少し」
「ファルハドのこと?」
悟は池の水面を見た。
「裁判が来月に決まったの。革命裁判所。非公開。弁護人の選任は事実上、許可されていない」
「……そうですか」
「そうですか、じゃないでしょう」
レイラの声が低くなった。
「あなたはファルハドの友人でしょう。家に行った。子供たちと遊んだ。ナスリーンの料理を食べた」
悟は何も言えなかった。十二月にサーメドの声を聞いた。パパ、いつ帰る。テーブルの端を叩く小さなリズム。
「何もできることがないんです」
「何もしないの」
「関係者に接触すれば、その人も危険にさらされる」
レイラは黙った。
沈黙が落ちた。池の水面が風で揺れた。
「子供の頃、父がよくここに連れてきた」
レイラが池を見ていた。
「物理学の教授だった。イスファハン大学。量子力学。三十年以上教壇に立った」
声が変わらなかった。事実を述べる声。だがレイラの手がベンチの端を握っていた。
「二〇〇九年。緑の運動のあと、署名用紙が回ってきた。選挙結果の再調査を求める嘆願書。父はそれに名前を書いた」
「署名しただけ。デモには行かなかった。街頭に出たわけでもない。紙に名前を書いた。それだけで」
ファルハドもそうだ。外国人の同僚を家に招いた。子供たちに卵焼きを作った。それだけで。
「最後の授業は量子力学だった。不確定性原理を講義していた。学生たちが泣いていたそうです。解雇の通知が来ていると、誰かが聞いていたから」
レイラの指がベンチの木目をなぞった。
「父は講義を最後まで終えた。板書を消して、チョークを講壇に置いて、教室を出た。翌日から大学に入れなかった」
糸杉の影がベンチまで伸びてきた。
「フランスに送り出してくれたのは父です。寝る前に部屋に来て、切符と受け入れ書類と封筒に入った現金をテーブルに置いた。一言だけ。『この国にいたら、お前も潰される』」
声が途切れなかった。
「あの現金をどうやって集めたのか、聞けなかった。聞いてしまったら、受け取れなくなる」
レイラが池の縁まで歩いた。靴の先が水に近い。
「父を守るために会わない。父を追放した体制の中で、私は働いている。この国の核を管理している組織の中で」
声が静かだった。怒りの温度が一定だった。何年もかけて均質になった怒り。
悟はレイラの横に立った。
「お父さんの量子力学の講義を、聞いてみたかった」
レイラが悟を見た。目が光っていた。泣いてはいなかった。
「退屈だったらしい。学生の評判は最悪」
微かに笑った。すぐに消えた。
ベンチに戻った。並んで座った。レイラの小指が動いた。悟の指に触れた。
体温。乾いた指先。
悟は手を引いた。
レイラは何も言わなかった。手を膝の上に戻した。
◇
庭園を出た。車に乗った。レイラが運転した。ホテルまでの道。沈黙。ラジオも点けなかった。
ホテルの前で車を停めた。
「おやすみなさい、遠山さん」
遠山さん。悟さん、ではなかった。
「おやすみなさい」
車のドアを閉めた。ロガンが走り去った。テールランプが角を曲がって消えた。
部屋に入った。ベッドの端に座った。
レイラの指先の感触が残っていた。
引いた手の甲に、まだ体温がある。
感想や評価をいただけると励みになります。
気に入っていただけたらよろしくお願いします。




