第49話 珠凛と陽葵の忘れ物⑧
陽葵は、勇気が欲しいと言った。
でも、それは俺にとっては、キスをする理由ではなく「仕方ない」という逃げ道だ。
陽葵は、俺に逃げ道を与えている。
それは分かっているが。
キスしないと、この子は死んでしまうのではないか?
そんな自意識過剰な言い分が、頭から離れない。
陽葵は疲れてしまったらしく、立ち上がるのもきつそうだ。テーブルに掴まろうとする陽葵を制止して。
俺は、陽葵にキスをした。
陽葵の息が鼻に当たる。ピーチの匂い。
最初、甘かったキスの味は、やがて、少し苦味のある塩味になった。
(他人の涙って、こんな味がするのか)
陽葵の歯が俺の歯に当たって、カチカチという音がした。陽葵は震えていた。
「あっ、ごめんなさい。歯が当たっちゃった」
陽葵は身を引こうとしたが、俺は陽葵を抱きしめて、舌を入れた。すると、陽葵の肩から力が抜け、震えが止まるのが分かった。
「あぁ…………」
陽葵の口から安心したような声が漏れた。
キスをする度に、罪悪感が次第に陽葵への恋慕に変わっていくのを感じた。キスには、相手への気持ちを大きくする自己暗示の効果があるのかも知れない。
俺の中で、ただの逃げ道が、理由に変わるのを感じた。珠凛への裏切り行為だと自覚しながらも、俺はキスをやめることができなかった。
(いや、俺はもともと陽葵が好きだった。それが元に戻っただけか)
「……いつか出あうダンナさま。ウチのことをたすけてくれますか? たくさん幸せにしてくれますか?」
えっ?
珠凛の声だ。
そんなはずはないのに珠凛の聞こえた気がして、俺は唇を離した。すると、陽葵は、自らの唇に指をあてて、名残惜しそうに微笑んだが、それ以上を求めてくることはなかった。
ただ、「ありがとう」と言われた。
それからは、昔話をしたり、夕食を作ってあげたり。陽葵も俺も、つらい経験をする前のただの2人に戻ったようで、楽しかった。
陽葵もそう感じたらしく、「昔に戻ったみたいで元気がでる」と言ってくれた。
時計を見ると17時だった。
そろそろ、陽葵のご両親が帰ってくる頃だ。
「おじさんたちは、まだかな?」
「ちょっと、連絡してみるね」
陽葵は電話をかけたが、繋がらなかった。メッセージを送ると、しばらくしてから返信がきた。
陽葵は落ち着きがなくなり、戸惑った様子だった。
「……どうしよう。蒼空クン。うちの両親、飛行機にトラブルがあって、今日は帰ってこれないみたい」
おれはテレビをつけた。すると、ニュース番組で、羽田着予定の飛行機に燃料トラブルが発生して、出発地の長崎空港まで引き返したことや、大混乱の現地の様子が中継されていた。
長崎からじゃ、新幹線を使ったとしても今日中に帰ってくるのは無理だ。
「なんか大変そうだな」
「う、うん。でも、わたしは1人で大丈夫だからね?」
退院したばかりの陽葵。満足に歩くこともできない陽葵。そんな彼女を、かつて自殺未遂をした部屋に、1人きりにする。この家には、カッターや包丁はないが……、どう考えても大丈夫じゃないだろう。
「ちょっと待ってて」
俺はリビングにいき、珠凛に電話した。
今日、陽葵の退院に付き添うことは、珠凛には話してある。珠凛は、「行くべき」と言って送り出してくれた。
「珠凛? あのさ……」
俺は、陽葵の両親が戻れなくなったことや、陽葵を1人にできないことを説明した。すると、数秒の間があって、珠凛が答えた。
「うん。わかった。あ、ウチ、今日ね。そのままママのとこに泊まることにしたの。だから大丈夫だよ。うん、また明日ね」
「うん。ありがとう。ごめんな」
「ううん。陽葵ちゃんが辛いの分かるし……」
ほんとに良い子だ。
おれはそんな良い子を振り回している。
「じゃ」
電話を切ろうとして耳から離すと、珠凛の声が聞こえた。
「あ、あのっ!!」
「ん?」
「蒼空クン。あのね、エッチはしちゃイヤ……だよ」
「しないし」
「うん。ホントはね。ウチ、蒼空クンを陽葵ちゃんに返しても仕方ないって思ってたけど、ウチ、やっぱり蒼空クンがいないと無理なの。だから、ちゃんとウチのところに帰ってきて」
今度は、珠凛の方から電話を切った。
俺だって珠凛と同じ気持ちだ。
だが、同時に心の奥底で膨れ上がる陽葵への気持ちも自覚していた。




