第48話 珠凛と陽葵の忘れ物⑦
今日は、陽葵の退院の日だ、
空には雲一つないが、風が冷たくて、夏にしては過ごしやすい。
「急にゴメンネ。父方の祖母が亡くなっちゃって……」
陽葵はそう言うと、視線を落として申し訳なさそうにした。実は昨日の晩、急用が入ってしまった陽葵のご両親から、退院の付き添いを頼まれたのだ。
陽葵のお父さんの実家は遠方で、陽葵のお母さんがすごくお世話になった人らしい。ご両親は、法事よりも陽葵の退院を優先しようとしたが、陽葵が断ったらしかった。
退院の手続きを終え、俺は陽葵の車椅子を押している。
「いや、大変だったな。こんなタイミングで……。退院の延長はできなかったの?」
「満床だったしね。樹さんは、退院の日を変えても良いって言ってくれたけれど、元気な人間がいつまでも居座れないよ。それにしても、頑張れば歩けるのに……」
車椅子は樹兄さんが、危ないから、念の為に乗っていくように、と指示したらしい。
(あの人、俺以外に対しては普通に優しいのな)
「そうか。陽葵らしいな。まぁ、俺がいるし、大船に乗ったつもりで……」
「あはは。頼もしい。あの泣き虫の蒼空クンが立派になったもんだ」
「いや、泣き虫は今でも変わらないけれど。涙腺が弱くなってるし。歳なのかな」
「高校生でそれって、大人になったら涙腺崩壊で干からびちゃいそうだね」
「言えてる……。ちょっと車椅子を返してくる」
そう答えると、俺は車椅子を止めて、タクシーに陽葵を座らせた。病院の入り口に車椅子を戻していると、樹兄に声をかけられた。
「蒼空。陽葵はまだ不安定だから、くれぐれも1人にしないように。わかったな? 頼んだぞ」
(あの樹兄が、俺に頼み事?)
「あぁ。ってか、樹兄らしくない物言いだな」
「うるせぇ。ブタ。はやく行け。大切なもんを見失うなよ」
「それってどういう……」
「優先順位の話だよ。つか、ブタは人間の言葉を話すな!!」
そう言うと、樹兄は俺の背中を叩いた。
(樹兄が、普通の兄貴みたいなこと言ってたよ。雨でも降りそうだ。それにしても大切なものって……)
陽葵の家は、俺の実家の近くのマンションだ。陽葵の肩を抱えて、エレベーターに乗ると、ドライバーさんが玄関前まで荷物を持ってきてくれた。
「家のカギ、借りるな」
ガシャガシャと鍵をまわして、ドアを引く。鉄製の玄関ドアを開けると、旅館の朝食時のような、子供の頃を思い出す懐かしい匂いがした。
「っとと。蒼空クン。ありがとう。わたしの部屋はあっちだから」
陽葵はよろめいた。
「分かった。荷物は部屋に置いておくよ。えと、ベッドまで連れて行けばいいか?」
俺は陽葵をベッドに座らせると、辺りを見渡した。子供の頃から何度も来ている部屋だったが、絨毯は新品に交換されていた。写真立ても伏せられていて、起こそうと思ったが、やめておくことにした。
「あ、お茶いれるね。きゃっ」
陽葵は立ちあがろうとしてよろめいた。
いくら若いと言っても、失われた筋力は簡単には戻るものではないらしい。陽葵は立ち上がるのことはできるが、まだ全快にはほど遠い状態だ。
「お茶、俺が淹れるよ」
俺はキッチンでお湯を沸かしながら、あたりを見まわした。家の中はよく片付けられていてるが、なにか違和感がある。
子供の頃から、俺は陽葵の家には何度も遊びに来ていて、どこに何があるかは大体は把握している。
しばらくすると、家の中にカレンダーがないことに気づいた。それに、なんとなく空気がどんよりとしている気がした。
カチッ
ケトルが湯気を吐き出して止まった。
(紅茶でいいかな。って。……ん?)
紅茶のパッケージはすぐに見つかったのだが、新品で大袋が開けられない。
(なにか切れるようなものは……)
シンク横の引き出しをあけると、あることに気づいた。
「あれ、包丁がないや」
あったハズの包丁がない。
包丁がない理由は容易に想像できた。娘があんなことになってしまって、陽葵の両親も色々と辛かったのだろう。
陽葵の両親は夕方には戻れると言っていたから、それまでは1人にできないと思った。
紅茶を持って部屋に戻ると、写真立てが戻されていた。写真は家族写真で、その中の一枚は、さっき樹兄に撮ってもらった、俺との写真だった。
「これ……。さっきの? めっちゃ早いし」
「うん♡ お気に入りの写真だから、待ってる間に交換しちゃった」
お茶を淹れる数分で交換することもないのに。よほど見られたくない写真が入っていたのだろうか。
カチカチと秒針の音が響く。
俺は紅茶をテーブルに置いてすすっているが、気まずい。
「あ、テレビでもつける?」
「あっ」
俺とほぼ同時に、陽葵が声を出した。
「ごめん。陽葵は何?」
「え、えと、前に話したリハビリ頑張ったらご褒美くれるって話だけど。わたし合格点かな?」
「あぁ。もちろん。陽葵、めっちゃ頑張ってたし」
すると、陽葵は前髪を顔にペタペタと押し付けた。
「よかった。あのね、突拍子もないお願いに聞こえるかもだけど。よく考えてこれにしたんだよ……?」
「ん? 俺にできることなら、なんでもこいよ。あ、あまりお金がかかることは無理かも(笑)」
陽葵は笑顔になると、恥ずかしそうに言葉を続けた。
「えへへ。そうかぁ。お金もかからないし、じ、じゃあいいかな。えとね、……キスして」
「……え?」
いや、いきなりすぎる。
もちろん、陽葵のことは好きだしイヤではない。
でも、俺はこの前の旅行で、珠凛を大切にすると決心したばかりなのだ。それはさすがに……。
「ごめ……ん」
すると、陽葵の目から涙が伝い落ちた。
ずっと颯に泣かされてきた陽葵は、今は俺に泣かされている。
陽葵は涙をたくさんためた目で、俺をじっと見つめた。陽葵は小声で言った。
「……ちゃんには言わないから。わたしね。まだ怖いの。だから、明日を頑張る勇気が欲しいよ」




