第十章 反転
十月二十二日。水曜日。テヘラン。
イスファハンから戻って二週間。日常に戻った。オフィスで耐震レポートを書き、午後はブーシェフルとのオンライン会議に出て、夕方にSnappでアパートに戻った。
暗号化アプリの最後のメッセージは十月十日だった。エリからの「受領確認」の一行。ピッケル山の追加分析。トンネルの推定深度。それきり沈黙。
テーブルの上のノートPCでBBCペルシャ語のニュースを開いた。
三段目の記事で手が止まった。
『IRGC報道官、ナタンツ周辺での「未確認航空活動」に言及。「敵対的偵察を確認し、適切な対応を取った」と声明。』
記事は短い。六行。具体的な偵察の手段——無人機か、有人機か、衛星か——には触れていない。「適切な対応」の内容も不明。
だが悟には分かった。
ピッケル山。
悟が送った座標データ。トンネルの掘削方向。推定深度。イスラエルはそのデータに基づいて追加の偵察を実施した。おそらく無人機だろう。高高度でもレーダーには映る。
イランの防空網が探知した。
悟が集めた防空データには死角がマッピングされていた。イスラエルは死角を通過させようとしたはずだ。だがイランは空爆後に防空網を再編している。死角が変わった。あるいは新しいレーダーが配備された。
携帯を取った。暗号化アプリを開いた。メッセージを打とうとした。
打たなかった。
エリからの指示は「次の指示を待て」だった。悟が勝手に動く局面ではない。
ノートPCの画面に目を戻した。記事を再読した。「ナタンツ周辺」。周辺。ピッケル山はナタンツの南一・六キロだ。
記事の下にIRGCの報道官の写真が掲載されている。迷彩服に革のベルト。背景にイランの国旗。
画面を閉じた。
冷蔵庫を開けた。ドゥーグを取った。蓋を開けた。飲まなかった。テーブルに置いた。
窓の外。テヘランの夜景。渋滞のテールランプが赤い線になっている。遠くにミーラード・タワーのシルエット。
◇
十一月に入った。
テヘランの朝が冷え込み始めた。オフィスの暖房が入った。乾燥が悪化し、喉がヒリつく。
暗号化アプリは沈黙したままだった。エリからの連絡がない。十月十日の「受領確認」以降、一通もない。
異常だった。これまでエリは二週間以上沈黙したことがない。月に二回は連絡があった。指示か、確認か、少なくとも「問題なし」の一行。
十一月三日。月曜日。
朝、オフィスでメールを開いた。東京本社からの定例報告依頼。ブーシェフルの工程管理データ。イスファハンの追加点検報告書の提出期限確認。
午前十時、同僚のレザーがオフィスに来た。
「聞いたか、モハンデス」
「何を」
「イスファハンの核技術センターの物理学者が先週逮捕されたらしい」
手が止まった。キーボードの上で。
「誰」
「名前は分からない。イスファハン大学の関係者だという話だ。VAJAが家に来たらしい」
悟はモニターの文字を見た。文字が読めなかった。
「スパイ容疑か何からしい。外国人との不適切な接触だとか」
レザーはゴシップの口調だった。核施設で働く人間にとって、逮捕は珍しいことではない。
「大変だな」悟は言った。
「関係ない方がいい。核の連中に近づくと面倒だ」
レザーは自分のデスクに戻った。
悟はモニターを見た。ブーシェフルの工程表が表示されている。数字の列。読めなかった。
トイレに立った。個室に入った。鍵をかけた。
携帯を出した。WhatsAppを開いた。ファルハドのチャット。最後のメッセージは十月五日。イスファハン訪問の翌日。
「モハンデス、昨日はありがとう。サーメドがまだイタダキマスイタダキマスって言ってるぞ」
その後、ファルハドからのメッセージはなかった。悟も送っていなかった。
ファルハドに電話した。
呼び出し音が鳴った。五回。六回。七回。
繋がらなかった。
切った。
もう一度かけた。
電源が入っていません。
携帯をポケットに戻した。
個室の壁を見た。白いタイル。目地のセメントが黄色く変色している。
ファルハドは無実だ。外国人との不適切な接触——それは悟のことだ。食卓を囲んだ。「いただきます」を教えた。それだけのことで逮捕される。
空爆以降、核施設関係者への監視は強化されていた。ファルハドは外国人と交友のある技術者だ。
トイレの水を流した。個室を出た。手を洗った。鏡を見た。顔色は変わっていなかった。
デスクに戻った。ブーシェフルの工程表を開いた。
数字が並んでいる。工程番号、所要日数、クリティカルパスの余裕日数。いつもなら三秒で読み取れるガントチャートが、ただの色の帯にしか見えなかった。
午前十一時の打ち合わせに出た。ブーシェフル南棟の配筋検査の報告。スライドが切り替わる。同僚が話している。悟は頷いた。何に頷いたのかは分からなかった。
席に戻ってコーヒーを淹れた。紙コップを持つ指に力が入りすぎて、縁が潰れた。コーヒーが親指にかかった。熱かった。ペーパータオルで拭いた。
午後、レポートの続きを書いた。鉄筋コンクリートの許容応力度を計算する。数式を入力した。同じ数値を二度入力した。消して、もう一度入力した。合っているはずだ。検算した。合っていた。次の行に進めなかった。
隣のデスクのレザーが電話で笑っている。廊下を誰かが歩いている。エアコンの音。キーボードを叩く音。オフィスの日常が、薄い膜一枚の向こう側で動いている。
五時にPCを閉じた。画面が暗転し、自分の顔が映った。目を逸らした。
◇
夕方、アパートに戻った。
暗号化アプリを開いた。エリにメッセージを打った。
『ファルハド・Aが逮捕された。核施設の物理学者。私の知人。VAJAによるスパイ容疑。彼は無実だ。報告する。』
送信した。
三十分後、返信が来た。
『承知。動くな。ルーティンを変えるな。接触を一切断て。電話するな。メッセージを送るな。お前は技術者だ。それ以外の何者でもない。分かったか。』
分かった。
返信を打った。
『彼を助ける方法はないのか。』
送信した。
五分待った。十分待った。返信は来なかった。
マリヤムの声が聞こえた気がした。イタキマス。
もう一度打った。
『了解。』
送信ボタンを押した。指が一瞬止まったのは——いつものことだ。いつものことだった。
送信した。
携帯をテーブルに伏せた。
冷蔵庫を開けた。ドゥーグを出した。蓋を開けた。飲んだ。ぬるかった。
テレビを点けた。IRIBのニュース。画面にIRGCの報道官が映っている。別の話題だった。
チャンネルを変えた。
変えた先で、ファルハドの顔が映った。
映像は粗かった。照明が白い。背景は灰色の壁。ファルハドが椅子に座っている。メガネをかけていない。目の周りが黒ずんでいる。服は私服ではなく灰色の上下。
テロップ。「核施設関係者のスパイ容疑者が自白」。
ファルハドが話し始めた。声は平坦だった。カメラを見ていない。左下を見ている。
「私は外国の情報機関に核施設の情報を提供しました」
声が震えていなかった。震えていないことが、震えているよりも恐ろしかった。
「私の行為はイラン・イスラム共和国への裏切りであり——」
テレビを消した。
リモコンをテーブルに置いた。リモコンの位置を直した。テーブルの端と平行になるように。
椅子に座ったまま動かなかった。
ファルハドは自白していない。あれはVAJAかIRGCが書いた台本を、何日かの尋問の末に読まされている声だ。
ファルハドは無実だ。世界中で、悟だけがそれを知っている。
そして悟は何もできない。電話一本かけられない。
椅子から立ち上がった。窓に歩いた。カーテンを開けた。テヘランの夜。
雲の夜だった。
ベランダに出た。十一月の夜気が頬を刺した。
ファルハドの家で食卓を囲んだ。子供たちに卵焼きを作った。そして、そのファルハドが今、エヴィンの独房にいる。
悟のせいだ。
ベランダの手摺を掴んだ。鉄の手摺が冷たかった。
「すまない」
声に出した。テヘランの夜に向かって。誰にも聞こえない声で。
◇
翌朝。
アラームで起きた。キッチンに入った。
やかんを火にかけた。チャーイの道具を出した。エステカンを二つ取り出した——止まった。
一つを棚に戻した。
チャーイを一杯分だけ淹れた。テーブルに運んだ。一人分。
ファルハドとチャーイを飲んだのは何回だろう。UCFの食堂で。あの家で。ファルハドは必ず角砂糖を三つ入れた。悟が「多すぎる」と言うたびに「お前は味が分かっていない」と言い返した。
エステカンが一つだけ、テーブルにある。
朝食をとる気になれなかった。チャーイだけ飲んだ。
◇
オフィスに着いた。
廊下を通り過ぎたとき、視界の端がファルハドの席を捉えた——違う。ファルハドのオフィスはイスファハンだ。ここはテヘランだ。
デスクに座った。メールを開いた。文字を読んだ。意味が入ってこなかった。
昼にコーヒーを買いに行った。自販機の前に立って、ボタンを押す前に気づいた。二杯分の金額が手にあった。一杯分を戻した。
ポケットの中に釣り銭が残った。使わなかった一枚のコインが、ポケットの底で転がった。
◇
三日後。
昼休みに外に出た。コンビニの前で止まった。ガズを買いそうになった。ファルハドに土産として買っていたものだ。棚の前で手が止まった。そのまま戻った。
アパートに戻ると、玄関で携帯を確認するのが癖になっていた。ファルハドからのWhatsAppを確認するために。
あの画面を開けなかった。電源が入っていません、という文字が出るのが。
携帯はポケットに戻した。
窓の外に夜のテヘランがある。ファルハドがいるはずのイスファハンは、南に四百五十キロ。
電気を消した。
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