第46話「無銘の手」
夜明けの光が雪原を薄紅色に染める頃、戦いの後始末が始まっていた。
負傷者は多かったが、幸いにも命を落とした者はいない。ユキヒョウ族の女性や子供たちが、討伐隊の負傷兵にまで毛布と薬草を配って回る様子を見て、指揮官――名をドルガンと名乗った男は、居心地悪そうに視線を逸らした。
「……本来なら、貴様らを攻める側だったというのに」
「昨夜、貴様は俺を庇った」グレイスが焚き火の前に腰を下ろしながら言った。「恩というのは、そうやって積み重なるものだ。難しく考えるな」
コウジは、二人のやり取りを横目に、リリアと共に例の通信用魔導具を検分していた。淡く発光する結晶の表面には、見たこともない刻印が施されている。ドワーフの技術体系にも、エルフの魔術体系にも属さない、異質な意匠だった。
「師匠、この紋様……」リリアが眉を寄せた。「古代文献のどこにも、記録がありません。ですが……」
「ですが?」
「かすかに、覚えがあるのです。どこかで見た気がする。まるで、この世界の理そのものから、少しだけずれた場所にあるような……そんな違和感です」
コウジの脳裏に、ふと自分自身のことが過ぎった。革職人だった前世から、不慮の事故でこの世界へと転生した自分。もしかすると、この紋様の主も――この世界の「外」に、何らかの形で通じている存在なのかもしれない。
「ドルガン」コウジは声をかけた。「お前の家族は、どこに囚われている」
ドルガンの表情が強張った。「……知ってどうする」
「助ける。当然だろう」
ドルガンは、コウジの迷いのない目を見て、しばらく黙り込んだあと、絞り出すように言った。
「東の国境、旧ドワーフ坑道の廃坑だ。あの声の主は、月に一度、監視用の使者を寄越してくる。逆らえば……その場で家族がどうなるか、想像もしたくない」
「廃坑の場所は、正確にわかるか」
「地図なら描ける。だが――」ドルガンは声を落とした。「あの廃坑は、万族工房からさほど遠くない。むしろ、貴様らの工房を見張るには、ちょうど良い位置にある」
その一言に、コウジの背筋が冷たくなった。
「……工房を、見張っているだと?」
「奴の目的は、クリスタル・ドレイクの素材と、貴様らの工房の技術だと言っていた」ドルガンは苦々しく続けた。「我々ドワーフギルドを使って貴様らを追わせ、疲弊させ、その隙に――工房そのものを奪うつもりなのかもしれん」
コウジの中で、点と点が繋がっていく。ギルドの執拗な追跡。氷原への報復。そして今、廃坑の位置。すべてが、万族工房という一点に収束していた。
「リリア、ピピ」コウジは立ち上がった。「予定変更だ。すぐに工房へ戻る」
「危険を承知の上での、工房襲撃……」リリアの顔が青ざめた。「間に合いますか」
「間に合わせる」
グレイスが、その決意を聞いて立ち上がった。「コウジ殿、我らユキヒョウ族の氷上橇隊を貸そう。雪原を突っ切れば、通常の三分の一の時で麓に着ける」
「恩に着る、グレイス」
「恩は、もう返した。これは、友としての助力だ」グレイスは牙を見せて笑った。
ドルガンもまた、覚悟を決めた顔で膝をついた。
「コウジ殿……いや、コウジ殿にお願いがある。もし、あの『無銘の手』とやらを止められるなら――我が家族を、どうか」
コウジは頷いた。「名も知らぬ相手に、大事な人間を握られたまま生きるのは、辛いだろうな。……俺たちが、その手を切り落としてやる」
* * *
氷上橇は、風を切り裂くようにして雪原を疾走した。ピピが風除けの旋律を口ずさみ、リリアが残り少ない魔力で橇の滑走を補助する。コウジは橇の先端に立ち、ただ前方を見据えていた。
――万族工房が、狙われている。
ボルドとケンタ、シルフィ、ギギ、テイル。自分が育て、共に歩んできた弟子たちが、今この瞬間も、何も知らずに炉の前で汗を流しているはずだった。
三日で戻る、と約束した日数は、あと半日を残すのみだった。
麓が見え始めた頃、コウジの懐で、リリアが持たせていた通信用の小さな魔力結晶が、不意に赤く点滅した。工房との緊急連絡用に、シルフィが糸で編み込んだ簡易の魔導具だ。
震える声が、結晶越しに届いた。
「師匠……! 師匠、聞こえますか……!」
シルフィの声だった。だが、いつもの明るさは欠片もなく、恐怖に掠れていた。
「シルフィ、どうした!」
「工房の周りに……見たこともない、黒い霧をまとった者たちが……! ボルドさんとケンタさんが、今、時間を稼いでくれていますが……!」
結晶の向こうで、何かが砕けるような音が響いた。
「シルフィ!」
コウジの叫びに、返事はなかった。ただ、通信の向こうから、微かに、聞き覚えのない、抑揚のない声だけが漏れ聞こえてきた。
『――万族工房。お前たちの技術、いただきに来た』
橇の速度が、限界まで上がった。氷原の白い大地が、猛烈な速さで後方へと流れていく。コウジの胸に、焼けつくような焦燥が満ちていった。
間に合え。
間に合ってくれ。
雪原の彼方に、ようやく見慣れた工房の煙突が、黒煙を上げているのが見えた。




