第43話「万能工房の夜明け」
夜明け前の万族工房には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。
炉の火はすでに焚かれ、赤々とした光が石造りの壁に揺らめいている。その中央に据えられた自動精密裁断機――オート・プレシジョン・カッターが、初めての稼働試験を待っていた。
コウジ、ボルド、ケンタ、リリア、ピピ、そしてシルフィ、ギギ、テイルの八人が、息を詰めてその周囲を囲んでいる。誰も口を開かない。工房の空気そのものが、固唾を呑んでいるようだった。
「では……起動します」
ケンタが、麻痺した右手を左手でそっと支えながら、震える声で言った。彼の額には、緊張のためか玉の汗が浮かんでいる。この機械は、失われた自分の才能の代わりに生み出した、いわば「もう一つの手」だった。もし失敗すれば、それは彼自身の挫折を、もう一度突きつけられることを意味する。
「大丈夫だ、ケンタ」
コウジが静かに言った。それだけで、ケンタの肩から少し力が抜けた。
制御盤に埋め込まれた魔力結晶に、ケンタの指が触れる。
ゴォン、という重い音とともに、魔力駆動炉から力が流れ込み、装置の内部で歯車が回り始めた。ボルドが精魂込めて打ち上げた精密制御アームが、低い唸りを上げて持ち上がる。
「……音が違う」
ボルドが目を閉じたまま呟いた。彼にはもう、加護によって聞こえていた金属の魂の響きはない。だが、長年の経験だけが持つ、もう一つの「耳」がある。機構が正しく噛み合っているかどうかを、彼は音の変化だけで聞き分けていた。
「悪くない。悪くないぞ、ケンタ……これは、生きている」
リリアが増幅呪文を唱え、魔力の流れをアームの先端へと集中させていく。同時にピピが、声こそ出せないものの、口の動きだけで『共鳴の歌』の波長をなぞった。小さな唇の動きに合わせるように、刃先が細かく震え始める。
その振動する刃が、試験用に切り出されたクリスタル・ドレイクの革の切れ端へと、ゆっくりと降りていった。
工房中の誰もが、息をするのも忘れていた。
――シュ、という、拍子抜けするほど静かな音。
刃が革を通り抜けたのは、一瞬だった。まるで最初からそこに継ぎ目が存在していたかのように、断面には一切の歪みも、ほつれも見当たらない。
「……計測します」
ケンタが震える手で測定器を切断面に当てた。数値が表示されるまでの数秒が、やけに長く感じられた。
「誤差……
0.03
0.03ミリ。設計値を上回りました」
一瞬の沈黙のあと、工房が爆発するような歓声に包まれた。
「やった――!」シルフィが飛び跳ね、ギギとテイルが抱き合って涙ぐむ。ピピは声を出せないまま、両手を高く突き上げて跳ね回った。リリアは静かに目頭を押さえ、ボルドは無言で天井を見上げている。
だが、その輪の中心で、コウジだけがしばらく声を発しなかった。彼は切り出された革の欠片を手に取り、光にかざし、指の腹で断面を何度もなぞった。
「……見事だ」
ようやく絞り出したその一言に、ケンタの目から、堪えきれなかった涙がこぼれた。
「師匠……俺、まだ、裁断師でいられますか」
「ああ」コウジはケンタの肩に手を置いた。「お前は裁断師のままだ。ただ、刃を握る手が、お前の頭に変わっただけのことだ」
* * *
その夜、祝いの席が一段落したあと、コウジは工房の裏庭でひとり夜風にあたっていた。星が、異世界の空に不思議な模様を描いている。
「師匠、こんなところに」
声をかけてきたのはリリアだった。まだ本調子ではない魔力のせいか、心なしか足取りがゆっくりとしている。
「眠れんのはお互い様か」コウジは苦笑した。「今日、俺は初めて、自分の手を使わずに生み出された最高の仕事を見た。誇らしいような、少し寂しいような……妙な気分でな」
「職人の技とは、何だと思いますか」
リリアの問いに、コウジはしばらく黙って空を見上げた。
「昔は、手の技術がすべてだと思っていた。だが今は違う。ボルドは加護を失って、代わりに理屈で金属と向き合うことを覚えた。ケンタは指の感覚を失って、代わりに頭で精密さを設計することを覚えた。……職人の技ってのは、多分、手の中だけにあるんじゃない。諦めずに、次の道を探し続ける、その心にあるんだろうな」
リリアは小さく微笑んだあと、ふと表情を引き締めた。
「師匠。実は、風翼商会から急ぎの伝言が届いています」
「発注の件か」
「はい。クリスタル・レジンを使った極北探査用装備の噂を聞きつけ、正式に、北方遠征隊全員分――三十名分の装備一式を発注したいと。期限は次の新月まで、と」
コウジは眉を上げた。三十名分。しかも新月まで、というのはあと二十日足らずしかない。この工房の人手と、まだ稼働試験を終えたばかりの新設備を考えれば、無謀とも言える日程だ。
「厳しいな……だが、悪くない話だ。うちの実力を証明する、またとない機会でもある」
「それだけではありません」リリアの声が、わずかに硬くなった。「ドワーフギルドが、正式に議会へ提訴したそうです。我々の工房の営業許可を取り消すべきだ、と。理由は――『伝統から逸脱した異端の技術で、ドワーフの誇りを汚した』」
コウジは短く息を吐いた。追放されてなお追ってくる、旧来の壁。だが、不思議と恐れはなかった。
「上等だ」コウジは立ち上がり、夜空に向かって大きく伸びをした。「手の技も、頭の技も、絆の技も――万族工房には、もう何一つ欠けちゃいない。ギルドが何を言おうと、俺たちは俺たちの仕事を続けるだけだ」
その時だった。
工房の門の方角から、荒々しい蹄の音と、人の叫び声が響いてきた。
「コウジ殿――! コウジ殿はいらっしゃいますか――!」
聞き覚えのある声だった。硬質山脈で命を救ってくれた、ユキヒョウ族の戦士の声だ。
コウジとリリアが顔を見合わせ、駆け出す間もなく、門を突き破るようにして、雪と血にまみれた一頭の馬が飛び込んできた。その背には、満身創痍の若いユキヒョウ族の戦士がしがみついている。
「グレイス様が……!」戦士は馬から転げ落ちるようにして地面に膝をついた。「グレイス様が、ドワーフギルドの討伐隊に……氷原の村ごと、包囲されています……! このままでは、恩人であるコウジ殿たちを助けたことへの、見せしめに……!」
工房の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……なんだと」
コウジの声から、笑みが消えていた。
新月まで二十日。北方遠征隊への装備発注。ギルドの提訴。そして今、自分たちを救ってくれた恩人が、その報復として命を狙われている。
積み重なった試練が、ついに一つの選択を、コウジに突きつけようとしていた。




