第45話「氷牙の咆哮」
闇の中の赤い光は、瞬きもせず、じっとこちらを見つめていた。
「……あれは」リリアが息を殺して呟いた。「魔物の目です。それも、一頭や二頭じゃない」
コウジが目を凝らすと、茂みの奥、雪原の稜線に沿って、赤い光が次々と灯っていくのが見えた。十、いや二十はくだらない。
「氷牙狼の群れか……!」
ユキヒョウ族の戦士が、恐怖に顔を歪めながら呻いた。「まずい……氷牙狼は、血と、殺気に引き寄せられる。討伐隊と村の睨み合いが、奴らを呼んでしまった……!」
コウジの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。氷原の陣営と村の間には、今も一触即発の緊張が漂っている。そこに、獰猛な魔物の群れが突っ込んでくれば――どちらの陣営も、無事では済まない。
「ピピ!」
コウジが振り返ると、ピピはすでに懐から笛を取り出していた。彼女の目に迷いはない。声帯こそ本調子ではないが、笛ならば話は別だ。
「奴らを引きつけられるか」
ピピは力強く頷き、笛を口元へ運んだ。
その時――
雪原の向こうで、指揮官と対峙していたグレイスが、同じ気配を察知したのか、はっと空を仰いだ。
「全軍、警戒! 氷牙狼だ!」
グレイスの咆哮のような警告が響き渡るのとほぼ同時に、闇の中の赤い光が、一斉に地を蹴った。
雪煙を巻き上げながら、白銀の毛並みに覆われた巨大な狼の群れが、陣営と村の間の緩衝地帯へとなだれ込んでくる。牙は氷のように鋭く、唸り声は骨の髄まで凍りつかせるようだった。
「くそ……! 隊列を組め、囲まれるな!」
討伐隊の指揮官が叫ぶ。だが、統率の取れていない布陣は、瞬く間に乱された。ドワーフギルドの兵たちが、雪原の各所で狼と切り結び始める。
「村を守れ! 前へ出るな、後方の子供たちを下がらせろ!」
グレイスもまた、自らの部族を守るために動いていた。敵味方の区別なく、氷牙狼の牙は等しく襲いかかってくる。
「今だ――ピピ!」
コウジの合図で、ピピが笛を吹き鳴らした。高く澄んだ音色が、凍てついた夜air を切り裂いて響き渡る。それは獣を呼ぶ旋律ではなく、獣の意識を惑わせ、翻弄するための調べだった。
狼の群れの何頭かが、明らかに動きを乱し、コウジたちのいる高台とは逆方向――誰もいない雪原の奥へと引き寄せられていく。
「よし、効いている!」
「まだ全部ではありません」リリアが、残った魔力を振り絞るように呪文を唱え始めた。「せめて――村の方角だけでも」
コウジはその隙に、腰の道具袋から、いつも持ち歩いている革細工用のナイフと、頑丈な革紐を取り出した。武器としては心もとないが、彼の手にかかれば、どんな道具も無意味ではない。
高台を駆け下り、混戦の中へと飛び込む。
「グレイス殿を援護する!」
コウジは、一頭の氷牙狼が背後から迫っていたユキヒョウ族の若い戦士を助けるべく、革紐を鞭のようにしならせ、狼の脚に絡ませた。体勢を崩した狼の隙をついて、戦士が反撃する。
「コウジ殿――! なぜここに!」
驚くグレイスに、コウジは短く答えた。「お前を助けに来た。話はあとだ、今は生き残ることに集中しろ!」
戦いは、しかし、思わぬ形で転機を迎えた。
討伐隊の指揮官が、一頭の大型の氷牙狼に組み付かれ、雪の中に倒れ込んだのだ。牙が首元に迫る、その刹那――
「離れろ!」
グレイスが、自ら盾となるようにして飛び込み、爪で狼の顔面を切り裂いた。指揮官は間一髪で救われる。
「な……なぜ、俺を……」指揮官が呆然と呟いた。「貴様らは、我々の敵ではないのか」
「敵か味方かなど、氷牙狼にとっては関係ない」グレイスは低く唸った。「それに――貴様にも、事情とやらがあるのだろう。命があってこそ、話もできる」
指揮官は、雪にまみれた顔で、しばらく言葉を失っていた。
戦いは、夜が明ける頃にようやく収まった。氷牙狼の群れは、ピピの旋律とリリアの結界に翻弄され、最終的には山の奥へと退いていった。死者こそ出なかったものの、双方に多くの負傷者が残された。
雪原に静寂が戻ったあと、コウジは指揮官の元へと歩み寄った。
「話してもらおうか。『事情』とやらを」
指揮官は、疲労と、何か別の感情の入り混じった表情で、コウジを見上げた。そして、震える手で懐から、小さな魔力結晶――遠方通信用の魔導具を取り出した。
「……見ろ。これが、我々に命令を下している相手だ」
結晶に触れると、淡い光とともに、聞いたこともない声が響いた。低く、抑揚のない、どこか機械的な響きを持つ声だった。
『クリスタル・ドレイクの素材と、万族工房の技術――両方とも、手に入れるまで撤退は許さない。ドワーフギルドの名など、どうでもいい。必要なのは、成果だけだ』
コウジの目が、鋭く細まった。
その声には、聞き覚えがあった。ドワーフでも、エルフでも、この大陸のどの種族の響きでもない。もっと遠く、もっと異質な――まるで、この世界そのものに属していないかのような声。
「……お前は、誰の指示で動いている」
コウジが低く問いかけると、指揮官は雪の上に膝をつき、絞り出すように答えた。
「わからない……ただ、奴は、我々の家族を人質に取っている。逆らえば、家族がどうなるか……!」
その言葉に、コウジの脳裏に、一つの可能性が閃いた。ドワーフギルドの執拗な追跡も、この理不尽な包囲も、すべてはこの得体の知れない存在が、糸を引いていたのだとしたら――
氷原に、凍てついた朝の光が差し込み始めていた。だが、コウジの胸に広がる不穏な予感は、その光にも溶けることはなかった。




