5話 遠い記憶
その夜、私は地下研究室で、拘束されたまま椅子に座っているメルドの腕にナイフで切り傷を入れ、血を採った。何も施していない細胞の状態を記録し、比較用の標本を机の端へ置いた。
擬態魔法の資料を開くと、特定の配列を覆い、魔力の性質を偽装する仕組みが記されていた。なら、魔法そのものでオペルクラを作れないか。雷を液体に変えれば、螺旋を覆う形にできるかもしれない。
私はガラス皿の上に雷魔法を生じさせ、液状化を試みた。だが、雷は液体になることなく、ゆっくりと消えていった。
「資料がそろっていないのか、属性によって擬態の制約があるのか。私の魔法では上手くいかないな」
私は擬態魔法の研究資料を最後までめくったが、手掛かりは見つからなかった。資料を机に置き、シャマイラの資料へと手を伸ばした。
「エレアさんでも、分からないことがあるのですね」
「君は私を天才だと思っているのか? 私はまだまだだよ」
メルドに返答し、シャマイラの資料を開いた。解剖記録の前に、飼育中の観察が挟まれていた。
餌にされたタルトラゴは、給餌係が石を二度打ち合わせると、右の水際へ寄るよう仕込まれていたという。捕食前にはその音を無視していたシャマイラも、脚が生えた後には同じ場所へ向かった。餌はまだ出していなかったらしい。
覚えた動きまで移るのか。
合図を繰り返した時の記録を探したが、一度の反応しか残っていなかった。偶然餌を探して寄ったのなら、同じ音を聞かせても再び右へ向かうとは限らない。次のページは解剖図だった。シャマイラのエラは残り、タルトラゴと同じ呼吸器も描き込まれている。
新しい器官を作る間、古い器官の働きはどう調整されている?
螺旋を書き換える分泌液に、不要になった配列の働きを抑える成分も含まれているのかもしれない。そいつで、オペルクラを作れないか。
「私はこの先、実験体にされるのでしょう。多少おしゃべりでもしませんか」
「君はそんなに喋る人間には見えないのだが? 私も今忙しくてね」
「長く拘束されていましたからね。久々なんですよ。私は元々アラインカプスの王国監査官として――」
ネズミの身の上話などどうでもいい。それよりも、まずはこっちだ。欲しいのは、書き換えが進んでいる最中の分泌液だ。死体から劣化したものを採っても、古い配列の働きを抑える成分が残っているかは分からない。やはり、生きたまま持ってきてもらわなければ調べられないな。
擬態魔法の資料には分泌液の記載も、シャマイラの情報もない。あの国では、何を使ってオペルクラを作っている?
元の配列の働きを抑える成分を、魔法で体内に作らせているということか。
いや、液体にして運び込む必要はあるのか? 魔法の力で細胞膜を突破できるなら、螺旋へ直接届かせられるのではないか。
「冒険者ギルドの裏を暴けそうになったんですけどね」
「君、ちょっと良いか?」
私は男の腕に人差し指を向け、雷魔法を放った。
「がはっ……、あ、が……ッ!」
メルドの身体が火花を散らし、椅子の上で激しく身をよじった。拘束された手首が擦れて血を流し、肉の焦げる嫌な臭いが研究室に立ち込めた。私は男の腕から流れ落ちた生温かい血を人差し指で掬い、小さなガラス板に塗りつけてから、顕微鏡の下に差し入れた。
最初に採った血の標本を並べて見比べると、雷を受けた細胞では膜が裂け、その内側に青白い筋が残っていた。螺旋の隙間に伸びた筋は、倍率を上げて追っているうちに薄れていった。
なるほど。膜を破れば、魔力を螺旋まで届かせられるのか。ならばあとはそれで狙った配列を覆えるかだ。
あの国は、これを何人に試したのだろうな。何も分からないところから擬態魔法を成立させたのなら、ゴミ同然の扱いをされた魔術師は指折りでは数えられないだろうな。
顕微鏡から顔を上げ、メルドの方を向くと、腕からぽたぽたと血を流し、頭を垂れて気を失っていた。その向こうに見えた助手に声をかけた。
「おい、生きたままのシャマイラはどうなった」
「生体調達の許可は下りました。ただ、請け負っているクランが結成して日が浅いらしく、捕獲に苦戦しているそうです」
「冒険者ギルドに依頼しているのに、この研究の依頼はそいつらが独占しているのか?」
「はい、催促してはいるのですが……。次の定期便は明日です。そこに間に合わなければ、次は二日後になるかと思います」
私は大きく息を吐いて立ち上がった。
「エレア様? どちらに?」
「シャマイラが手に入らないから採りに行こうとしても、あの島には青濤会がいる。ふふっ、何も進まないじゃないか。私は寝るよ」
「あ、あの……。この男はどうしますか?」
「しばらく用はないからな、また戻しておけばいいんじゃないか?」
研究室の隅に置いてあるベッドで横になった。そろそろ腹も減ってきたけど、面倒だな。今日はもういいだろう。
* * *
まぶたを開けると、研究室の空気はすっかり冷え切っていた。辺りを見渡すと、メルドの血痕は拭き取られ、臭いも消えていた。優秀な助手じゃないか。
机には助手の書き付けが残されていた。
『昨日は一日お休みでした。今日は授業の日です』
昨日を丸ごと寝ていたのか。私は起き上がり、そのままミルファーゼ魔法学校へ向かった。
校門の前で、ピュラと精霊男に出くわした。ピュラと目が合うと、彼女は露骨に顔をそむけ、精霊男の腕を強引に引っ張った。
「行こ、アトスくん」
「お、おう」
二人は逃げるように校門へと駆け込んでいった。
教室に着くと、三人の生徒は既に席に着いていた。
「今日は擬態魔法について色々実験していく」
口にした途端、窓際の席で放出男の肩が跳ねた。精霊男が腕を組んでいる隣で、放出男は勢いよく立ち上がり、椅子を倒した。手は震え、こちらへ顔を向けているのに目の焦点が合っていなかった。
「ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。もう間違えませんから、ゆ、許してください」
私の方へ顔を向けたまま尻もちをつき、両手で床を押して後ろへ下がっていく。短く切れた呼吸に、踵が床を擦る音が重なった。その様子を見ていた精霊男が放出男の傍に駆け寄った。
「お、おい。プローテ! 大丈夫か!?」
こいつも、擬態魔法の実験に使われた一人なのか? 今、誰に謝っている?
放出男の肩へ回した腕を緩めず、膝をついた精霊男がこちらを見上げた。
「せ、先生。なんとかなんねぇのかよ」
実験の後遺症というやつか。海馬を抽出し、脳細胞を分析して直さないとね。
ああ、そうだ。私は立派な人だからさ。
「ふふっ、なんとかしてみようか」




