8話 人として
翌日の昼、私はフェオリスの商業区の南通りに着いた。明日の授業までに戻るなら、長居はできない。目的のルミナ聖堂はすぐに見つかった。豪奢な装飾が施された門をくぐると、修道服に身を包んだ女がこちらへ歩み寄ってきた。
「ようこそ、ルミナ聖堂へ。祈りを捧げにいらしたのですか? それとも治療ですか?」
「いや、検体を採りに来た。マグレフの男を出してくれ」
「……はい? まぐれふ、とは……?」
女は眉間のシワを深め、首を僅かに傾けた。
「不治の魔力病だ。自らの魔力を外敵と誤認し、自身の防衛機構がコルプスごと食い破る欠陥。その病を抱えた男がこの聖堂に身を寄せているはずだ」
「病の治癒を願う滞在者なら数多くおりますが……申し訳ありません、そのような名の病は存じ上げません。その方のお名前は?」
「名前? さあな、知らない」
「……は?」
「名前など記号にすぎない。そんなものより螺旋の狂いを見た方が確実だ。手っ取り早く、病人を全員一列に並ばせてくれ。私が直接肉片を削いで確認する」
「なっ……!?」
女は大きく目を見開き、弾かれたように二歩後ずさった。両腕を広げて聖堂の扉の前に立ち塞がったが、その指先は小刻みに震えている。
「お引き取りください。ここは神聖な祈りの場です。目的の分からない方を、病人たちの元へ通すわけにはいきません。……お帰りにならないなら、衛兵を呼びますよ!」
高い声が僅かに裏返った。これ以上言葉を並べても無駄か。私は踵を返し、一度聖堂の敷地から外へ出た。
商業区の通りを少し歩き、すぐ近くに『マトリカリア』と看板を掲げた小さな茶葉屋を見つけた。扉を開けると、青い草の匂いに甘い花の香りが混じって流れてきた。壁一面の棚には、乾燥させた薬草を詰めた瓶が整然と並んでいる。奥の机では、茶を飲んでいた若い男が、連れの女に声をかけていた。
「お腹に赤ちゃんがいるんだから、飲むものも気をつけないとな。ほかのお茶も見てみようか」
「なんだか父親になるってわかってから頼もしくなりましたね」
私は客を横目に見ながら棚の奥を観察した。鎮静や発汗に使う薬草が、おあつらえ向きに茶葉として売られているものの中に混ざっていた。
魔法なら手早く気絶させられるが、この国では魔法を無力化する研究が進んでいる。その成果がどこまで実用化され、一般市民の手に渡っているかも分からない。せっかく材料もあることだし、こちらの働きも試してみたいな。
私は眠り草の乾燥花を買い求めた。店を出て人気のない路地裏に入り、薬液を用意して、持っていた古い布切れへ染み込ませた。
ルミナ聖堂へ戻ると、修道服の女はまだ扉の前に立って周囲を警戒していた。私が真っ直ぐに歩み寄ると彼女は身を引いた。
「あ、あなた……! 帰ったのでは――」
「ふふっ、働きづめだな。休まないのか?」
私が布を持った手を伸ばすと、女はそれを払いのけ扉の取っ手へ手を伸ばした。私はその腕を押し下げ、身を寄せて鼻と口へ布を押し当てた。
女の両手が私の手首をつかみ、爪が皮膚へ食い込んだ。修道服の裾が揺れ、踵が石畳を擦っている。やがて握る指が緩むと、その全身から力が抜けた。膝から崩れ落ちる身体を、私は片腕で抱え留めた。
「少しの間、そこで寝ていろ」
私は意識を失った女を扉の脇の植え込みへ寝かせると、重い聖堂の扉を押し開け、中へ足を踏み入れた。
聖堂の奥にある大広間には、簡素なベッドが等間隔に並び、怪我人や病人が数人横たわっている。ほかに修道服の姿は見当たらなかった。
私は静かに通路を歩きながら、左右のベッドを順番に見下ろした。顔など見る必要はない。咳の出方や、息をする時の胸の動きへ目を向けた。
右の男は胸を押さえて咳き込み、呼吸のたびに喉の奥を鳴らしている。肺の病か。左の老婆は、布団の上に置いた痩せた手を僅かに動かすだけだった。少なくとも、目に入る範囲に魔力の異常を示すものはない。
「……ッ、ぁ、あ……」
広間の最奥、ひときわ分厚い布で隔離されたベッドから、掠れた呻き声が漏れていた。その隙間から漂ってくる微かな匂いに、私は足を止めた。
血の匂いではないな。
焦げたような臭いとともに、青白い燐光が布の隙間から漏れていた。光は空中でチリチリと散り消えていく。
体内に留まるはずの魔力が外へ漏れ出しているのか。
私は仕切りの布を引き開けた。ベッドの上には、痩せ細った一人の青年が横たわっていた。全身の皮膚に黒いひび割れが幾筋も走り、その亀裂から微弱な魔力が漏れ出しては消えている。
マグレフなら、この傷と魔力の漏出にも説明がつく。防衛機構が魔力ごと細胞を攻撃しているのだろう。
突然の光に、青年が薄く目を開けた。ひび割れた顔をこちらへ向け、警戒するように身を強張らせた。
「誰、だ……。シビラさんじゃ、ない……」
「検体を採りに来た。お前の姉、エレアだ。動くなよ」
私が服のポケットからナイフと硝子の小瓶を取り出すと、青年は信じられないものを見るように目を見開いた。
「姉さん……? 嘘だ、なんで、僕を見て、そんな……」
「顔などどうでもいい。専用のオペルクラを作るために、お前の生きた細胞が必要だ。腕を出せ」
「な、何を言っているの……? 待ってよ、あんた、僕が誰だかもわかってないのか……!」
小瓶を枕元へ置き、私が無造作に腕を掴もうとすると、青年は私の手を強く振り払った。急な動きでひび割れた皮膚が引き攣れ、乾いた唇から血が滲み出ている。彼は荒い息を吐きながら叫んだ。
「ずっと手紙を書いた! あんたは僕のこと、ただの病気の肉塊としか思ってないのかよ! 僕だよ! グレインだよ!!」
悲痛な叫びが広間に響いた。
私は小さく息を吐き、男の腕へそっと手を添えた。そのまま指に力を込め、動きを押さえ込んだ。
「グレインか。分かった、名前を刻んでおこう」
「え……?」
グレインが呆然と動きを止めた瞬間、私はナイフの刃を滑らせ、その腕から親指ほどの肉片を鮮やかに削ぎ落とした。
「あ、ぎっ……!?」
「止血しておけ。防衛機構が狂っていても、凝固作用は残っているはずだ」
悶える弟に目もくれず、私は切り取った肉片を硝子の小瓶へと放り込んだ。ナイフの先を小瓶の表面に当て、カチカチと音を立てて文字を刻み込んだ。
――グレイン
「ほら、お前の名前だ」
私は名前を刻んだ小瓶を窓から差し込む光にかざした。グレインはそれを見つめていたが、やがて顔を横へ向けた。枕の上で唇が動いたものの、言葉は聞こえなかった。
研究施設も見ておきたかったが、今からでは明日の授業に間に合いそうにないな。
「また来るよ、グレイン」




