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人でなし魔法教師エレア 〜国家公認の研究者は、今日も生徒で人体実験をする〜  作者: カミツキ


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25話 帰還

 ルミナ聖堂の寝台で目を覚ますと、僕の腕から黒い亀裂が消えていた。布団の下で肘を曲げても皮膚は引き攣れず、息を深く吸い込んでも、胸の奥から痛みが追ってこない。


 枕から頭を起こしたところで、髪が肩へ落ちた。手で払うと、頬へ触れた指も、口元にかかった髪の長さも、寝つく前とは違っていた。


「……グレインさん、なんですか」


 寝台の脇にいたシビラさんが、僕の顔を見つめていた。右手には布が巻かれ、左手で支えた手鏡を、胸へ引き寄せるように持っている。


「ああ、グレインだよ。鏡を貸してくれないか」


 差し出された鏡へ手を伸ばすと、彼女の肩が小さく跳ねた。鏡の柄をつかんでも、指はなかなか離れなかった。


 そこに映っていたのは、姉の顔だった。顎へ触れ、口を開いてみた。歯は元の大きさへ戻り、頬にも裂け目はない。唇の端に残った血を親指で拭うと、鏡の中の姉も、同じように指を動かした。


「腕も、見せてください」


 シビラさんが鏡の縁を押さえた。僕の袖を捲り、肘の内側まで確かめていたが、傷のない皮膚へ手を添えたまま、顔を上げた。


「本当に、痛くないんですか」

「ああ。もう、あの痛みはない」


 彼女の指が腕へ沈んだ。その手に触れようとした時、布の下に赤く腫れた皮膚が見えた。


「君は、雷に当たったんだね。ほかの患者は?」

「肩を打った方は、向こうで休んでいます。フェルメノーメさんが……」


 言葉が途切れ、彼女は腕から手を離した。鏡を支えていた指が、白くなっている。


「お姉さんは、どこにいるんですか」


 姉の手首を握った感触と、握られた手首の痛みが、一緒に蘇った。どこまで口を開いたかも、その口が目の前へ迫ってきたことも覚えている。頭を包んだ生温かさが、喉を通る重さと重なった。


「ふふっ、何言っているんだい。ここにいるじゃないか」


 鏡が膝の上へ傾き、灯りが天井へ跳ねた。


「いったいどういう……」

「姉の記憶もある。君を眠らせた時、何を考えていたかもね」


 薬草を買い、布へ染み込ませた手順まで思い出せた。僕の手紙を読んだ時は、どうだったんだろう。思い出してみると、見慣れた自分の字の中から、傷の様子を書いた行を姉の指が追っていた。


 この身体の中で、何が起きたんだろうな。


 鏡を置いて立ち上がる。脚は少し重かったが、膝を伸ばしても皮膚は引き攣れない。シビラさんと向かい合って立てたのが嬉しくて、僕は彼女のそばへ寄った。


「シビラさん。僕、元気になったら、君に言いたいことがあったんだ」

「……グレインさん?」

「うん。君が好きだよ」


 顔を寄せると、シビラさんは僕の胸に左手を当てた。足が止まっても、その手は離れなかった。


「待ってください。……今は、無理です」

「僕じゃ、嫌?」

「あなたを見ようとしても、お姉さんの顔が見えるんです」


 僕は一歩下がった。



 好きだと言えたら、ずっと聞きたかったことが、もう一つあったんだ。姉の顔になる前の僕だったら、君も――。



 胸に当たっていた手が下りた。包帯を巻いた右手は、僕が近づく前からずっと身体の脇へ寄せたままだった。


「そっちの手は、まだ痛むのかい。指は曲げられる?」


 シビラさんは包帯の上に左手を重ね、僕の目をじっと見返した。僕が痛いのを隠していた時も、こうして目を覗き込む人だった。あの時は、僕の名を呼んでくれた。


「……どうして、お姉さんみたいな話し方をするんですか」


 そんな目をしないでよ、シビラさん。さっきまでなら、何を言ってでも、もう少しここにいたかった。僕は……。ただ君のことが……。



 ふふっ。今は女の指がどこまで動くのか、見せてもらえないことの方が気にかかった。



 私は机から鞄を取った。研究所に、以前の僕の配列を描いた図がある。今の血と見比べれば、身体のどこまで変わったのかは確かめられるだろう。修道女に背を向け、寝台の間を通って聖堂を出た。


「また来るよ、シビラさん」


 フェオリスの門を出ようとすると、兵士に呼び止められた。


「名前は」

「エリーゼだよ。君は、この前も呼び止めた人だよね。聞いてくれよ、弟の治療は成功したんだよ。立派な人さ」


 兵士は帳面をめくってから僕の顔を確かめ、門の外を示した。


「そうか、よかったじゃないか。弟も喜んでいるんじゃないか」

「僕は納得していないけどね。でも良い結果を得たよ」


 * * *


 ミゼルディアへ戻ったのは、翌日の夕方だった。馬車を降りた脚には、座り続けた重さが残っていたが、歩くたびに傷が開くことはない。地下研究所へ続く階段を下り、扉を押すと、机に向かっていた助手が椅子を引いた。


「エレア様! お帰りなさいませ。弟さんは、どうでしたか」

「ああ、傷は増えなくなったよ」


 鞄を机へ下ろし、壁際の棚へ手を伸ばした。ガラス板は上から二段目、その右に採取用の刃がある。目で探す前に場所が分かり、取り上げた刃も、使い慣れたもののように手へ馴染んだ。


「治療できたんですね……。よかった。本当に」


 助手がそばへ寄ってきた。手にした紙の束を机へ置こうとして、僕の指に当てた刃を見つけた。


「エレア様、何を」

「今の僕の血も、残しておきたい」


 指先を浅く切り、膨らんだ血をガラス板へ落とした。切ったところには痛みがあった。傷へ布を当て、顕微鏡の前へ座ると、助手が僕の横へ回り込んだ。


「お疲れでしょう。弟さんのことは、私が先に記録を――」

「弟? グレインならここにいるじゃないか」


 助手の手に残っていた紙が、机の縁へぶつかった。


 僕は鞄から、以前の自分の配列を描いた図を取り出した。胸から漏れていた魔力も、皮膚を裂いていた反応も、この紙へ細かく写されている。寝台で腕を削がれた時には、瓶に名前を刻まれただけだと思っていたのだが。


「ここを見たい。姉の比較実験の記録も出してくれ。自分の血を使ったものがあるはずだ」

「……グレイン様?」


 助手は紙を置き、僕の顔へ身を寄せた。頬へ触れかけた手が止まり、顎から喉元へ、確かめるように目が動いている。


「ですが、そのお顔も、お声も……エレア様は?」

「僕の身体を調べれば、姉の身体がどう取り込まれたかも追えるだろう。聖堂で僕が姉を食べた。その後から、ここのことまで思い出せるんだ」


 助手は僕の手首へ触れた。布を押さえていた手を少し開くと、指が内側へ回り、脈を探って止まった。


「生きて……いらっしゃるんですね」

「ああ。指を切ったら、ちゃんと痛かったよ」


 その指はすぐには離れなかった。顕微鏡の下で血の滴が薄く広がっていく間も、助手は拍動を数えるように、僕の手首を支えていた。


 僕は空いた手で図を寄せた。今ある血を先に見なければ、採ったばかりの反応を逃してしまう。助手が手を離すと、指の傷へ布を当て直し、レンズを覗いた。


 魔力の筋を含んだ細胞は、輪郭を保っていた。傍らの小さな細胞が近づいても、膜へ食いつく様子はない。以前の図を脇へ寄せ、攻撃が始まっていた位置から配列を追うと、鎖の並びが途中から合わなくなった。


 助手が探し出した姉の図を重ねると、その先に対応する並びがあった。元の僕の配列が残る部分と、新しく入り込んだ部分が、一本の鎖の上で続いている。


「ここの組み合わせが変わった。魔力を隠すつもりが、身体ごと作り替えてしまったんだね」

「それで、病が……」

「今は攻撃されていない。痛みも漏出も止まった。薬を使っただけの時は、まだ傷が増えていたんだがな」


 僕は現在の配列を描き、二人分の図と並べた。指先の布に血が滲んでも、腕に新しい亀裂は生じなかった。助手はその布と、顕微鏡の横に置いた図を見比べていた。


「お姉さんの記憶も、本当にあるのですか」

「君が弟を亡くしたことも、僕の手紙を読んで泣いたことも覚えているよ」


 助手の目が僕の顔へ戻った。唇を結び、何か言いかけてから、机へ置いた記録の端を揃えた。僕は顕微鏡の横に並べた図から、まだ聖堂の寝台にいた頃の僕の配列を描いた一枚を手前へ寄せた。



 あの頃の僕の顔で、もう一度シビラさんに会いたい。



 僕の顔を見て、それでも嫌だと言うだろうか。今度は返事を聞くまで、そばにいたい。顔だけなら、元に戻せないか。あの頃の身体にまで戻してしまえば、また皮膚が裂けるかもしれない。


 指に巻いた布をずらしてみたが、刃を当てたところに血が滲んでいるだけだった。変わったところを少しだけ元へ戻したら、その隣の組織はどうなるんだろうな。


「グレイン様。明日は、生徒さんたちの腕も診てくださいますか」


 助手が記録の下から腕の図を引き出した。精霊男、いや、アトス君の右腕だ。精霊を取り込む前に、あいつの指から採った血も残してある。



 そうか。ネズミはいるじゃないか。



「アトス君は、まだあの精霊を呼びたがっていたね」

「ええ。あの子の腕、まだ痛むんでしょうか」

「先にあいつを診よう。右腕をどこまで戻せば、また外へ呼べるか、私も知りたい」


 助手が図から手を離し、僕はそれを自分の標本のそばへ置いた。アトス君も、もう一度あの精霊に会いたいんだ。僕と同じなんだ、手を貸してやらないとな。



 ふふっ、僕は人さ。



 助手が現在の標本を記した紙へ目を通し、二人分の図と一緒に束ねた。


「研究結果は、私から王国へ報告して参ります」

「じゃあ僕は、生徒たちの実験の準備をするよ」


 助手が扉へ向かった。手にした紙を胸元へ抱え直してから出ていくと、研究室には、僕が図を広げる音だけが残った。


 次の標本を載せる場所を空け、ガラス板を灯りの下へ並べた。

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