7話 記憶の片隅
治療台の上で、半透明の緑色の肉塊がドロリと形を変えながら蠢いていた。
成人男性だった体は一塊の肉へと変わり、広い治療台の天板いっぱいに広がっている。かつてメルドと呼ばれていた男の面影はどこにもない。拘束具の隙間から溢れ出た粘液が、台の縁から滴り落ちそうになっては、自律的に収縮して天板へ戻っていく。
「エ、エレア様……その男、これからどうするのですか」
「どうするも何も、観察するんだよ」
私が顕微鏡の準備をしている背後で、不意に助手の悲鳴が上がった。振り返ると、治療台から伸びた緑色の粘液が助手の腕に絡みついていた。その先端は、五本の指を備えた人間の腕の形を精巧に模していた。
その手は助手の腕を握りしめたまま、人差し指だけを伸ばしていた。指先が空中を滑り、何かの文字を素早く書くような動きを繰り返している。
「ひぃっ! 腕が……人間の腕が……ッ!」
「ほう。人間の腕の形を作るか。しかもその指先の動き……人間だった頃、書類に文字を書き連ねていた習慣が残っているらしい」
私は白衣のポケットからメスを引き抜き、助手の腕を掴む粘液の根元を切断した。
助手の腕を掴んでいた指が開き、切り離した緑色の腕がボトッと床へ落ちた。その腕はすぐに治療台の脚を這い上がると、本体の切断面にドロリと繋がり、元のブヨブヨとした肉塊へ姿を変えた。
「素晴らしい」
「エ、エレア様……あいつ、まだ人間の意識が残っているんじゃ……ッ」
私は肉塊の端を少し削ぎ取り、標本を作って顕微鏡を覗き込んだ。
人間の螺旋は残っている。複雑な螺旋の隙間に、スライムの単純な配列が強引に割り込み、癒着していた。脳神経に関わる箇所を追うと、人間の脳を形作る配列の大部分がオペルクラに覆われていた。
「これでは、人間の脳を元の形で保てないだろう。今はスライムの神経網で動いているらしいし、高度な知性まで残っているとは思えないな。書く動きは、人間だった頃の習慣の名残だろう」
「でも、あの指は……」
「それも記録しておけばいい。切り離された腕を自分で繋ぎ直せるなら、戦場でも使えそうだな。最前線へ出す兵隊としては優秀じゃないか」
「で、でも、シャマイラの分泌液を入れたのなら、ほかの生き物の能力まで取り込んでしまうのでは……!」
私は螺旋の隙間を追い、スライムの配列が入り込んだ箇所を確かめた。
「シャマイラでも保持できるのは一種類分だ。こいつの空白は、もうスライムの情報で埋まっている。少なくとも、さらに能力を積み重ねる余地は見当たらないな」
助手は自分の腕を押さえ、治療台から離れたまま粘液を見ていた。
「後で樽に詰めておけ。切り離した腕が本体へ戻るまでの経過と、今の指の動きも記録して、上に報告書を出すんだ」
私は顕微鏡へ顔を戻し、オペルクラに覆われた配列をもう一度追った。緑色の光は魔力に関わる箇所を越え、人間の器官を保つための配列にまで広がっていた。
皿の上で光が広がった時、すでにここまで覆われていたのか。
「古い器官の働きまで止めて、作り直せる状態に戻したわけか。そこへスライムの情報が入れば、体ごと変わるのも当然だな」
私はメルドの螺旋を描き、オペルクラに覆われた範囲を書き込んだ。
実験前に採っておいたメルドの血を別の皿へ分け、薄めた分泌液を加えて雷を流す。最初に黒くなる箇所は変わらないが、そこから伸びるオペルクラは、先ほどより手前で止まった。さらに薄めたものでは、縁が途切れ、螺旋から剥がれていく。
薄めても、覆い始める場所は変わらない。弟の魔力を隠す前に器官の配列を覆ってしまうなら、この方法では使えない。分泌液にはメルドの身体を作り替える働きも残っているのだから、まずは弟の細胞で、どこから覆われるのか確かめる必要がある。
目印のためにスライムの細胞を丸ごと入れるのも余計だった。欲しいのは光る仕組みだけで、スライムの体ではない。濃さごとの被覆範囲を、メルドの図の脇へ描き足した。
私はペンを置き、傍らに立つ助手へ顔を向けた。
「おい、弟は今どこにいるんだ?」
助手は信じられないといった顔で私を見た。
「ど、どこって……! 弟さんの居場所も、手紙に書いてあったでしょう!?」
「症状は読んだよ。居場所までは覚えていない」
「そんな……! マグレフの療養のために隣国アラインカプスのフェオリスという街にいるんです!」
「アラインカプスか。また遠いな」
「商業区の南通りにあるルミナ聖堂というところに身を寄せているそうです」
「フェオリスのルミナ聖堂か。アラインカプスの擬態魔法の研究施設も、確かその街の近くだったな」
「ま、また実験の話ですか!? 弟さんの心配はしないのですか!」
「心配? なぜだ。顔など見なくても、あいつの肉片を一つ切り取って螺旋を調べれば状態はすべて分かる」
私は白衣のポケットに手を突っ込み、扉へ向かった。
「出かける準備をしてくれ。二日後の授業までに、弟の細胞を採ってくる」




