4話 見えないもの
翌日、私は地下研究室で、ピュラの腕から採取した細胞を観察していた。王への報告に対する返事も、被検体のシャマイラもまだない。
細胞の活動が弱まってきたところで標本を熱すると、再び活性化した。炎に飢えた腕か。耐熱性を得た代わりに、熱がなければ維持できない組織になったのかもしれない。腕全体がこうなっているなら、あの女は定期的に自己強化の炎を与えなければならないのか。
顕微鏡を覗いていると、研究室の扉が勢いよく開いた。振り向くと助手が膝に手をつき、肩で息をしていた。
「おい、うるさいぞ」
「も、申し訳ございません、エレア様。それより大変なんです」
「毎日騒がしいな、今日はなんだ」
「隣室でスライムの実験をしている研究班が、スライムにやられて、それで、それが研究員に――」
「落ち着け、何を言っているのか全くわからない」
私は辺りを見渡し、机の上でシャマイラの卵を浸していた容器から、水だけをコップへ移して手渡した。助手は一息に飲み干し机に置いたが、顔色は変わらなかった。卵の味は、気になるほど水に移っていないのか。
「すみません。強化スライムの実験中にミスをしたらしく、スライムの体の裂け目から細い触手が何本も出てきたんです。それに触れた研究員が、操られています」
私は空になったコップを鼻先へ寄せ、生臭さに顔をしかめて机へ戻した。
「なるほど、面白いことを考えるな。神経伝達物質を撹乱する分子を自ら合成しているのか? それとも筋肉の周囲に増殖し、行動を――」
「そんなことより、早く避難してください!」
私は机の上のナイフを手にし、指先でクルクルと回した。
「どうして? 同時に操れる数はわかっているのか? 操られる時間は? 後遺症は? 何もわかっていないんだろ? 絶好の機会じゃないか」
「き、危険ですので!」
私はナイフを回しながら隣の研究室へ向かった。その足はいつもより軽かった。
隣室では、女研究員の頭の上に緑色のスライムが乗っていた。スライムの体の裂け目から、糸のように細い触手が何本も垂れ、髪の間へ潜り込んでいる。スライムが発光すると、女研究員が片足を前へ出した。再び光ると、今度は腕をこちらへ伸ばした。
「た……すけ……」
「エレア様、どうですか」
「光るたびに手足が動くな。あの光は、命令を送る時に出るのか? あるいは筋肉を直接動かしているのか」
「光る仕組みじゃなくて、あのスライムを引き剥がしてもいいのかとかです!」
「研究資料を見ればわかるだろう。そんなことよりもこの光だ。神経に何かを伝えるたびに光るなら、その働きを外から追えるかもしれないんだぞ」
「ああもう……。頼む人を間違えました。別の人を呼んできます」
助手は外へ走り出した。私は女研究員に近づき、こちらに伸ばした腕をつかんだ。袖口から覗く皮膚に、スライムから伸びた細い触手が食い込んでいた。
私は皮膚へ入り込む手前で触手を切り、その周囲の皮膚へナイフを入れた。女研究員の指が引きつり、喉から短い声が漏れた。
「へーっ、痛覚はあるのか」
私は食い込んだ触手の先ごと女の肉を小さく削ぎ取り、部屋を後にした。自分の研究室へ戻って標本を作り、顕微鏡を覗いた。スライムの細胞が女研究員の神経細胞の突起に隙間なく結びついていた。その結合部が光ると、緑色の火花のような光が周囲の細胞膜を走った。
頭の上で光っていたのは、ここでも起きている反応なのか。神経と結びついた部分で、何を受け渡している?
倍率を変えて追っているうちに、光る間隔が長くなった。やがて標本の中の細胞が動かなくなると、光も消えていった。
やはり、生きた個体でなければ、これ以上の解析は無理か。
私は標本を机に残し隣の研究室へ戻ると、助手が呼んできた男の研究員が女を椅子へ座らせ、頭の上のスライムへ金属のへらを近づけている。女の足元には、蓋を外したガラス容器が置かれていた。私が肉を採った腕には布が巻かれ、助手がその端を結んでいた。
私が男の肩に手を乗せると男はへらを止め、こちらへ顔を向けた。
「スライムは殺すなよ。あの光をもう少し調べたいんだ」
「今さら何をしに来たんですか。採りたいものは採ったんでしょう」
「標本はもう光らなくなったからな」
「そんなこと知りませんよ。私は彼女を助けているんです」
「ああ。だから、剥がすんだろう? 目的は同じじゃないか」
男がへらでスライムの端を持ち上げると、女の顎が上がり、椅子の脚が床を擦った。髪の間へ潜っていた触手が張り、女は歯を食いしばった。
私は男の手元へ近づき、張った触手を指さした。
「待て、そこは引くな。腕から採った標本では、こいつの細胞が神経と結びついていた。頭でも同じなら、引き剥がすより触手を切った方がいい」
「切っても問題ないんですか?」
「少なくとも、神経ごと引き抜くよりはいいだろう。切り離した標本も、しばらくは光っていた。触手を切っただけで本体が死ぬとは限らない」
女の顔は脂汗に濡れ、食いしばった歯の隙間から血の混じった唾液が漏れていた。私がナイフを持ち替えると、女の視線もその刃を追った。
「それ……私の腕……」
「あぁ、役に立ったぞ」
スライムの光が弱まると、女は腕を胸へ引き寄せ、私から顔を背けた。助手がそのそばへしゃがみ、顔を覗き込んだ。
「すぐに外します。エレア様、彼女の肩を支えますね」
私は髪を分け、触手が皮膚へ入る手前に刃を当てた。一本切ると、スライムの緑色が強くなり、女の指が椅子の縁をつかんだ。
「おい、今のを見たか? こっちが切ると――」
「話は後にしてください」
男がへらでスライムを支えたまま、私の手元を見ていた。私は次の触手へ刃を移した。首筋を伝う触手を切り、髪の奥に残った触手も順に切り離した。最後の一本が離れると、女の肩が落ちた。男がへらでスライムをすくってガラス容器へ移し、蓋を閉めた。緑色の塊は内壁へ広がり、切られた触手をゆっくりと縮めていた。
「動くか?」
助手は女の肩を支えたまま、空いた手を女の手の下へ差し入れた。
「少し待ってください。今、確かめていますから」
女は自分の手を見つめ、指を一本ずつ曲げた。次に足を床へつけ直したが、立ち上がろうとはしなかった。私はガラス容器を持ち上げ、内壁で縮んでいる触手を確かめながら胸元へ引き寄せた。
「こいつは私の部屋へ運ぶ。実験記録も貸してくれ」
男は私の抱えた容器に手をかけた。
「勝手に持っていかないでください。うちの実験体です」
「死なせずに回収できただろう。解析した結果は渡すさ」
「貸すだけです。実験記録も、後で返してください」
男が手を放すと、私は蓋が閉まっていることを確かめ、容器を持ち直した。
「あぁ、それと、この女の腕も経過を見せてくれ。スライムの細胞が残っているかもしれない」
女は布の巻かれた腕を反対の手で抱え込み、私から体を背けた。
「も、もう……触らないでください」
助手は女のそばから立ち上がり、私と椅子の間へ回り込んだ。
「経過は、こちらの研究班に記録してもらいましょう。エレア様には、その記録をお渡しします」
私は助手の脇から女の腕をもう一度覗いた。皮膚の下に残った触手がどうなるかも知りたかったが、容器の内壁を動く緑色の塊が目に入り、そちらへ顔を近づけた。
「まあいい。記録は忘れるなよ」
研究室へ戻り、スライムの容器を机に置いた。蓋の縁を確かめていると、助手が隣室の実験記録を抱えて入ってきた。
「ここへ持ってくる必要があったんですか?」
「調べるたびに隣室へ通うのは面倒だろう」
「ここで容器から出たら、今度は私たちが操られるんですよ」
「なら、逃がさなければいい。容器の扱いも、その記録にあるだろう」
助手は椅子を引き、記録を開いた。私はアラインカプスの資料をその横へ広げた。特定の配列をオペルクラで覆い、魔力の性質を偽装する。だが、狙った配列にオペルクラができたかどうかは、投与しただけではわからない。
容器の中で、スライムが薄く光った。この光を、目印に使えないか。
私は紙を引き寄せ、オペルクラを作る機構の横に、発光を利用する案を書き足した。
「何を書いているんですか?」
「メルドから採った細胞を光らせて、狙った配列にオペルクラができたかを確かめたい。螺旋を一つずつ調べるにも限度がある。オペルクラを作れたつもりで弟に使っても、何も起きていなければ意味がないからな」
「それも人間に使うんですか。このスライムのものを?」
「スライムを頭に乗せるわけではないよ。欲しいのは発光の仕組みだけだ」
「その仕組みだけを取り出せるんですか?」
「これから調べる。生きた個体があるからな」
助手はガラス容器から椅子を少し離した。私は実験記録をめくり、発光について書かれた箇所を探した。しばらくすると、研究室の扉が叩かれた。助手が開けると、封書を持った男が立っていた。助手は差出人を確かめ、すぐに私へ差し出した。
「王からの返事です」
封を切ると、メルドを実験に使う許可が記されていた。交渉に応じられる状態を維持すること、実験の成果とメルドの状態を報告することが条件として並び、どちらにも下線まで引かれていた。生きたシャマイラの調達については、費用の見積もりを出し直すようにとあった。
「どうでしたか?」
「ネズミは使っていいそうだ。シャマイラはまだだな。生きたままの調達費を、改めて出してくれ」
助手は封書を受け取り、条件の箇所に目を落としてから、報告書の隣へ置いた。
「地下牢へ連絡してくれ。メルドをここへ運ばせる」
「もう始めるんですか? シャマイラはまだ来ていませんよ」
「細胞は採れるだろう。何もしていない時の螺旋を記録しておく。資料の内容も聞いておきたい」
「分かりました」
助手が部屋を出ると、私はアラインカプスの資料に記述されているオペルクラで覆う配列と、覆った状態を保つための条件を読み直した。その脇には別の筆跡で細かな書き込みがあった。
これを書いた者に聞ければ早いのだがな。メルドがどこまで知っているか。
私は空の標本皿を並べ、記録用の紙にメルドの名を書いた。扉が再び開いた時、助手の後ろには二人の男がいた。その間に挟まれ、手首を拘束されたメルドが部屋へ入ってきた。
メルドは研究台を見て足を止めた。隣の男に肩を押されて椅子へ座ると、今度は机の上の資料に目を向けた。
「……それは、私が持っていたものですか」
「あぁ。少し聞きたいことがある」
私は資料を、メルドの顔の前に突き出した。
「この筆跡は君のものか?」
「違います。私は運んでいただけです」
「では、誰から受け取った?」
メルドは机の端に並んだ標本皿からナイフへ視線を移し、拘束された手を膝の上で重ねた。
「私が魔法を使えないことは、ご存じですか」
「知っているよ。君が魔法を使えるかではなく、この資料について聞いているんだ」
「……私は運んでいただけです。中身は読んでいません」
私は資料を手元に戻し、助手の方を向いた。
「採取前の状態から記録しておいてくれ」
助手がペンを取ると、メルドの椅子が床を擦った。
「待ってください。何を採るんですか」
「君の細胞だ。まずは、何も変えていないものを見ておきたい」
私は空の標本皿を研究台へ移した。
「運ぶ途中で、この資料に何が書かれているか、少しでも読んでおけばよかったな」




