第44話「氷原への決断
工房の空気が凍りついたまま、誰も言葉を発せずにいた。
倒れ込んだユキヒョウ族の戦士は、荒い息のまま、震える声で続けた。
「討伐隊の数は、およそ五十。装備からして、ドワーフギルドの正規軍……その中には、硬質山脈で我々を退けようとした、あの追跡者たちの姿もありました。彼らは、村を包囲し、グレイス様に降伏と、コウジ殿たちの居場所の引き渡しを要求しています……」
「俺たちの、居場所……」コウジは奥歯を噛みしめた。「つまり、俺たちを庇ったことへの見せしめか」
「はい。応じなければ、明日の日の出とともに、村への攻撃を開始すると――」
その場に沈黙が落ちた。
風翼商会からの大型発注、ドワーフギルドの提訴、そして今、恩人の命の危機。三つの重荷が、同時にコウジの肩へとのしかかっていた。
最初に口を開いたのはボルドだった。
「師匠。迷う必要はないでしょう」低く、しかし力強い声だった。「グレイス殿たちがいなければ、我々は今頃、あの山脈で全員命を落としていた。恩は返す。それがドワーフの――いや、職人の筋というものだ」
「だが、北方遠征隊の発注は……」ケンタが不安げに口を挟んだ。「新月まで二十日しかありません。今、師匠が工房を離れたら……」
「離れなくていい」
コウジがきっぱりと言った。全員の視線が彼に集まる。
「ボルド、ケンタ。お前たちは、今日完成したばかりの裁断機を最大限に活かして、装備の生産を進めろ。設計図は俺の頭の中にある。リリア、お前は魔力式の記録を頼む。シルフィ、ギギ、テイルは素材の準備だ。……工房は、お前たちに任せる」
「師匠おひとりで、氷原へ?」シルフィが目を見開いた。
「いや」コウジは首を振り、そしてピピと、まだ疲労の残るリリアへと目を向けた。「ピピ、お前の『共鳴の歌』は、遠方への合図にも使えるはずだ。リリア、無理はさせられんが、お前の知恵が要る。二人だけ、俺と来てくれるか」
ピピは声を出せないまま、力強く頷いた。リリアも、迷いのない目でコウジを見返した。
「師の窮地に、弟子が付いていかない道理はありません」
「よし」コウジは頷き、工房中を見回した。「三日で戻る。それまでに、裁断機のフル稼働で装備を三割は仕上げておいてくれ。……頼んだぞ」
「はい!」
工房中の声が、一つに重なった。
* * *
氷原へと続く道は、硬質山脈を経由するよりも過酷だった。風翼商会が用意した最速の氷上馬車を乗り継ぎ、コウジ、リリア、ピピの三人は、丸一日半をかけて氷原の入り口へとたどり着いた。
遠くに、篝火の連なりが見える。ドワーフギルドの陣営だった。その奥、雪原に囲まれるようにして、ユキヒョウ族の村の輪郭が浮かび上がっていた。
「思ったより数が多いですね……」リリアが息を呑んだ。「五十どころか、七十はいるかもしれません」
「正面から行けば、間違いなく囲まれる」コウジは冷静に陣営の配置を観察した。「ピピ、村まで、お前の歌声は届くか」
ピピは、喉に手を当て、それから小さく首を振った。まだ完全には戻っていない声帯では、遠方まで届く共鳴は難しい。だが、彼女は懐から小さな笛を取り出し、それを吹く仕草をしてみせた。
「笛なら、代わりに使えるということだな」コウジは頷いた。「よし。まずは陣営に近づき、指揮官と直接話す」
「危険です、師匠。相手は正規軍を名乗る討伐隊です」
「わかっている。だが、これだけの戦力を、たった三人でどうにかできるとも思っていない」コウジは静かに笑った。「俺たちがやるのは、戦うことじゃない。時間を稼ぐことだ」
夜陰に紛れて三人が陣営近くの高台に身を潜めたとき、篝火の中央――ひときわ大きな天幕から、聞き覚えのある声が響いてきた。
「――貴様ら、いつまで無駄な包囲を続けるつもりだ! 我々は正当な裁定に従っているだけだ!」
グレイスの声だった。彼は村の入り口に立ち、討伐隊の指揮官と対峙している。
指揮官の男が、嘲るように笑った。
「裁定? 貴様らユキヒョウ族が匿っているのは、ドワーフの伝統を穢し、掟を破って追放された異端者だ。奴らの居場所を吐くか、それとも――」
指揮官が、腰の戦斧を軽く持ち上げる。
「村ごと、雪の下に沈むか。選ぶがいい」
グレイスが牙を剥き出しにして唸った。「我々は、恩を忘れる種族ではない! 貴様らこそ、一度追放を決めた者を、なぜここまで執拗に追う! そこまでして守りたい『伝統』とやらに、一体何の価値がある!」
指揮官の顔に、一瞬、怒りとも焦りともつかない色がよぎった。
「知った口を利くな……我々にも、事情がある」
――事情、だと?
高台からその言葉を聞いたコウジの中に、小さな違和感が芽生えた。単なる伝統への固執にしては、指揮官の言葉には、どこか余裕のなさが滲んでいた。
「師匠」リリアが囁いた。「何か、様子がおかしいです。あの指揮官、まるで……誰かに追い立てられているような」
コウジは、闇の中で目を細めた。
このドワーフギルドの執拗な追跡の裏に、何か別の力が働いているのではないか。そんな予感が、確信に近い重さで、コウジの胸に沈み込んでいった。
「リリア、ピピ。予定を変える」コウジは低く言った。「まずは、あの指揮官の言う『事情』とやらを、突き止める」
その時――
高台の下、凍りついた茂みの奥で、パキリ、と小さな氷の砕ける音がした。
三人が同時に振り返る。
闇の中に、じっとこちらを見つめる、複数の赤い光があった。




