第七話 黒猫
「黒猫。今回の件、あんたは反省しているのかい?」
とある組織が所有する建造物の最奥、薄暗くじめじめと湿った空気が漂う広い空間で、妖艶な女の声が静かに響いた。
玉座のような椅子に腰かけ肘をつき、足を組んで下々の者を見下ろすその女は、所々に爬虫類の鱗が存在する青白く人間味のない肌色に、蛇のように縦長の瞳孔、人間でいうところの白目の部分が黒く頭には角を携えている。しかし人間の形をしており、顔立ちは美しく整っていた。
明らかに人でないモノを持っているにもかかわらず、おそらく彼女を目にしたほとんどの者が、彼女の美しい容姿に目を惹かれてしまうことだろう。しかし、彼女は美しい容姿をしている反面、彼女の殺気を込められた視線には熟練の戦士でさえ緊張で全身を強張らせてしまう。
この女こそが、闇族に協力する者たちの集団で最も実力を持つ者であり、組織のトップに君臨する首領——黒蛇である。
両脇には多くの幹部が並び、中央には長い茶髪をなびかせる黒ずくめの青年が立っていた。
そんな黒蛇の殺気の込められた視線を浴びながらも一切動じず、飄々とした態度のまま突っ立っている青年は、静かに発せられた黒蛇の言葉に短く返す。
「別に~?」
黒蛇は青年のそんな態度に頭を抱えながら、今回青年が犯してしまった件に関してどう対処すべきなのか、非常に悩んでいた。黒蛇と組織にとって目の前にいるこの青年は、非常に重要な主戦力であり、また多くの「秘密」を握っている存在だったからだ。
「ふう…今日の行動は、あんたの組織に対する反逆と捉えてもいいのかい?」
「いや? ただ、オレのモンに手ェ出されたのが腹立ったんで」
青年のその言葉に、周囲で二人の会話を聞いていた幹部達のざわめく声が響いた。玉座に座る黒蛇の表情も強張っており、この空間全体に緊張が広がっていった。
「…あんたは今、自分が何を言ったのか、わかっているのかい」
「前から言ってるはずだけど。オレは組織に従うつもりはない、あくまでオレらは対等な関係だと」
青年は冷めた視線を黒蛇に向ける。それはまるで、地面を這っている虫や名前も知らない雑草たちに向けるような、一切の感情を持たない視線。
「オレのモノに手を出す奴は絶対に許さない。上級悪魔だろうが黒蛇だろうが、一切関係なく、だ」
青年がその言葉を発すると、周囲のざわめきはさらに大きくなる。
青年は組織に対して忠誠心など一切なく、あくまで対等な関係であることを主張する。彼らが属する組織においては上下関係がすべてであり、対等な関係などない。しかし青年には、組織を相手に対等を語れるだけの実力があり、命令違反を犯しても首領による懲罰は一切下されていない。組織で最も実力のある黒蛇でさえ、この「黒猫」を抑え込むには力が足りないからだ。
この出来事は青年の組織に対する、上級の悪魔という天災級の魔物とも呼べる存在を無傷で屠れるという警告であり、次にまた同じようなことがあれば、命令者であった黒蛇に対しても牙をむくという脅しでもある。
「話は終わり~。腹減ったんで帰りまーす」
「おいッ! 貴様、首領に対して今の態度はなんだ!」
先ほどの威圧に満ちた態度から一変し普段の飄々とした態度に戻った黒猫は、話を切り上げてその場から立ち去ろうとする。それを、幹部の男の一人が止めようとした。しかし黒猫はそれを無視して首領の部屋から立ち去ってしまい、男はそれを追いかけようとするが、黒蛇はその男の行動を止めさせた。
「やめな。あんたに敵う相手じゃないよ」
「し、しかし、首領…」
「…あの男を怒らせるのが一番まずいってことは、あんた達も理解しているはずだと思ったんだけどねぇ」
黒蛇の冷たい視線が一点に注がれる。広い首領の部屋全体の温度が下がったような気さえする殺気に晒された男は硬直しながらも、何とか声を絞り出した。
「も、申し訳あり、ませんでした…」
その言葉を聞き届けた黒蛇の殺気はスッと消え去り、いつも通りの空気に戻った。しかし、その場にいた幹部たちの全身には嫌な汗が噴き出しており、誰もが姿勢をそのままに立っているのがやっとだった。
「…さて、どうしたもんかねぇ」
静かになった首領の部屋で、黒蛇のそんな呟きがこだまするのだった。
*
「うーん、腹は減ったが食う気分にはなれねえんだよなぁ」
ボロボロで埃まみれの狭い部屋の中で、黒猫はひとり呟く。
目の前にあるのは固いパン一つ。肉もスープも野菜も、水さえもそこには存在しない、非常に質素で簡潔すぎる食事だった。
黒猫がいるその場所は廃屋であり、明らかに何年も人の手が加わっていないボロ屋である。雨が降れば雨漏りし、蜘蛛の巣が張り、隙間風が吹けば埃が舞うここは黒猫が拠点としている場所だ。
「…うん、今日もちゃんと笑えてる」
黒猫は、もうひび割れて傾いてしまった鏡に向かって、歪んだ笑顔を浮かべる。彼の黄金の瞳に光はなく、その笑みを見た者のほとんどはおそらく、全身の毛が逆立つほどの悪寒を覚えることだろう。
黒猫はパンを一口摘んで口に放り込むが、残りは外の野生動物に分けてやってから、そのボロ屋を後にした。
「よぉ、黒猫~。こないだは随分暴れまわったらしいな~?」
組織が管理する建物に足を運んだ黒猫に、一人の若い男が声をかけた。目立たない一般的な髪色に平凡な顔立ちをしている青年であり、黒猫が属する協力者たちの組織の一員である。そんな平凡な男の組織におけるコードネームは「隼」。主な役割は伝令とシーフであり、組織の裏事情を握る情報通でもある。
「んー? なんの話だ~?」
「ハッ、とぼけんなよ。俺が知らないとでも思ったのか? ブラックマンバに対して脅しまでできる度胸があるのは、この組織でお前だけだ」
「脅しなんかしてねえよ。ただ、ちょっと忠告してやっただけだ」
二人とも友好的な笑みを浮かべながら話をしているが、互いの目は相手の言葉を信用などしていない。
ここでは相手を信用した者から食い潰される。疑心暗鬼こそがこの世界で生き残る唯一の手段であり、信じられるのは自分だけ、弱肉強食、盛者必衰の世界。
「それを世の人は脅しというんだ。上級悪魔…毒蜂はお前がやったんだろ?」
「まあな。薄汚い手でオレのモノに触れた罰だ」
黒猫の言う「オレのモノ」とは何のことか、隼は理解していた。
敵対組織、人間による闇族への対抗の手段、現代における世界の希望・パトレイト。その巨大組織における最大戦力にして、戦闘民族の末裔で構成された戦闘チーム「銀月」の一員である「白銀の狼」のことだ。
小柄で華奢な体格をしているにも関わらずその実力は未知数で、数十年前に廃れてしまった技術である魔術を扱う人物として警戒されている。その人物について判明していることは少ない。性別は男であることと、保有魔力が未知数であること、そして戦闘民族の末裔どころか、元祖であるレイヴォルス――純潔により近い存在であることのみだ。出自や本名、彼が持つ能力、黒猫との関係、容姿もすべて不明である。
「白銀の狼」は魔術だけでなく、剣術の達人でもあった。現代では手に入ることのない魔法武器、その中でも希少価値の高い双剣の使い手であり、正面から挑むのは命を捨てに行くようなものだ。何しろ、現代では人間にとって生体が不明な魔族や悪魔、協力者たちが信仰する闇族でさえも、彼の前では無力な存在だからだ。
協力者たちの中でも最大の力を持つと言われているあの黒蛇でさえ、この黒猫を怒らせることを避けている。そんな黒猫はある日、こう言った。『あいつはこの世で唯一、オレを殺せる存在だ』と。
実際、五年前、十数年間もの間一度も負傷したことがなかった黒猫が、頬に傷を負ったことがあった。黒猫の表情を見た者全員が凍り付くほどの、歪んだ笑みを浮かべながら。
黒猫が「白銀の狼」に心酔するようになったきっかけは、おそらくその当時の出来事だったのではないかと隼は思っていたものの、どうも違和感が拭えず、黒猫に対し何度も探りを入れていた。しかし、黒猫は驚くほど情報を吐き出さない。
組織に来てからの情報は時々共有してくれるものの、それ以前の経歴などは情報通である隼でさえ把握していない。記録や聞き込みによる情報収集にも手ごたえはなく、彼がいつ、どこから来て、どんな人生を歩んできたのか、隼はそんな謎に満ちた存在である黒猫に惹かれて止まないのだ。
「そうかそうか。お前が心酔する「白銀の狼」は、今日もうちの奴らを殺しまくったってよ。犠牲者の中にはあの「大熊」もいたとか」
大熊というのは、文字通り体格が大きく圧倒的な防御力を活かした戦い方を好む戦士だった。分厚い肉体は刃物を通さず、たとえ食い込んだとしても引き締まった筋肉によって引き抜くことは叶わない。その頑丈な肉体で千もの刃物を折って来た歴戦の戦士が、今回の戦いでは「白銀の狼」の手によって、あっさり切り裂かれてしまったというのだ。
大熊の持つ強靭で頑丈な肉体は、剣の達人である「白銀の狼」の剣さえ通さないと自負しており、また周囲の者もそう思っていた。だが、彼らの予想は完膚なきまでに裏切られたのだった。
「ふうん」
黒猫は味方である大熊の犠牲になど、一切興味はなかった。あいつなら勝って当然の戦いだったと、心の中で思っている。元々自分に対してやたら絡んできていた大熊に関しては、生きていようが死のうがどうでもよかった。むしろ、騒がしいのがいなくなって愉快な気分だ。
「おいおい、味方が敵に殺されたんだぞ? もっと悲しむとかしろよな~」
隼はそう言いながらも、ニコニコしながら黒猫の肩を叩く。
「調子に乗った奴の末路なんかに興味はない」
隼の気持ちのこもっていない言葉をその一言で一蹴した黒猫は、とても機嫌がよさそうにその場を去る。茶髪をなびかせる後ろ姿を見送る隼は、笑みを浮かべたままそんな黒猫にひらひらと手を振るのだった。




