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フォルドウ  作者: お寿司


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第九章 遠隔

十月。三度目のイスファハン。


UCF(ウラン変換施設)復旧評価のフォローアップ。前回指摘した構造箇所の改修確認。定期業務だった。


管理棟の会議室で午前の打ち合わせを終えた。廊下でレイラとすれ違った。


「悟さん。北棟の鉄筋腐食率、やっぱり合わないの。午後に確認してもらえる?」


足が止まった。


遠山さん、ではなかった。


レイラは書類を差し出している。名前を切り替えたことに意識がない。自然に出た呼び方だった。


悟。本名だ。名前だけが本物で、それ以外の全てが嘘だ。


「午後に見ます」


ファイルを受け取った。レイラは頷いて研究室に戻っていった。


 ◇


午後。ファルハドが管理棟に顔を出した。


モハンデス(技術者)、このあと空いてるか」

「レイラの書類を見終わったところだ」

「研究棟に来い。面白いものがある」


UCF正門から北に五百メートル。外周フェンスの外側に三階建てのコンクリートの建物。外壁のペンキが剥がれかけている。入口にAEOI(イラン原子力庁)のロゴと「応用物理研究棟」の表示。


受付で入館手続きをした。ファルハドが身分証を出し、悟のパスポートのコピーを渡した。VISITORカードを首から下げた。


二階の廊下。蛍光灯が一本切れている。


奥から靴音が近づいてきた。ファルハドが話を止めた。


IRGC(革命防衛隊)制服の男が二人、廊下を歩いてくる。ファルハドは扉の前で動かなかった。二人が通り過ぎるまで無言だった。


靴音が遠ざかった。


「こっちだ」


声のトーンは変わらなかった。


 ◇


研究室は八畳ほどの部屋だった。窓が一つ。デスクが二台。壁の本棚に物理の教科書が並んでいる。ペルシャ語と英語が混在。ファインマンの講義録の背表紙が割れている。


壁際の棚にローターの断面模型が置いてあった。アルミ合金のシリンダー。長さ五十センチ。四分の一が切り取られて内部構造が見える。バッフルプレートが三段。教育用のカットモデルだ。


ファルハドが棚から取り出した。


「IR-1型。退役した旧型だから見せても問題ない」


手に取った。アルミの表面に鈍い光沢。旋盤痕が等間隔に入っている。


「これが回るのか」

「毎分五万回転。音速の二倍だ」


ファルハドがバッフルプレートを指で叩いた。


「ここでガスの流れを制御する。外壁に近い側にU-238。中心に近い側にU-235。質量差は一パーセント。その一パーセントを、回転の力で振り分ける」


ファルハドの声が変わった。講義をするときの声だ。目の焦点が遠くなる。相手が学生でも外国人エンジニアでも関係ない。物理の話をしている瞬間のファルハドは、ファルハドだった。


「カスケードホールに立つと、ローターが全部同時に回っている音が聞こえる。蜂の巣の中にいるみたいな音だ。最初は不快だが——」


間を置いた。


「慣れると、美しい」


「回転するローターの中で同位体が分かれていく。目には見えない。質量のわずかな差で、運命が分かれる」


顔を上げた。


「詩的だろう?」


悟は何も言わなかった。


三・七パーセントなら燃料。九十パーセントなら兵器。物理は同じだ。


ファルハドがカットモデルを棚に戻し、デスクのポスターを指した。カスケードの模式図。直列と並列の組み合わせ。


IR-6。カーボンファイバー複合材ローター。毎分六万回転。分離係数は五を超える。並列三系統。各系統三段直列。一段目八台、二段目六台、三段目四台。


数字が頭に入った。


ファルハドがノートを閉じた。


「ところでモハンデス、今夜は空いてるか」

「特に予定はないが」

「うちに来い。妻がゲイメを仕込んでる。日本の卵焼きを教わりたいらしい」


 ◇


イスファハン市街の南西部。ザーヤンデ川の南側。サーデギーイェ地区の二階建ての家。古いレンガの外壁。鉄柵の門扉に蔦が絡まっている。


門の前に立った。手にはテヘランの菓子店で買ったガズの箱。イスファハンの名物をテヘランの店で買う矛盾は承知している。手ぶらで他人の家を訪ねるわけにはいかない。


チャイムを押した。足音。ドアが開いた。


ファルハドが立っている。家ではメガネをかけていない。目の周りに薄い跡が残っている。


「モハンデス、入れ入れ」

「お邪魔します」

「ナーズ・ナコン。遠慮するな」


靴を脱いだ。玄関のタイルは古い幾何学模様。一部が欠けている。廊下の壁にエマーム広場の水彩画。奥からターメリックと揚げた茄子の油の匂い。


リビングに通された。ペルシャ絨毯が床一面に敷かれている。赤とネイビーのメダリオン柄。壁沿いにクッション。中央にテーブルと椅子。テレビが映っている。IRIBのニュース。ナスリーンの手がリモコンに伸びた。音もなくチャンネルが変わった。


子供の足音。五歳の男の子がリビングに走り込んできた。


ファルハドが息子の頭に手を置いた。「サトルおじさんだ。パパの友達。日本から来たエンジニアだぞ」


サーメドが悟を見上げた。大きな目。父親に似た丸い顔。


「日本にはポケモンがいるの?」

「アニメの中にだけいる」


サーメドは少し考えて「ふうん」と言った。


三歳のマリヤムが廊下から覗いている。悟と目が合うと引っ込んだ。


ナスリーンが出てきた。黒い髪を後ろで束ねている。


「サトルさん、いらっしゃい。ファルハドからいつも聞いてます」


ガズの箱を渡した。ファルハドが「持ってこなくてよかったのに」と言いながら受け取り、すぐに箱を開けてサーメドに一つ渡した。


 ◇


「卵焼きを教えてくれるんでしょう?」ナスリーンがキッチンに悟を招いた。


キッチンに立った。台が低い。蛇口から水が一滴、間隔をおいて落ちている。パッキンの劣化。


ナスリーンが卵とフライパンを出した。フライパンは丸い。卵焼き器はない。


「四角いフライパンで巻くのが本来のやり方です」

「四角い?」ナスリーンが不思議そうな顔をした。

「丸でもやれます」


卵を三つ割った。砂糖を小さじ一杯。醤油はない。塩で代用する。水を少々。


ファルハドが横に立った。腕を組んでいる。


「俺にもやらせろ」

「いいですよ。まず卵液を薄く流してください」


ファルハドがフライパンに卵液を注いだ。半分以上が一度に流れ込んだ。


「薄く、です」

「これは薄いだろう」

「二ミリぐらいが理想です」

「モハンデス、うちのフライパンにそんな精度はない」


ナスリーンが笑った。キッチンの入口にサーメドがしゃがんで覗き込んでいる。


悟がヘラを取り、端から巻こうとした。卵が途中で千切れた。丸いフライパンの呪い。


ファルハドが再挑戦した。ヘラで端を持ち上げようとしたが、卵がフライパンの底に張りついた。油が足りない。さらに崩した。スクランブルエッグになった。


サーメドがフライパンを覗き込んだ。


「パパ、それ卵焼きじゃないよ」

「これは……日本式のスクランブルエッグだ」

「嘘だ」


ナスリーンが肩を揺らしている。マリヤムが母親の後ろからキッチンに入ってきた。笑い声に釣られたらしい。


悟はもう三つ卵を割った。今度は自分で最初から巻いた。油を多めに敷き、卵液を三回に分けて流し、一回ごとに端から巻いた。楕円に近いが、層になっている。


切り分けて皿に盛った。塩味の出汁巻き風。本来の味には程遠い。


ファルハドのスクランブルエッグも別皿に盛った。「これはこれで悪くない」とファルハドが言った。


 ◇


夕食。テーブルに料理が並んだ。


ナスリーンのゲイメ・バーデムジャーン。ラムのひき肉と茄子のシチュー。サフランライスの大皿。タフディーグが黄金色のディスクになって別皿に盛られている。


「日本では食事の前に挨拶をするんです」


サーメドが顔を上げた。


「何て言うの?」

「いただきます。食事をくれた人と、食材への感謝だ」


サーメドが繰り返した。「イタダキマス!」


マリヤムが小さな声で真似した。「イタキマス」


「マリヤム、違うよ。イ・タ・ダ・キ・マ・ス。『ダ』がある」

「イタキマス」

「『ダ』!」

「イタキマス」


サーメドがファルハドに助けを求める目を向けた。ファルハドは首を振った。「いいじゃないか。イタキマスで」


マリヤムはもうスプリットピーを食べ始めていた。


ナスリーンがゲイメの鍋を運ぶとき、鍋敷きを忘れた。ファルハドが雑誌を一冊テーブルに滑らせ、その上に鍋が置かれた。何も言わなかった。何年も繰り返してきた動作だ。


悟はタフディーグを一切れ取った。パリッという音。サフランの色がバターの油膜の上で滲んでいる。


マリヤムが茄子を避けてスプリットピーだけ食べている。ファルハドがマリヤムの皿に茄子を戻した。マリヤムが無言で皿の端に寄せた。ファルハドがもう一度茄子を中央に戻した。マリヤムがスプーンの背で茄子を皿の外に押し出そうとした。ナスリーンが「マリヤム」と言った。マリヤムは茄子をじっと見つめ、スプリットピーと一緒にスプーンに載せて口に入れた。顔が歪んだ。


ファルハドが悟に目配せした。勝利の顔。


「サトルさん、日本でもこういう煮込み料理を食べますか」ナスリーンが聞いた。

「肉じゃが、という料理があります。牛肉とじゃがいもを醤油で煮たもの」

「今度作り方を教えてね」


テーブルの皿が空になっていく。ナスリーンが紅茶を淹れに立った。子供たちがテレビの前に移動した。サーメドがリモコンを取り、マリヤムがそれを奪い、三往復してからサーメドが譲った。


「モハンデス」ファルハドがチャーイを注ぎながら言った。「叔父さんが退院した」

「そうか」

「肺はまだ完全じゃない。階段を上ると息が切れるらしい。でも家に帰れた」


悟はチャーイのグラスに目を落とした。


「良かった」


声が平坦だった。


 ◇


十時過ぎに辞去した。ファルハドが門の外まで見送った。


「モハンデス」

「何だ」

「また来いよ。サーメドが日本語を覚えたがってる」


門が閉まった。


イスファハンの夜の空気。乾いている。どこかの家からテレビの音。


少し歩いた。


背後でエンジンがかかった。振り返った。通りの奥で車のテールランプが赤く灯り、ゆっくり角を曲がって消えた。住宅街の午後十時。帰宅する誰かだろう。


カットモデルのアルミの冷たさが、まだ掌にあった。IR-6。カーボンファイバー複合材。毎分六万回転。分離係数五以上。並列三系統。各三段直列。


メモは取らなかった。取る必要がなかった。忘れようとしても消えない種類の数字だ。


タクシーを呼んだ。ホテルに戻った。

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